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ミニ経済学史(3)

古典派の時代(2)―A.スミス

 前回、「神の見えざる手」という常套句を紹介したが、さっそくこの常套句に出合った。東京新聞の「本音のコラム」の文章を度々拝借しているが、竹田茂夫(法政大教授)さんの文章が最も多かったように思う。今回も竹田さんのコラムである。

知と経済権力

 世界的な製薬大手の日本法人が、薬の臨床試験でデータ操作をして推定四百億円の不正な利益を得ていたことが明るみに出た。製薬業界と医学研究の怪しげな関係が相次いで報道されて、「企業と研究者は襟を正せ」式の議論が行われている。だが、復活した原子力ムラで国民が思い知らされたように、問題は倫理より構造なのだ。

 市場経済は利潤追求という強力なエンジンで突き動かされている。私利の追求は「神の見えざる手」に導かれて全体の利益になるどころか、このエンジンは経済の領域を超えて政治や法に介入しメディアや学問を支配しようとする。薬の知的財産権を強調しすぎれば、後発薬が違法とされて途上国貧困層に入手不能になる。つまり人の命にかかわるのは自明なのに製薬大手はそんなことはお構いなしだ。

 カネの力は個々の研究から社会観まで広く深く知の世界に浸透する。米連邦準備制度理事会(FRB)の次期議長に取りざたされる元財務長官のサマーズ氏は、回転ドア(官民双方向の人材流用)の慣行がいきわたっている米国でも特にウォール街との関係が深いとされる。個別企業や金融業のための利益誘導だけが問題なのではない。1990年代から金融の規制緩和を主導して住宅バブルを引き起こしたサマーズ氏の考え方そのものが、俎上に載せられている。

 上記記事中の後発薬の問題はTPP陰謀の一つでもある。いまや市場を突き動かしているものは「悪魔の見えすいた手」だ。日本でも悪魔(1%の守銭奴)の傀儡政権がこれを駆動する強力エンジンとなって猪突猛進を始めている。本日(18日)の東京新聞のトップ記事は「進む雇用不安 労働者増、実は正社員減」だった。

閑話休題。

アダム・スミス の続き

一国の富は貨幣ではなく、年々消費できる生産物である。

 重商主義者は一国の富の尺度を貨幣(金銀)と考えた。この考えでは、国内の取引の利潤は国全体では相殺されてゼロだから損得なしということになる。それに対して、貿易差額は世界全体ではゼロであるが、どっかの国がトクをし、どっかの国がソンすることになる。従って、国内の競争はなるべく抑えて、外国から収奪しようという発想になる。つまり、国際関係を食うか食われるかの関係とみなすことになる。

 これに対して、スミスは次のように考える。国全体の富は年々消費できる生産物にある。二つの国がその生産物の過不足を交換し合って補い合うのが貿易である。その貿易によって国内で消費できなかったものが消費されることになり、どちらの国にとっても利益となる。つまり、国民を豊かにする施策は、貿易差額で儲けるのではなく、年々の消費のための生産物を増やすことにある。

分業で生産力をアップせよ。そのためにも自由貿易などで市場を拡大することが必要。

 『国富論』冒頭に有名なピン工場の挿話がある。
 一人の職人がピンを最初から最後まで一人で作ろうとしたら、1日20本はおろか、おそらく1本も作れない。しかし、10人が作業を分けて分業する工房では、1日で4万8000本のピンを作っていた。つまり、一人当たり4800本も作っていることになる。桁違いの生産性の増大である。
 では分業を発展させるためにはどうすればいいか、
 例えば「荷運び人」という職業は、小さな田舎町では客が少なくて商売にならない。結局各自が自分でやるしかない。しかし、大都会なら客を恒常的に得ることができ独立の商売になる。つまり、市場の規模が大きくなればなるほど、いままで分業できなかったものも分業できるようになる。だからこそ、自由貿易が必要ということにある。

不生産的労働を生産的労働にまわして資本の蓄積を進めれば、さらに生産は増大する。

 工場制手工業から工場制機械工業へと大きな変化(いわゆる「産業革命」)が起こったのは、ちょうど『国富論』が出たころである。機械の導入が増えれば、分業はますます発展する。すると、実業家は「不生産的労働」(例えば家事のための奉公人を雇うなど)を抑えて利潤を「生産的労働」(道具や材料や機械を買い増すなど)につぎ込むことが重要事となる。それが「資本の蓄積」である。

正確な価値を測る物差しは何か。「使用価値」?「交換価値」?

 重商主義者は、「貨幣こそ富」と考えていたから、貨幣で表した価格を豊かさの物差しとしていた。その伝でいくと、生産物の量が変わらないままでも、「物価が2倍にると生産額が2倍になったのだから、国は豊かになった」というバカげた判断が可能になる。

 経済学的発想からは、使用価値・交換価値という概念がよく使われるが、これらは正確な価値を測る物差しとして使えるだろうか。スミスは「否」という。この二つが矛盾することを「水とダイヤモンドのパラドックス」という比喩を用いて説明している。

 人間にとって水ほど使用価値の高いものはないが、交換価値はとっても低い。それに対してダイヤモンドは使用価値は低いけど、交換価値はとっても高い」

 商品どうしが交換される割合がどうやって決まるかということの解明のためには、商品の有用性は関係ない、ということになる。

商品の交換価値の実質的尺度は、生産のために投下された労働である。

 その商品を生産するために必要な労働の総計値がその商品の価値を決める実質的尺度となる。もちろん、労働の質(例えば修業に10年かかる仕事の1時間は単純労働の1ヶ月以上の労働に匹敵するというような)も勘案した上での総計値である。

 ただし、実際の交換価値は、公正に評価された労働に見合う賃金のほかに利潤(設備投資の回収とさらなる資本蓄積)・地代(特に農業の場合)を加えたものとして決定される。

文明が発達すると、正常な率の賃金と利潤と地代を足したものが交換価値を決める。それをスミスは「自然価格」(市場価格変動の重心)と呼んだ。

 スミスは「自然価格」を「市場価格変動の重心」と説明しているが、それでは「市場価格」とはなんだろうか。

 スミスは労働の量を「交換価値の実質的尺度」と考えたが、もちろん商品の価格には使用価値もおおいに関わってくる。多くの人が必要とする商品の量に対して生産量が足りなければその商品の価格は上がるだろうし、逆に人々が必要とする量以上の商品が生産されれば価格は安くなる。このように商品の価格は人々が主観的に感じている使用価値によって左右される側面もある。スミスはそれを「市場価格」と呼んでいる。自然価格と市場価格の関係は次のように説明されている。

 市場価格が自然価格よりも高いと、その商品を作る業者が増えて生産量が増え、市場価格は下がる。市場価格が自然価格よりも低いと、その商品を作る業者は減って生産量が減り、市場価格は上がる。だから、市場価格を自然価格に引き寄せる力がいつも働く。結局、変動の重心になる自然価格についてみれば、主観的な使用価値ではなくて、生産側で客観的にかかるコストだけで決まってくる。

 さて、以上がスミス経済学の概略だが、この学説には一つ混乱がある。

スミスは投下労働価値と支配労働価値を混同していた。

 スミスは最初、商品の価値が労働で決まるとみなしたとき、次のように説明している。

「商品Aと商品Bが交換される時、A所有者は商品Aの提供でもって、商品B生産に直接間接に投入された労働を支配し、B所有者は商品Bの提供でもって、商品A生産に直接間接に投人された労働を支配することになるから、両者が等しくなるように交換価値は決まる。」

 つまり、商品の交換割合はその商品を作るために直接間接にかかる労働で決まるという、価格の決まり方についての主張だ。これを「投下労働価値」と言う。ところがその後、文明が発達して利潤や地代も価格に付け加わると言った後で、それでも労働が基準というのは変わらないとした。それを次のように説明している。

「1ポンドの値段の商品どうしが交換されているなら、それぞれの商品と引き換えに支配できる労働の量は、どちらも1ポンドで雇える量だから、同じ労働量どうしの交換である。」

 この理屈は、貨幣の代わりに労働を使って、どれだけの労働が買えるかで価格を説明している。つまりこれは、価格の特定の決まり方についての主張になっていない。どのように価格を決めてもこの理屈が通用してしまう。これは、たとえば、
「このネックレスは現地の公務員の初任給10年分の価値がある」
というような言い方と同じである。こういう意味での価値を「支配労働価値」と言う。

 スミスによれば
「価格は、その商品を直接間接に作ってきた労働を雇ったコストを組み入れた上に、利潤や地代の分が加わっている」
のだから、その価格で雇える労働の量は、直接間接にかかった労働より当然大きくなる。つまり、「支配労働価値>投下労働価値」である。投下労働価値と支配労働価値は違うものなのに、スミスは両者を混同しているのだった。

価値構成説と価値分解説

 スミスが文明の発達した社会で成り立つと考えた「自然価格」(正常な率の賃金、利潤、地代を足し合わせて価値が成り立つ)の考えを「価値構成説」と言う。

 この説は後に、リカードやマルクスによって徹底的に批判された。彼らは価値構成説に対して、あくまで
「投下労働価値で価格が決まって、その中から賃金、利潤、地代が分けとられていく。」
と考えた。これを「価値分解説」と言う。後のリカードやマルクスはこちらの立場を徹底していくことになる。

 しかし、どちらの立場も「生産サイドの要因」だけを問題にしていて、「消費者側の要因」が入ってこないことでは同じである。こういう意味では、主流の古典派経済学者たちは同じと言うことになる。

 ということで、次はリカードとマルクスの経済学を学習することになる。
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