2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
ミニ経済学史(7)

古典派の時代(6)―K.マルクス(2)・マルクスの今日的意義

 マルクスがリカードから継承発展させた理論のもう一つが労働価値説であった。リカードの労働価値説を不徹底だった点を徹底させことによって搾取論が生まれたと言えるかもしれない。リカードの労働価値説の問題点を「リカード(1)」から転載すると次のようであった。

『このようにして決まる長期的な均衡価格を、リカードはスミスにならって「自然価格」と呼んだ。しかし、リカードの時代では自然価格と投下労働価値のズレせいぜい7%ぐらいだったという。従ってリカードは、以上の議論に関わらず、賃金問題の本質論を行う時は、投下労働価値通りの価格を想定して議論を行っている。』

 これに対して、マルクスはリカードの言う「自然価格」をキチンと計算して、それを「生産価格」と呼んだ。賃金も含む生産コストに、どこの部門でも同じくらいもうかる均等利潤率の分の利潤を足し上げて決まる価格のことである。そして、資本主義経済の市場で決まる諸事象をすべて生産価格を用いて解明していった。

 ここで一つ問題点がある。これまでの搾取論では投下労働価値価格で説明がされていた。その説明は生産価格を用いても通用するのだろうか、という問題である。この問題は「総計一致二命題」と言うそうだ。次のように説明されている。

「経済全体での全商品の総生産価格=総投下労働と、総利潤=総剰余労働とが同時に成り立つ。」

 マルクスのこの命題は成り立たないことが、1955年に置塩信雄という学者によって数学的に証明されたという。その結論は次のようである。
『価格が投下労働価値で決められても、生産価格で決められても、さらに言えば、他のどのよう根拠で決められても、利潤が出ていたらその背後に必ず労働の搾取がある。」

 これは「マルクスの基本定理」と呼ばれている。詳しく知りたいものとネット検索をしてみたら、なんと、この証明が松尾匡さんのホームページに転載されていた。線形代数の理論が用いられている。興味のある方はどうぞ。
「マルクスの基本定理」

 これによると、資本主義経済はどのように対等・公正な取引であっても必ず搾取がつきまとう、ということになる。では、搾取のない社会は可能なのだろうか。マルクスはどのように考えていたのだろうか。

 資本主義市場経済は、長いスパン見れば、社会全体のバランスのとれた仕事の配分とか、自由・対等・公正な人間関係とか、生産力の増大とか、世界の普遍化とかをもたらしてきた。これは資本主義の功績であり、資本主義の発展は次の新しい社会の基盤を用意しているととらえることができる。しかし、短いスパンで見たときの資本主義は、不均衡な景気の波とか、不正な弱肉強食とか、そんな正反対の歪曲がいつも起こっている。そして、マルクスの時代ではこの短期的な歪曲がどんどん高じてきて、労働者の置かれた状況は悲惨なものだった。

 エンゲルスに「イギリスにおける労働者階級の状態」という著作がある。教科書④はその著作には、リバプールの労働者の平均寿命が15歳だとか、マンチェスターの労働者の子供は57%以上が5歳にならないうちに死亡するとか、……等々が書かれていると紹介している。直接読んでみたいと思い、図書館検索をしてみたら、『マルクス・エンゲルス全集2』(大月書店)に収録されているのでそれを借りてきた。短い報告論文かと思っていたが、「著者自身の観察および確実な文献による」という副題が付けられていて、二段組みで300ページ近い分量の本格的な著作であった。この著作に「大都市」という章があり、大都市の工場労働者の惨状が具体的に克明に描かれている。この章の「まとめ」を引用しておこう。

 さて、最後に、これまで述べてきた事実を、もう一度簡単に要約しよう。

 大都市にはおもに労働者が住んでいる。この大都市では、ブルジョアー人にたいして、最良の場合で労働者二人、しばしばまた三人、あちこちでは四人の割合である。これらの労働者は、自分ではまったく財産というものをもたず、きまったように手から口に消えていく労賃で生活している。文字どおりの原子に解体した社会は、労働者たちのことなど考えもせず、労働者が自分自身とその家族の面倒をみるのは、労働者にまかせておきながら、こうした面倒を、有効かつ永続的にみることのできる手段を、労働者にはあたえないのである。したがって、どの労働者も、たとえもっとも恵まれた労働者でも、たえず失業、つまり餓死の危険にさらされているのであって、そして、多くの労働者が飢餓のために死ぬのである。

 労働者の住宅は、一般に配列が悪く、建て方が悪く、修理が悪く、通風が悪く、湿気が多くて不健康である。その居住者は、極度に小さな空間に詰めこまれていて、たいていは、一つの家族が一つの部屋で寝る。住宅内の設備は貧弱で、絶対に必要不可欠な家具さえまったくないというひどいものにいたるまで、その段階はいろいろある。

 労働者の衣服も、やはり一般に貧弱で、大多数はぼろぼろである。

 食物も一般にわるく、しばしばほとんど食えないようなしろもので、多くの場合、すくなくともときどきは量も不足するので、ひどいときには餓死することもある。

 このように大都市の労働者階級は、さまざまな段階の生活状態を示している ― いちばんうまくいった場合には、一時はまあまあわるくない生活ができ、激しい労働のかわりによい賃金や、よい住宅や、けっしてわるくない食物がえられる ― もちろん、すべて労働者の立場から見て、よいのであり、わるくないのである ― 最悪の場合には目もあてられない貧困に陥り、ついには浮浪人となり、餓死することにもなる。だが、平均してみると、最善の場合よりも最悪の場合のほうにはるかに近い。そしてこの段階は、たとえば固定した階級のようなものに簡単に区分されてはいない。そこで、労働者のうちこの部分はいい暮しをしているが、あの部分はひどいとか、またこのような状態はそのままつづくし、すでに以前から存在していた、というようなことは言えない。はっきり言えることは、たとえあちこちでこのような状態が実際にあるにしても、たとえ二、三の労働部門が全体として他の労働部門より上位にあるにしても、各部門内の労働者の状態も実際はなはだしく動揺しでいるので、どんな労働者でも、比較的気楽な状態と極端な欠乏、それどころか餓死とのあいだに存在する全段階を、ひとりひとり経験するようなこともおこりうるのである ― だからまた、ほとんどひとりひとりのイギリスのプロレタリアが、いちじるしい運命の移り変わりについて物語ることができるのである。いまやわれわれは、その原因をやや詳細に考察することにしよう。(岡茂男訳)

 さて、労働者をこのような状況に追い込む資本主義の短期的な歪曲をなくすにはどうしたらよいのだろうか。

 バブーフ、サン・シモン、ブランキなどは次のように考えた。
「国家権力を奪取して、産業を国有化する。そして、エリートが上から合理的に管理して、みんなに貧困のない平等な暮らしをもたらせばよい。」

 この方法ではその社会は一部の者の独裁社会に堕落するのは目に見えている。現在の私たちはソ連という恰好の悪例を示すことができる。しかし、ソ連の崩壊をもって「マルクス主義は終わった」としたり顔で論じる評論家や学者がいるが、ソ連はマルクスが描いた未来社会とはまるで異なる。マルクスは未来社会像を「アソシエーション(協同組合的社会)」と呼んでいた。また、アソシエーションへの移行の過程では「プロレタリア独裁」が必須だとも言っているが、ここで言う「独裁」も一般に流布されている通俗的な意味の「独裁」と同意味に誤解されている。これらの問題については、私は『アナーキズムについて』『ロシア革命の真相』『吉本隆明の「ユートピア論」』『「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか』などで取り上げてきたのでここでは繰り返さないが、教科書④がとらえている「プロレタリア独裁」の意味を紹介しておこう。

 マルクスが「独裁」と言ってるのは当時のイギリスの立憲政治を念頭においた上での発語である。すなわち、当時のイギリスの立憲政治と正反対のものという意味を込めている。当時のイギリス政治は、慣習法が支配していて、内閣も議会も、勝手にそれを動かすことができなかった。いわばそれはしばりであり、政府は何もしてはいけないというような国家だった。マルクスはそれと正反対に、民意を民主的に反映した上で、何でも決めて意のままに実現できる国家という意味で、『独裁』と言った。

 現在では「プロレタリア独裁」という移行過程を経ずにアソシエーションへの移行が可能であることを示す試みが多く行われている。松尾さんのホームページに「用語解説:アソシエーション論」がある。そこではアソシエーション論の今日的意義も説かれている。松尾さんはアソシエーションへの移行の可能性を示す試みとしてNPO・NGO・協同組合を挙げている。私は「企業経営の社会主義化」と「企業経営の社会主義化・日本編」で企業の中にもそのような兆候が現れていることを指摘している。

 さて、最後に松尾さんのマルクス評価を紹介して、「古典派の時代」を終わろう。

 マルクスが提出してきた諸理論は理論的に完成していない。特に経済学についてはそうである。『資本論』で主に分析されているのは、長期均衡体系で、短期的な不均衡の分析は本格的には手がけられていなかった。ましてや、両者の間の関係の分析など、全然手つかずである。そしてその問題はその後も誰もやっていない。長期均衡体系を数学的に厳密に分析した研究や短期不均衡的体系を数学的に厳密に分析した研究はたくさんあるが、短期的な不均衡の動揺を長期的に平均したら、長期均衡体系が設定できるといったことを、数学モデルで厳密に説明することは、おそらくまだ誰もやっていないようだ。でもこれができない限り、マルクスの経済学の現代化は完成しない。

 現在、資本主義が19世紀当時に先祖帰りしていて、企業の都合だけで労働者が使い捨てられてる。保障もない低賃金で苦役に耐えるワーキングプアが増えている。正社員も過労死寸前までこき使われている……。このような状況を鑑みて、「マルクスの資本主義批判の視点をもう一度」とか「マルクス復活を」というような風潮が生まれているが、このような議論は、そのような議論で終わっている限り、無意味である。その議論で現在の問題が解決できるわけがない。

 マルクスを学んで一番わかることは、彼は体制をひっくり返そうという立場にいたにもかかわらず、当時の押しも押されぬ支配体制側の主流派経済学のリカード経済学を一生懸命勉強して、それをすっかり自分のものにして議論しているということである。そして、いろいろな社会問題を究明するのに、悪者探しをして不正な企みを暴こうなどという基本姿勢はとらなかった。あくまで原則は『経済学的発想』に立って、そんな問題がもたらされる、人為を離れた客観的仕組みを分析しようとした。そして、自分に先行する他人の議論を取り入れることに貪欲だった。しかも、そこに互いに対立する潮流があったとき、対立に目を奪われて片方だけについてもう片方を切り捨てるのではなく、中途半端な折衷をするのでもなく、両方ともを徹底的に検討して、ひとつの体系の中に総合しようとした。このようにしてそのときまでの人類の英知を総合したからこそ、巨大な影響力のある学説を作り出して、この世の中が少しでもましな方向に動くために貢献したのだった。

 今、資本主義の現状を批判している人達に、往々にして一番欠けているのは、こういう姿勢だと思う。だからこそ、まさにこの点において、今マルクスを学ぶ意義がある。

 以上が松尾さんのマルクス評価である。なお、松尾さんの著作の中に『「はだかの王様」の経済学:現代人のためのマルクス再入門』があった。いずれ読んでみようと思っている。
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