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ミニ経済学史(6)

古典派の時代(5)―K.マルクス(1)・剰余労働と搾取

 マルクスについては多くの人が論じているので、マルクスには読書を通して度々出合ってきた。マルクス自身の著作物もいくつか読んだことがあり、マルクスについてはある程度予備知識を持っている。しかし、『資本論』はちょっとだけ拾い読みをした程度なので心許ない。初心に戻って、これまで通り教科書④に沿ってまとめることにする。

 まずはマルクス経済学のキーワードの確認から。

資本主義社会

 「資本主義」という概念はマルクスが使い始めたと言われているが、正確にはマルクスは「資本主義的生産様式」と言っている。以下では、一般に流布しているように、「資本主義的生産様式」という意味で「資本主義」という言葉を用いることにする。

 では、「資本主義社会」とはどのような社会だろうか。それはまずは「商品生産社会」である。教科書④の説明はとても分かりやすい。次のように説明している。

 社会全体が分業で成り立つようになって、例えば、パンばかり作る業者・靴ばかり作る業者・鉄ばかり作る業者……とかに分かれていく。しかし、それぞれの業者は世の中全体でパンがどれだけ必要か・靴がどれだけ必要か・鉄がどれだけ必要か……を知らないで仕事している。こういう社会では、とりあえず見込みで作ったものをあとから交換することになるが、その交換がスムーズにいくためには交換の仲立ちになるものが必要である。それが「貨幣(おカネ)」である。このような仕組みになると、おカネがないと自分に必要なものが手に入らないわけだから、みんなおカネもうけを目的にして仕事をするようになる。このような社会を「商品生産社会」という。

 しかし、資本主義社会は一人一人がみんな独立の自営業者であるというだけの「単純商品生産社会」ではない。スミスは主として単純商品生産社会をイメージしていたようだが、資本主義社会は単なる商品生産社会ではなく、「階級社会」でもある。この観点を明確に打ち出したことがマルクスの理論を一際輝かしいものにしている。

 言うまでもなく、資本主義社会だけが階級社会ではない。歴史上のどの国家も階級社会であった。資本主義社会は「商品生産社会」であり、かつ「階級社会」である点が際立った特徴となっている。つまり、資本主社会では資本家が支配階級であり、労働者(これも言うまでもなく、大学教授や勤務医なども労働者である)が被支配階級である。そして、どのような階級社会にも支配階級による被支配階級からの「搾取」があったように、資本主義社会にも歴然とした搾取がある。では、資本主義社会の搾取とはどういうものだろうか。

剰余労働

 商品生産社会での商品取引は建前としてはあくまでも「自由対等」である。現在のブラック企業のようなあからさまな不当搾取は置いて、資本主義社会の本質論として「搾取」をとらえると次のようになる。

 労働者は労働力を売って賃金を得る。これも一種の商品取引であり、賃金も対等公正に等価が支払われることになっている。つまり、労働の正当な見返りが賃金であり、出資の正当な見返りが企業(資本家)の利潤とみなされている。しかし、実際にはこの取引は等価交換にはなっていない。なぜか。

 労働者は食事や衣服などの生活物資を使って売るための労働力を生産している。そこで消費されている生活物資を作るのにかかった労働量と等価に賃金が払われていれば、公正な等価交換と言える。しかし、資本家に雇われて働く労働者が提供する実際の労働量はその等価交換とはまったく別ものである。労働者は労働力を作る生活物資を生産するのにかかってる労働量よりもずっと多くの労働量で働かされている。その余分に働かされた労働をマルクスは「剰余労働」と呼んでいる。資本家の利潤とは労働者から搾取した剰余労働のことである。そして、資本家はこの利潤で新しい投資をしたり、自分の贅沢を満たしたりなど、いろいろ好きに用いることができるが、本来それを生み出した労働者は、その使い道に一切口を出すことができない。これが資本主義社会における搾取の正体である。

 しかし、「搾取」は次の例のように誤解されていて、この誤解が一般に流布しているようである。

プルードン
 大資本の利潤は不等価交換でだまし取ってきたものであり、「財産は盗みだ」。
デューリング
 この世の不正の基本は、強者が弱者を力で食い物にするモデルで説明できる。資本主義の利潤も、買い手の足下を見て供給を抑えて値段をつり上げることから生まれる。

 このような見解は現実から拾い集めた断片を本質と誤解したものである。だまし取るような詐欺的取引も、価格つり上げも、弱肉強食もいっぱいあり、いつも誰かが必ずやっていることかもしれないが、一時的な現象であり長続きはしない。市場経済においては競争が働く以上、長い目で見れば、特別にトクする者もいないしソンする者もいない。結局、対等公正な取引が残る。使用価値で見れば、取引当事者双方ともにトクをする。

 マルクスの搾取論はひとつの会社のなかで利潤と賃金の取り合いをするとか、自営業の職人が大企業に製品を買いたたかれるとか、そんなレベルの議論をしているのではない。稼働している社会全体の労働のうち、どれだけの割合が労働者向けの商品の生産に関わり、どれだけの割合が資本家向けの商品の生産に関わっているのか、その割合がどう変化するかという問題を論じている。これを考えるには、リカードの古典派経済学の考え方を踏襲しなければならない。マルクスはリカードを徹底的に勉強して、それを引き継ぎ、その矛盾した所を正して筋を通して完成させたのだった。

 「ミニ経済学史(1)」ではリカードを「市場肯定派」に、マルクスを「市場批判派」に分類したが、マルクスは長期的なスパンではスミスやリカードと同じく市場メカニズムの働きを認めている。では、リカードとマルクスの違いは何処にあるのだろうか。市場メカニズムとはおおよそ次のような仕組みのことである。

 資本主義市場経済では、あるときは景気が過熱して全般的に需要超過(品不足)となったり、別のときには恐慌の落ち込んで供給超過(売れ残り)になったり、あるいはあるときにはある業界が儲かるけど別のときにはまた別の業界が儲かる、というような変動を延々繰り返している。しかし、長期的なスパンでは、売れ残りも品不足も相殺されて、部門ごとの儲かりかたの違いも相殺されて、世の中の欲求と生産がつりあった均衡が実現されることになる。

 しかし、この均衡はあくまでも変動の平均であり、ある時点でスムーズに落ち着いた先というわけではない。現実にはどの瞬間にも均衡していることなどない。永遠に均衡に落ち着くことはない。マルクスは、長いスパンで見た均衡ではなく、現実の好不況の変動場面を研究対象にしている。この場合は、スミスやリカードの経済学は無力である。

(ここで私の感想。私は度々、スミスやリカードが用いている論理のことを「風が吹けば桶屋が儲かる」的理屈と書いたが、このことが念頭にあって出てきた言葉だった。)

 さて、「搾取」に戻ろう。
 恐ろしいことに、資本主義社会は対等公正な取引において誰の悪意でもない搾取が生まれるシステムなのだ。誰の悪意でも陰謀でもなくて、いつの間にか物価が上がって搾取が高まっているということもある。例えば、資本家がみんな慈悲深くなって、費用を除いた収入をみんな賃金にして労働者に分配したとしよう。つまり、搾取をゼロにした。その状況で資本家達が銀行から借金して新しい工場を建て始めたとする。機械や工場を作る労働者が増えるのだから、彼らの食べる消費財の分をなんとかしなければならなくなる。そのためには、消費財を作っている労働者が余計に働くことになるか、労働者各自が自らが手にする消費財の量を減らすか、そのどちらかを選ぶことになる。なんのことはない、労働者みんなに搾取が発生してしまう。別に、賃金をケチるだけが搾取なのではない。

(「対等公正な取引において誰の悪意でもない搾取が生まれる」例として、実は私は上の例の論理を納得していない。もっと適切な説明がないものだろうか。)
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