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ミニ経済学史(9)

新古典派の時代(2):「限界革命」って何?

 新古典派の時代(1870年代~1930年代半)の始まりは「限界革命」と呼ばれている、ということだった。この「限界革命」とはどういう意味だろうか。このような言い方で私がすぐに思い付くのは「限界集落」であるが、この言葉の意味は、共同体が共同体としての機能をかろうじて保持している過疎化した集落、ということだろう。この場合の「限界」は「ぎりぎりの」といった意味になる。「限界革命」とは「ぎりぎりの革命」?。何のことだかさっぱり分からない。教科書④の説明を読んでみよう。

 新古典派以降の経済学では、「限界効用」「限界代替率」「限界費用」「限界生産力」などなど、「限界何々」という用語がたいへん多く使われている。この中で、例えば「限界生産力」の「限界」を通常の意味で解釈すれば
「これ以上は生産できない最大限ぎりぎりの生産力」
という意味になろう。しかし、さにあらずと言う。

 念のため「限界生産力」を英語では何というのか調べてみた。「marginal productivity」(研究社版和英辞典)だった。次ぎに和英辞典で「marginal」を調べたら、経済学用語の意味として「かろうじて収支の償う」とあり、項目「marginal」内での熟語例として「marginal sales=収支とんとんの販売」「marginal profits=損をしない程度のもうけ」とあった。何のことはない。「限界」を通常の意味で解釈している。ところが独立した項目として次のような例があった。
「marginal land =(耕作の)限界地《収益がかろうじて費用を償うような生産力の低い土地》」
「marginal revenue=限界収入《産出物を1単追加供給するときの総収入の増加額》」
「marginai utilit=限界効用《ある財・サービスの消費を1単位増す時に得られる満足の増加量》」

第一の例は「限界」を通常の意味に使っているが、この場合はこのような意味でしか有り得ないだろう。後の二例は「限界」の通常の意味とはまったく異なるが、いかにも経済学っぽい。教科書④に戻ろう。

 経済学では「限界何々」という場合、後の二例のような意味である。教科書④は「こんな誤解を招く言葉遣いは、本当はやめた方がいい。しかし仕方ない。いまさら変えたら経済学の世界全体の言葉遣いを書き換えなければならない。こっちが慣れるしかない。」と言っている。原文がいけないのか、翻訳がいけないのか、どちらか分からないが私のような門外漢にとっては迷惑なことではある。ともあれ、教科書④は「限界」の意味を次のように説明している。

 「限界何々」とは『別の何かを1単位増やしたときの、「何々の増加分」』という意味である。例えば
「限界効用」は
 「消費を1単位増やしたときの効用の増加分」
「限界費用」は
 「生産量を1単位増やしたときの費用の増加分」
「限界生産力」は
 例えば労働の場合で言えば、
 「労働投入を1単位増やしたときの生産の増加分」
「限界消費性向」は
「所得が1単位増えたときの消費の増加分」ということである。

 教科書④は「これは、数学的には微分のこと」だと言っているが、ここまでの説明では除法の意味の一つである「1当たり量」に過ぎなく、微分ではないのだけどなあ。でも、本論では「微分積分一切なしで話を進める」と言っているので、「微分係数」の代用として「1当たり量」を用いていると理解して先に進もうと思うが、一応上に挙げた例を「微分」を用いて言いかえて置こう。

「限界効用」=「効用を消費量で微分したもの」
「限界費用」=「費用を生産量で微分したもの」
「限界生産力」(例えば労働の場合で言えば)=「生産量を労働投入量で微分したもの」
「限界消費性向」=「消費を所得で微分したもの」

 また、新古典派の学者たちが微分を使い始めた理由は次のように説明されている。

 彼らは「最適化」(人はみな、自分にとって一番トクになるような行動をする)という概念を導入した。これは初めは、
「消費者が自分の満足度を一番大きくする消費の組み合わせを決める決め方」
を考えることから始まり、
「企業が自らの利潤を一番大きくする生産量を決める決め方」
にも応用されるようになった。(「満足度」や「利潤」の最大値は、グラフで言うと微分係数が「=0」の点を求めることになる。つまり微分だ、ということらしい。)

 微分によって得た各消費者にとっての最適な消費量を、各財ごとに、社会全体の全消費者について合計すれば、各財の需要量が求まる。さらに、各企業にとっての最適な生産量を、各財ごとに、社会全体の全企業について合計すれば、各財の供給量が求まる。その需要量と供給量が市場メカニズムによってちょうどつり合うところで均衡の価格が決まる。こういう理屈の構造を作り上げたのが新古典派だそうだ。

 ところで、「リベラル21」というサイトに、盛田常夫(在ブダペスト、経済学者)さんによる「地獄への道は善意で敷き詰められている」という記事(2013.09.21付)がアップされていた。その記事の書き出しの文章に、私の経済学に対する不信感の核心がズバリと指摘されていた。次のようである。

 いったい経済学は科学かそれともイデオロギーか。これは古くて新しい問題。一昔前、マルクス経済学はイデオロギーで、「近代経済学」は科学と断言する学者が多かったが、何のことはない、マルクス経済学が姿を消したら、「近代経済学」のイデオロギー性も明々白々になってしまった。経済学の理論分析は現実分析からかけ離れた「頭の体操」の域を出るものではなく、ほとんどの理論が経済政策にまったく役立たない。だから、多くの政治家は経済学を勉強しなくても、GDP成長率を語り、専門家のように経済政策を語る。経済学など学ばなくても、経験だけで政策を語ることができる。

 経済学の現状がこうだから、政治家に助言しているという「学者」も、理論的分析に裏付けられた政策を提言しているわけではなく、たんなる「勘」で話を作っている。ところがその「勘」も当てにならない。会社勤めの経験もない学者の「勘」など、現実の経済運営にあまり役立たない。会社経営者の方がよほど気の利いた提言ができる。経済学が扱っている理論と現実政策との間には埋めることのできない距離があるから、政策の正当性を理論的に評価することすら難しい。金融政策効果をめぐって経済学世界が二分されている現状はそのことを物語っている。経済学がまだ科学のレベルに達していない証左であることは確かである。金融緩和政策の評価すら明確にできない学問が、「科学」の冠をいだく資格はない。

 これは今日の経済学会に対する批判である。では、経済学に微分を導入しただけの新古典派の理論が「革命」と呼ばれるほど科学的だろうか。いま学習を始めたばかりの私にこの問題について何かを判断する資格はない。いまはただ学習を続けるばかりだが、「限界革命」でネット検索していたら、永井俊哉さんの「限界革命はどこが革命なのか」という記事に出合った。この記事の初めの一節を引用しよう。

 1870年代に、メンガー・ジェボンズ・ワルラスの三人が、独立に限界原理を提唱した。彼らの仕事は、当初は異端として無視されたが、その後、経済学の主流となる近代経済学の出発点として位置付けられ、限界革命と呼ばれている。では、限界革命は、どこが革命的だったのか。

1. 限界革命とは何か

 経済学における「限界 marginal」という形容詞は、哲学における「超越論的」という形容詞と同様に、難解な合成語を作る元凶と一般に思われているが、限界原理は、それほど難しい概念ではない。限界値とは、消費量をもう少し増やした時に得られる追加的な効用や資本をもう少し増やした時に得られる追加的な生産物などを表すのに用いられる。限界原理によれば、消費量や生産量はこうした限界値によって決定される。

 ジェボンズは、「限界効用」という言葉は使わず、「最終的効用度 final degree of utility」という言葉を使っていた。しかし、後世の経済学者たちは、「最終」ではなく、「限界」なる語を使うようになった。その理由は不明だが、「限界」という言葉の方が微分学と親和性が高いことを理由として挙げることができるのではないだろうか。ドイツ語では、「限界効用」は"Grenznutzen"、「極限値」は"Grenzwert"というように、同じ"Grenze"という語を用いる。微分学における極限値とは、"関数の変化量/変数の変化量"で表される変化率が、変数の変化量が限りなくゼロになる時に、限りなく近づく値のことで、微分係数とも言われる。限界値は、代数学的に言えば微分係数であり、幾何学的に言えば曲線の傾きである。

 限界革命により、経済分析に微積分が使われるようになり、経済学は、少なくとも外見上は、科学的になった。現在の職業的経済学者たちは、高等数学を駆使することにより、自分たちの仕事が科学的であるという印象を周囲に与え、政府から補助金をもらうことに成功している。彼らが、自分たちの飯の種を作ってくれた変革に敬意を表して、限界革命を「革命」と呼びたくなる気持ちはよくわかる。しかし、たんに既に自然科学で使われていた微積分を導入したというだけなら、それは一種の技術革新であって、革命とは言えない。限界革命には、思想的なパラダイム転換としての側面はなかったのだろうか。

 「革命」ではなく「一種の技術革新」と判断している。そして、次の節以降で「思想的なパラダイム転換としての側面」の検討を行っている。

 今回紹介した二論文はともになかなか面白い。必要が出てきたらお世話になろうと思っているが、いまは基礎学習をしているところである。教科書④に戻ろう。
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