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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(4)

チリのクーデター(3)

チリの9・11


 アジェンデ政権の誕生を阻止しようとした策略は失敗したが、アメリカのニクソン政権は引き続いてアジェンデ政権の政策を破綻させるべくさまざまな圧力をかけている。教科書③から引用する。

《「国民の無責任さからある国が共産主義へと向かうのを傍観していなければならない理由が私にはわからない」。ニクソン大統領の特別補佐官キッシンジャーはこう言った。ニクソン大統領はヘルムズCIA長官にたいし軍事クーデターを組織するよう指令した。コリー合衆国大使は「われわれはボルトー本、ナット一個チリには入らせない。われわれはあらゆる手段を尽くしてチリとチリ国民を欠乏や貧困に追いこんでいく」と語った。フォード、アナコンダ、バンク・オブ・アメリカ、ITTなどアメリカ合衆国の多国籍企業はチリ問題に関する特別委員会を設置した。》

 ウィキペディアの「サルバドール・アジェンデ」は当時のCIA長官・リチャード・ヘルムズの次のような発言を記載している。

『「おそらく10に1つのチャンスしかないが、チリを救わなければならない!……リスクはどうでもいい……1000万ドル使え、必要ならばもっと使える……経済を苦しめさせろ……」と指示し、どんな手を使ってもアジェンデ政権を打倒する姿勢を見せた。』

 ウィキペディアの「チリ・クーデター」も次のように解説している。

『1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に支持を伸ばした。しかし、アメリカの支援を受けた反共主義を掲げる極右組織が次々に誕生し、CIAが右翼勢力に対する公然非公然の支援を行い政権打倒の動きを強めるなど次第に政情が不安定化する。』

 アメリカをはじめ、西側諸国が経済封鎖を発動しているが、特にニクソン政権が行った経済制裁がアジェンデ政権に大きな打撃を与えた。銅山の国有化に見られるように、当時のチリ経済は銅の輸出に大きく依存していた。アメリカは保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させている。

 もちろん、こうした外敵圧力だけではなく、アジェンデ政権にも問題があった。私は選挙を通して生まれた初めての社会主義政権がどのような政策をどのように遂行したのか始めて知ったが、それが余りにも性急なのでびっくりした。大統領の任期は6年もあるのだから、もっと広範な賛同を得るため、適切な段階を踏んで丁寧に着実に、進められなかったのだろうか。これではどこかで破綻するのではないかと危惧しながら読んできたが、早くも翌年(1972年)には大きな壁にぶつかっている。教科書③から引用する。

《アジェンデ政権の側にも失敗があった。赤字財政による景気拡大政策は通貨量を膨張させ、インフレの下地をつくった。性急な企業国有化は経済効率の低下と有産階級の反発を招いた。経営者団体だけでなく、小商店主、運送業者、医者、弁護士、銀行員などの中産階級も反アジェンデにまわった。経済が悪化しはじめた。インフレが昂進し、闇市場がはびこり、物不足と行列が広がった。右派の国民党と中道のキリスト教民主党が手を結んだ。人民連合内部では政党間の意見の対立が表に出はじめた。変革の速度をゆるめ中道勢力との妥協をはかるグループと、妥協を排し前進することを主張する派とが表面から対立し、政府のあいだで動揺をくりかえして統一的な政策を出すことことができなくなっていった。》

《経営者は工場を閉鎖し、トラック業者はストライキに入り、商店主は店を閉めた。医者弁護士、建築士もストに合流した。しかし、労働者は言った。「こんな政府は糞っくらえだ。でもこれは俺たちの政府だ」。労働者は工場を占拠し、自分たちの手で工場を動かした。社会的対立は極限にまでたっした。》

1972年
 8月21日
 商人・小売業者スト
 10月8日
 トラック業者スト
 11月5日
 カルロス=フラッツ将軍,内相(国防相)として入閣

 この反アジェンデの一連のストの中でもとりわけトラック業者のストがアジェンデ政権に多大な経済的損害を与えた。チリの国土は南北に長い。南北を結ぶ幹線道路は物流の生命線である。トラック業者のストはその物流を麻痺させた。もちろん、これら一連のストにはアメリカが関与している。ウィキペディアの「チリ・クーデター」では次のように解説している。

『もともと反共的である富裕層(彼らの多くは会社・店などを経営している)は自主的にストライキを開始した。さらに1972年9月にCIAは物流の要であるトラック協会に多額の資金を援助しストライキをさせたほか、政府関係者を買収してスパイに仕立て上げた。』

 内乱の瀬戸際まで達したこの危機を乗り切るために、アジェンデは、軍人を入閣させた。11月5日、軍最高司令官で立憲派として有名なカルロス=プラッツ将軍を内相(国防相)に任命。ほかにも二つの重要ポストを軍人に託している。彼ら軍人閣僚の任務は、一連のストから秩序を回復し、翌年の3月に迫った議会選挙の実施を保証することであった。

1973年
 3月4日
 総選挙で人民連合派43.9%獲得

 反政府系は54.2%と支持率を伸ばしたが、大統領解任の三分の二の圧倒的多数を形成するにはほど遠かった。むしろ人民連合は、43.9%と前回の69年とほぼ同じ得票率に終わったものの、議席数は増加している。

 ここで反革命勢力は選挙での政権奪取に見切りをつけたようだ。

1973年
 6月
 軍と反共勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗。
 8月
 陸軍総司令官(国防相兼任)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任。アウグスト・ピノチェトを陸軍総司令官の後任者に選任。
 9月11日
  ピノチェトが主導するクーデターによりアジェンデ人民連合政権崩壊

もちろん、ピノチェトは陸軍総司令官就任時に「大統領と憲法を守るために命を捧げる」と誓っている(教科書②)。

1974年12月17日
  軍事評議会議長アウグスト=ピノチェト,大統領に就任

 9・11といえば、チリではこのクーデターを指す。奇しくも、アメリカの9・11と曜日も同じだという。教科書③より引用する。

《またも9月だった。アジェンデ当選から3年後の1973年9月11日。陸軍司令官ピノチェトに率いられたチリ軍は「秩序の回復」を名目にクーデターにでた。アジェンデは降伏を拒否し、少数の側近とともに銃を手に大統領官邸モネダ宮にたてこもって抵抗した。爆撃を受けて炎上するモネダ宮でアジェンデは死んだ。
 恐怖が支配した。チリ全土で、何千人、何万人もの人びとが処刑され、虐殺され、逮捕され、拷問され、投獄され、行方不明になり、家宅捜索を受け、流刑となり、国外に追放され、亡命を余儀なくされた。強大な軍事力と秘密警察の土台の上に独裁体制が打ち立てられた。》

 チリ・クーデターでの虐殺や拷問は転載するのもはばかれるほどおぞましく残虐だ。思えば人類の歴史は虐殺や拷問であざなわれてきたと言えなくもない。人類とはこんなにも恐ろしいドウツブ(動物さんに失礼なので、私は人類をドウツブと呼んでいる)なのか、と改めて戦慄を禁じ得ない。人類はついにはドウツブのままで滅び去るのではないかという予想も脳裏をよぎるが、それでもなお、人類の叡知を信じたい。人間のドウツブ性を克服するために、虐殺や拷問の事実から目をそらすわけにはいかない。教科書②③にはたくさんの記録が残されているが、ここでは教科書②の「献辞」を引用しよう。


 チリ、サンティアゴのセメンテリオーヘネラル〔総合墓地〕の一角に、大きな横長の御影石でできた記念碑がある。この国に民主主義が戻って数年後の1994年2月に建てられた「記憶の壁」である。多くの ― 4千以上の ― 名前がその表面に刻まれている。すべては1973年9月11日から1990年3月11日まで続いたアウグスト・ピノチェト将軍の独裁体制下で軍・警察による弾圧の犠牲となった人々の名である。このうちの1002名の男女の名前のあとには死亡の日付が彫られていない。これらの人々は「デサパレシードス」、行方不明者である。遺族はまだこの人々を埋葬できないでいる。また、壁の表面は全部文字でふさがれてはいない。彫刻家と設計者たちは壁の片側の広い部分を空白のままに残した。新しい犠牲者の名を刻みこむためにこのスペースが必要になると思ったのだ。事実、ようやく報復を恐れなくなった現在、ゆっくりと、ためらいながら、名乗り出て、自分の愛する者たちの処刑や行方不明を報告する人々がいる。しかし、数年前わたしがチリ南端の山間部にあるマプーチェ〔先住民〕の村を訪ねたときには、老人たちは、独裁時代に虐殺された人々の多くについて報告する気はないと言っていた。いつの日か軍人が帰ってきて仕返しするのではないかと恐れているのだった。恐怖と忘却の靄がたれこめる中で、「記憶の壁」にすべての犠牲者の名が記されることは決してないのだろう。

 この本は5人の友人に捧げられている。いずれもあのサンティアゴの壁に名を刻まれた人々である。

フレディ・タベルナ。  彼は1973年10月30日ピサグアで軍の銃殺隊によって処刑された。遺体は家族の元に戻らず、まだ埋葬されていない。
ディアナ・アロン。
 彼女は1974年11月18日チリ秘密警察によって銃撃されて負傷しヌニョアにある拷問施設ビシャ・グリマルディに運ばれた。遺体はまだ取り戻されていない。
フェルナンドーオルティス。
 1976年12月15日サンティアゴのエガーニャ広場で多くの人々の見ているなか数名のチリ秘密警察部員によって逮捕された。当局は彼を拘束していることを否認した。2001年軍部の解禁した情報によって、遺体がチリ中央部、クエスタ・バリーガという名の荒涼たる山地のどこかに埋められているらしいことがわかった。不正確な手がかりに翻弄されつつ困難な発掘作業を続けること数ヵ月、ようやく遺骨が発見され、DNA鑑定の結果、フェルナンド・オルティスのものであることが確認された。
ロドリゴ・ロハス・デネグリ。
 彼は1986年7月2日兵士たちによって生きながら焼かれサンティアゴの街はずれに運ばれて排水溝の中に放置された。4日後この傷がもとで、サンティアゴの病院で死んだ。19歳だった。
そしてクラウディオーヒメノ。
 1973年9月11日サンティアゴのラーモネダ大統領宮殿で逮捕された。ほぼ30年間行方不明だったが、その後、サンティアゴからのニュースで次のことが明らかになった。クーデターの翌日、彼の遺体はサルバドル・アジェンデ大統領の他の顧問たちの遺体とともにダイナマイトによって爆砕された。誰にも遺体を発見させないためであり、遺体に残る拷問の証拠を湮滅するためである。ある予審判事が行なったさる軍事基地での発掘の結果、遺骨の破片が発見され、クラウディオのものと判明、彼はようやく埋葬されることになった。

 しかし、この献辞は、あの「記憶の壁」と同様、そしてこの本と同様、真の意味で完成することは、決してない。なぜなら、あのチリの壁には、1973年クーデターのあと、仕事を、家を、健康保険を、年金を失った、推定百万以上の人々は含まれていない。また、毎晩毎晩、パトロール隊によって検挙され殴打されサッカー場に連行されて、妻や子どもたちが無理やり見させられているその前で、煌々たるスポットライトを浴びながら不動の姿勢をとらされ裸にされたポブラシオン〔低所得者層居住地区〕の男たちは含まれていない。さらに、あの壁の名前には、およそ百万 ― 軍事クーデター発生時のチリ人口の十分の一に近い数 ― の亡命者や移住者は含まれていない。

 そして壁は、もちろん、ある人が、公開する場合は自分の名を伏せることを条件に、何年も前に語ってくれた、次のような記憶を含んではいない。

「わたしは蹟きながらあの地下室に連れて行かれた。目にべったりとテープが貼られてまるで第二の皮膚のようだった。衣服を引き裂こうとして、男たちの手がわたしを引っ掻いた。このくそ野郎、覚悟しろよ、きさまみたいなろくでなしはこうしてやる……。爪は汚かった。この汚らしい爪から伝染病をもらうのではないかと心配だった。考えてみればおかしな話だ。わたしはその前の二週間ろくに食事もあたえられず、排便もままならず、不潔そのもの。最悪の下水道よりもひどいにおいを放っていたに違いない。しかし、それにもかかわらず、その爪のことが気になってならなかった。あの汚い爪のせいで何かの病気になるのではないかと心配だった。そのあと彼らはわたしを簡易ベッドに縛り付けた。一方の手、続いてもう一方の手。別の誰かが、わたしの脚を押し広げ、両方のくるぶしをくくりつける。真上に電球がギラギラ光っているらしい。そのうちに彼らは何かを取り付けた。 ― ワイヤなのか留め金なのか? ― ともかくそれをわたしの性器に取り付けた。それから、同じ声が言った。こいつを踊らせるんだ、歌わせるんだ、一発かましてやるんだ。そして、彼らはわたしを踊らせた。わたしを歌わせた」

 そう、あの壁には、拷問にかけられ生き永らえた数万の人々は含まれていない。彼らの記憶は含まれていない。

 以上で『大予言』の第一章「世界同時ファシズムの脅威」を読むための予備知識を得たと思う。クーデターのその後については必要に応じて調べることにする。ただし、最後にクーデターの首謀者・ピノチェトの人物像について一言触れておこう。

 クーデターを擁護する者たちの間では「ピノチェトは武断派ながら廉潔の士」というイメージが流布されていたようだ。教科書②の著者・アリエル・ドルフマンは「イホ・デ・ブタ(悪党野郎)ピノチェト」と呼んでいる。どちらが正当だろうか。

 「権力は腐敗する、専制的権力は徹底的に腐敗する」という確言があるが、ピノチェトも例外ではなかった。「ピノチェト将軍の信じがたく終りなき裁判」の過程で次のようなことも明らかになっている(教科書②の「訳者あとがき」より)。

2004年5月、
 大統領時代からのピノチェトの不正蓄財が発覚した。以後、アメリカ・リッグズ銀行などチリ内外の秘密口座が次々と判明し、預金総額は数千万ドルから数億ドルに達すると見られた。汚職・公金横領・脱税についての捜査も開始され、ピノチェトの、武断派ながら廉潔の士というイメージは失われた。

2006年7月上旬、
 マヌエル・コントラレスは獄中から裁判所に書面を提出し、ピノチェトは、1980年代、軍の組織を使ってコカインの製造と欧米諸国への販売を行ない、それによって巨額の富を得ていたと述べた。ピノチェトとその息子の麻薬にまつわる疑惑について、軍政時代の高官が証言したのは初めてのことである。
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