2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《『羽仁五郎の大予言』を読む》(2)

チリのクーデター(1)

革命前夜


 前回引用した矢崎さんの文中に「チリに起きた政変をあらゆる角度から分析」というくだりがあった。「チリの政変」は単なる政変ではない。クーデターである。以後は「クーデター」を用いることにする。

 『大予言』をひもとくと、「序章 歴史的な立ち往生」「第一章 世界同時ファシズムの脅威」と続くが、この2つの章の言説の根柢に敷かれている重要事項が「ソルジェニツィンの追放」と「チリに起きたクーデター」である。前者についての羽仁さんは次のような見解を述べている。

 ソルジェニツィンに戻るが、重要なのは、ソビエトがなぜ、この時期に彼に対して、強制的な処置をとったかということだ。いいかえれば、なぜ今までやらないで、ここでやったかを考えてみる必要がある。ソビエトの政府当局にしても、そんなに愚かでないだろうに、まずい時期に、まずいことをやった。その理由は何かと、考えてみなくてはならぬ。

 世界のソビエトに対する態度には、封じ込め政策あたりから続いている反ソ的な動きが、さっきのノルウェーの例(管理人注:議会で保守党の議員が「ソルジェニツィンの追放」を取り上げ、首相のソ連訪問の中止を狙って行った追求質問)でもわかるように、ヨーロッパにことに強く見られる。反共的な議員がソルジェニツィンなんか持ち出して、いちゃもんつけたりする。利用できるものがあれば利用しようという姿勢だ。

 ソビエトは、社会主義を守るためには、ソルジェニツィンを追放しなければならなかった。つまり、ソルジェニツィンを追放したかったのではなくて、追放しないわけにはいかなかった。あとで、もう少しくわしく述べるが、ソビエトは、作り出された国際世論の前に立往生して、ソルジェニツィソを追放したのだ。

 この見解には私は同意できない。作り出された反ソ包囲網は確かにすさまじかったが、問題の本質はそこにはない。羽仁さんは「社会主義を守るため」にしかたなかったというが、その守るべき「社会主義」、レーニン・スターリンが目指した「社会主義」にこそ問題があった。その視点がすっかり抜けている。この問題については「ロシア革命の真相」を参照していただくとして、ここでは改めて立ち入ることはしない。

 さて、「チリに起きたクーデター」については、私は当時の新聞が報じた通り一遍のことしか知らない。しかもほとんどあやふやな記憶になっている。そこで、このクーデターについての羽仁さんの言説を読む前に、このクーデターについて詳しく調べることにした。取りあえず
①『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史』(山川出版社)
②アルエル・ドルフマン著・宮下嶺夫訳『ピノチェト将軍の信じがたく終りなき裁判 もうひとつの9・11を凝視する』(現代企画室)
③高橋正明(文)・小松健一(写真)共著『チリ 嵐にざわめく」民衆の木よ』
を、教科書として、手元に置いている。(長くなりそう!?)

 まず、①の年表からクーデター前後のチリ関係の事項を抽出して、クーデターの概略を掴むことにする。また、必要に応じてその事項の解説を付すことにする。なお、上記した教科書からの直接引用文は《》内に入れた。また、②・③からの引用の場合はその数字を付した


1958年9月3日  ホルヘス=アレサンドリ、大統領に就任

 このときの大統領選での各候補の得票数は次のようであった。

J.アレサンドリ(保守党・自由党)31.6%
S.アジェンデ(人民行動戦線)28.9%
E.フレイ(キリスト教民主党)20.7%
L.ボサイ(急進党 中道?)15.6%
A.サモラーノ(左派単独候補)3.3%

《1958年の大統領選挙は、右派・中道・左派という政治の分極化傾向がチリ政治に定着したことを示した。》

1964年
 11月3日
 キリスト教民主党エドゥアルド=フレイ,大統領に就任
 12月
 銅山のチリ化

1969年6月26日
 アナコンダ銅山国有化

 大統領選に先立って、1964年3月、クリコー(保守の地盤)の補欠選挙があったが、チリ政界に大きなインパクトを与えた。その時の得票数は次のようであった。

民主戦線(自由・保守・急進の三党連合)49%→32%
人民行動戦線10%→39%
キリスト教民主党21・5%→28%

《このように保守の農村の地盤で社会主義者が勝利したことは、前回の大統領選でのアジェンデの肉薄する得票率と二重写しにされて、右派の「民主戦線」を分解に導き、あげくは、保守・自由両党をして、社会主義者よりはキリスト教民主党を支持させるにいたった。
 他方、キューバ封じ込めと第二のキューバの阻止にやっきとなっていたアメリカも社会主義政権の誕生を防ぐべく、CIAを介してキリスト教民主党に資金援助を与えたのである。
 かくて、64年の大統領選挙は、構造的改革を標榜する二大勢力の対決となったが、キリスト教民主党のフレイが56・1%というかつてない高い得票率をもって地すべり的に勝利したのであった。》

 フレイが政権を握ったときのチリの社会経済状況は次のようであった。

《このような政治上の変化と同じく、チリの社会経済も大きな変化をとげつつあった。30年代から40年代にかけて著しい成長をみせたチリの輸入代替工業化は、すでに50年代の初めには頭打ちとなり、他方、経済の原動力となってきた銅産業もアメリカ企業の支配のもとで停滞をきたしていた。
 また1960年に、人口の35%が中産階級以上に属すというように、アンデス諸国のなかでも中間層の比重が高かったにもかかわらず、所得格差は依然として著しいものがあった。とくに、土地集中は歴然としており、7%の大地主が濯漑地の78%を占めるのに対し、37%を占める小農は農地全体の10%を占めるにすぎなかった。また農業生産性は低く、人口増加に追いつかず、農村生活のみならず、ひいては国際収支にも悪い影響を与えていた。こうして、都市人口は60年までの8年間に年5.9%の割合で伸び続け、60年には総人口の7割近くが、都市に集中するようになっていた。》

 フレイが率いるキリスト教民主党は資本主義と共産主義の非人間性を強く批判して、階級対立を否定する立場から、資本と労働の調和、社会的多元主義を基調とする〝共同体的社会″の建設を理想とした。その理念のもと、フレイ政権が打ち出した政策は「自由のなかの革命」と呼ばれている。それは「開発主義・再配分・自立経済」という言葉で要約された。具体的には次ぎのような政策が行われた。

☆銅産業への国家支配権の拡大を通じて生産を倍増し、国家主導のもとで重化学工業を育成する。

☆抜本的な農地改革を実施して農村の半封建的権力構造を打開する。

☆頭打ちになっていた輸入代替工業化をさらに強化する。

☆ラテンアメリカ自由貿易連合(LAFTA)の統合の実を期待して輸出向け産業を開発する。

☆そのほか社会改革のプログラムとして、労働立法の拡大、税制・教育・住宅・衛生面での諸改革をはじめ、労働者・農民・底辺層の組織化などきわめて広範囲の政策を掲げた。

《この「自由のなかの革命」は、65年の議会選挙での大勝利と、施政二年目までつづいた高成長(12%)に助けられ、きわめて順調なすべり出しをみせたのである。》

 銅産業はチリの経済にとって極めて重要産業だった。年表に「銅山のチリ化」「アナコンダ銅山国有化」と記録されているほどである。これには次のような経緯があった。

《左派の銅産業国有化の要求に対して、フレイ政権は、将来は国有化するとしても当面は生産能力の向上が急務であり、経営面での問題点も生ずるとして、とりあえず過渡的措置として株式の51%の取得によって政府の銅山経営への支配権を確立する道、つまり〝チリ化″を選択した。このチリ化政策により7億ドルを超える投資が新たに投じられた結果、銅の生産能力は大幅に増大した。
 1969年には、アメリカ系銅企業とのあいだで〝協定による国有化″が合意に達し、のちのアジェンデ政権下での全面的国有化への条件を整えたのであった。》

 輸入代替工業化(重化学工業の育成)によって、1930年代以降、チリ経済に大きな比重を占めてきた国家の役割がいっそう強まっていった。資本形成に占める公共資本の割合は64年の53.9%から五年後には74.8%に達している。

 農地改革は、国内の権力構造と直接対峙する課題であった。法案の成立をめぐり国民党(66年保守派の自由・保守両党が合同して結成)の反発が強かったが、濯漑地で80ヘクタールを上限として大土地所有制を解体するという画期的な法案が、67年になってようやく国会を通過した。その政策はキリスト教民主党左派の手により、強力に推しすすめられた。

《フレイ政権が収用(有償)した濯漑地は、約278万ヘクタール、受益農家数は2万戸に及んだ。しかし収用された農地は、濯漑地全体からみれば2割弱にとどまり、受益農家数も10万戸という目標を大きく下回った。このように農地改革の成果が限定的であったのは、そもそも法案成立に2年半を要したことと大地主層の強い抵抗があったことがあげられようが、とくに地主とのあいだに係争が生じた場合、農民層を支持して積極的に介入しようとした与党左派のやり方に対し、政府部内での批判が強まったことも一因であった。》

 最後に、外交面では
《米州機構のキューバ制裁決議に同調しない立場をとりつづけたり、社会主義諸国の外交関係樹立に動き出すなど、自主外交を展開した。そして、国連貿易開発会議に向けて1969年に決議された「ビーニャ=デル=マ-ルでのラテンアメリカの合意」や、あるいはアンデス地域統合の土台づくりのように、70年代にはいって南北問題の高揚のなかではっきりその輪郭をあらわすラテンアメリカ諸国の地域ナショナリズムの形成に大きな役割をはたした》
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