2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(3)

チリのクーデター(2)

無血革命


 フレイ政権による下層大衆の組織化と政治的動員は大きな成果を上げていた。それに対抗するように、人民行動戦線も同じように組織化に乗り出している。

《1960年代後半、チリ政治における大衆動員のレヴェルはかつてない水準に達し、チリ政治は改革のもたらす期待上昇とあいまって、質的に変化をとげつつあった。それは、とくに急進党政権時代に定着してきた各党との妥協と調整による政治取引き、という従来の政治パターンの崩壊を意味していた。》

 キリスト教民主党は1965年の議会選挙でも42.3%という高支持率をえた。それを背景に、フレイ政権はますます一方的行動をとるようになった。それは保守勢力の強い反感をかった。失敗に終わっているが、67年に国民党は軍隊を動かそうと画策している。また、予算面で軍を軽視してきたフレイ政権に対する不満が軍内部にも少しずつ高まっていた。1969年10月21日、ロベルト=ビアウ将軍が大統領宮殿に武隊を動かしている。そして、1969年の議会選挙では、キリスト教民主党の得票率は大幅に下落した。
与党29.8%
左翼28.1%
国民党20%

《改革と組織化を通じて中道勢力の力を大幅に伸ばそうとしたフレイ政権の試みは、左右両勢力に侵蝕される結果に終わったといえた。
 すでにチリ政治は、70年の大統領選に向けて大きな曲がり角に立っていたといえる。同選挙では、カリスマ的な元大統領、ホルヘ=アレサンドリをふたたびかつぎだした国民党の勝利は確実だと考えられた。》

1970年
 9月4日
 大統領選挙で人民連合サルバドル=アジェンデ,第1位
 10月22日
 チリ陸軍軍司令官レネ=シュナイダー将軍暗殺される
 10月24日
 国会,アジェンデを大統領に選出
 11月3日
  アジェンデ,大統領に就任

 1970年の大統領選の結果は次のようである。

トミッチ(キリスト教民主党)27.8%
アジェンデ(人民連合)36.3%
アレサンドリ(国民党)34.9%
 アジェンデとアレサンドリとの得票差は約4万票であった。

 この結果から直ちにアジェンデ大統領誕生とはならなかった。当時の憲法では過半数を獲得できない場合は、国会の決選投票に委ねられなくてはならなかった。人民連合(社共両党を軸とした左派連合)は国会では少数派であった。

 マルクス主義者の大統領誕生だけはなんとか避けたいと考えたアレサンドリは、キリスト教民主党の支持をとりつけようとした。その条件として、大統領に就任後ただちに辞任して再度の選挙でトミッチを推すという提案をしている。しかし、キリスト教民主党でもトミッチ派は左派であり、アレサンドリの姑息な提案は不調に終わった。この不調は次のような動きとも無関係ではないだろう。

またこのころ、アメリカの多国籍企業ITTは、アジェンデ政権成立を阻止すべく画策していたし、ニクソン政権もCIAを通じて、軍の一部にクーデターを促す工作をしていたことがその後、明らかになっている。

 ちなみに、この陰謀は米ジャーナリスト・ジャック=アンダーソンのITT機密文書暴露(1972年3月21・22日)によって明らかにされた。

 シュナイダー将軍の暗殺については教科書①にはこれ以上の記述がないのでウィキペディアの「チリ・クーデター」から引用する。

『政府の意向を受けたCIAは元々反アジェンデ派の多い軍部にクーデターを依頼した。しかし、陸軍総司令官のレネ・シュナイダー将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、アメリカの依頼を拒否した。決選投票直前の10月22日に、シュナイダー将軍が襲撃されて重傷を負い、26日に死亡した。陸軍のロベルト・ビオー将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票でキリスト教民主同盟は人民連合を支持、アジェンデ大統領が誕生した。』

 キリスト教民主党は『表現・教育・宗教の自由、軍の政治からの独立などを保障する「民主的保障条項」』を条件にアジェンデを支持するにいたる。10月24日、国会は135対35の圧倒的多数によってサルバドル=アジェンデ=ゴッセンスを大統領に選出した。》

 選挙で選ばれた初の社会主義政権の誕生である。しかしそれは、チリ史上では初めての少数派大統領の誕生でもあった。

1971年
 2月19日
 農地改革法計画発表
 4月4日
 地方選挙で人民連合派48.6%を獲得
 7月15日
 銅山国有化法

 農地改革や銅山国有化は不十分ながらフレイ政権が手がけていた政策であり、それをアジェンデ政権が本格的に押し進めたことになる。

《農地改革の勢いはすさまじく、地主層の強い抵抗にもかかわらず、下からの改革の動きに促されて、アジェンデ政権は、フレイ前政権が6年間かけて収用したのと同規模の農地を一年間で収用した。》

《基幹産業の国有化も順調にすすんだ。すでに71年1月には、ケネコット社・アナコンダ社などの所有する五大銅山の国有化法案が、全会一致で国会を通過しており、また同年末までに国有化された企業や銀行の数は31から62に、政府支配の及んでいるものを加えると100以上にのぼった。これら国有化は、株式の購入や既存の法律を援用して行なわれたが、たとえば米系企業の場合、ITTやフォド=モータースを除けば、初期のうちはさほど困難なく実施されたといえる。こうして国家管理下におかれた部門を「社会有部門」として、その支配的性格が位置づけられたほか、中小企業は「私有部門」として残され、また政府資金と民間資本との合弁、いわゆる「混合部門」を加えて、経済体制はこれら三部門から構成されるものとされた。》

 農地改革や基幹産業の国有化のほかに、次のような政策が実施された。

☆政府支出を大幅に拡大し、失業を減じ、一般国民の所得を引き上げて有効需要を引き出すこと。
☆遊休産業設備をフルに稼動させること。
☆きびしい物価統制をしき、通貨エスクードの為替レートを固定した。
☆労働者の賃金・給与を実質で平均50%前後引き上げた。

 このような経済的活況は、これからのさらなる改革への期待を高め、早くも政治的効果をあらわしはじめた。上の年表にもある通り1971年4月に行なわれた地方選挙における人民連合政府の得票率は前回(4年前)と比べると「40%→48.6%」と、大幅に支持をふやしている。労働者や農民もこうした改革に積極的に参画している。教科書③から引用する。

《チリの9月は政治の季節でもある。9月4日は6年ごとにめぐってくる大統領選挙の日だ。1970年9月4日。この日、世界中を「アジェンデ」の名が駆けた。社会主義者サルバドルーアジェンデが大統領に当選(9月4日段階では正しくは得票数第一位)し、「自由と民主主義と複数主義のにもとづく社会主義」への挑戦が始まった。アンデス山脈の影に隠れていた小国チリは一躍全世界の注目を浴びる。ロシア革命やキューバ革命とは異なる。選挙をつうじてのチリ独自の革命の道。「ぶどう酒とエンパナーダ(具入りのパン)の革命」とアジェンデは形容した。
 チリの民衆は初めて自分たちの政府を持った。アメリカ資本が握っていた大銅山が国有化され、農地改革によって大土地所有が解体された。賃金が引き上げられ、子どもには一日半リットルのミルクが無償で配給された。労働者は工場の経営管理に参加し、農民は協同組合を組織した。粗末な小屋が立ち並ぶ都市周辺部にはレンガ造りのアパートが急ピッチで建設されていった。
 理想の社会はすぐそこまで来ており、ちょっと手をのばせばすぐに手に届く、とだれもが考えた。労働者、学生、知識人は情熱に燃えて勤労奉仕にとりくんだ。と同時に、長年にわたって抑えられていた民衆のエネルギーが一挙に吹き出した。劣悪な労働条件におかれながら組合すらなかった中小企業労働者は工場占拠に出た。土地を持たない農民は農場を、家のない都市下層民は空地を占拠した。》
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