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《『羽仁五郎の大予言』を読む》(1)

羽仁五郎とは何者か

生誕から敗戦時までの履歴


 7年ほど前、『今日の話題:「もう一つの可能性、沖縄独立を考える人たち」』で『街から』というリトルマガジンを紹介した。今回から始める話題はその雑誌(no.117 2012年4月号)から頂いたものです。

 その雑誌に矢崎泰久さんによる「変革に挑んだ日本人」という連載記事がある。その「⑤ 羽仁五郎―革命思想家の孤独な生涯」の中に『羽仁五郎の大予言』(1979年話の特集社刊 以下『大予言』と略記する)という著書が紹介されていた。その本が出版された頃は、丁度、五島勉著『ノストラダムスの大予言』(1973年刊)というトンデモ本がベストセラーになっていた。『…の大予言』などという書名ではオカルト本と誤解する人がいるかも知れない。にもかかわらずこの書名を付けた経緯を矢崎さん(当時『話の特集』の編集長)は次のように述べている。

 この本のタイトルに羽仁さんはなかなか首をタテにふらなかった。当時『ノストラダムスの大予言』という本がベストセラーになり、世間を騒がせていた。亜流のような扱いを受けたくないと言う羽仁さんを、私は本物の予言書はこれだと主張したいのだとゴネた。根負けした大思想家は「では、21世紀まで生きていて責任を取るしかないね」とようやく折れてくれた。

 1901年生れの羽仁五郎は、ミレニアムにはキッカリ百歳を迎えることになる。

 羽仁さんは『大予言』発行の4年後(1983年)に亡くなられた。享年82歳。

 矢崎さんはこの本を次のように紹介している。

 読んでいただければ、その鮮度の高さ、予見の正確さがたちまちわかるのだが、私から簡単ではあるが説明する。

 現在進行中の世界の危機を指摘していることは、まさに驚異としか言いようもない。その頃、羽仁さんは朝起きると配達されて来たばかりの朝毎読三紙に目を通し、午前中のほとんどの時間をかけて赤、青二色の鉛筆で傍線を施した上で切り抜きを作っていた。それも一面や特集記事より、隅にある世界情勢に関連するどんな細かい記事をも見逃さないようにしていた。午後には数日遅れで届くイギリスのタイム紙、アメリカのニューヨークータイムズ紙の二紙の記事から、日本の新聞報道にあるなしをまず分類して、並行的にファイルを作成する。こうした作業は葉山に住むようになってから、日常的に行なわれていたので、書庫の一角に資料類が堆高く積み上げられていた。年次別になっているので、保存及び管理も十分であった。

 こうした中から世界の流れを的確につかみ、自分の思索の糧としてきた。21世紀への予言に当たる部分は不断の作業と思索から紡ぎ出されたものである。チリに起きた政変をあらゆる角度から分析し、ついには歴史的な立往生であると宣言する。こうした流れが現在に至るまで脈々とつながっているのである。

 『大予言』の中に「裁判は階級的である」「権力が教育を破壊する」という表題の章がある。このような事態は今に始まったことではないが、今は大日本帝国のゾンビたちが臆面もなく跋扈し、その酷さが日ごとに増幅されている。私は矢崎さんの紹介文を読んで、ぜひ『大予言』を読んでみたいと思った。さっそく購入したが、そのまま「積ん読」のままになっていた。古代史の次のテーマが熟するまで、この宿題を取り上げようと思い立った。これまで通り、どのように進めるか未定のまま、ともかく始めることにした。たぶん、あっちへ飛んだりこっちへ戻ったり、迷走を繰り返すことになるかもしれない。

 まず、羽仁五郎とは何者か。その著書『都市の論理』(1968年刊)がベストセラーとなり、羽仁さんは一躍学生運動の革命理論家的存在になった。私は『都市の論理』を読んでいないし、羽仁さんについて知ることはこの程度である。矢崎さんの解説と『大予言』巻末の年譜を用いて羽仁さんの人物像を垣間見てみよう。

生誕
1901(明治34)年3月29日
 生家は群馬県桐生市の代々続く大きな織物業者だった。父の森宗作は第四十銀行の創立者で初代頭取になった。羽仁さんは裕福な家庭で育てられた。

学歴
1913(大正2)年 12歳
東京府立第四中学校(現・戸山高校)に入学。

 羽仁さんは、中学2年生の時に、規則づくめで詰め込み主義に徹した管理体質の学校に反発し、課題作文「わが第四中学校」で学校批判をした。学校当局は数日間の登校停止処分を受けたが、辛うじて停学処分にはならなかった。
1918(大正7)年 17歳
一高の独法科に入学。

 ドイツ語の教科書クライスト著『ミハエル・コオルハアス』の封建社会への反逆に強く惹かれる。
 19歳(1920年)の時に、大逆事件に題材をとった短編小説「反逆者」を校友会雑誌に発表して注目され、当時の大新聞だった「萬朝報」の懸賞小説に匿名で応募し二作が入選を果たしている。その後文学に傾倒し、20歳(1920)年には羽仁もと子の編集する婦人之友社の少年少女雑誌「まなびの友」に短編や詩を発表している。
1921(大正10)年4月
東大法学部に進学

 数ヶ月で休学し、9月にドイツで歴史哲学を学ぶことを志して単身ヨーロッパヘ旅立った。第一次世界大戦直後のことである。当時のドイツは大戦の敗北による貧困から必死に立ち上がろうとしていた。羽仁さんは翌年ハイデルベルク大学の哲学科の学生になった。
「もの凄いインフレーションの真っ只中で、ぼくは下宿生活を送っていたんだ。朝眼が覚めて市場に買物に行くと、卵が前の日の倍の値段になっている。ところが、その翌日も、その倍になる。驚いたよ。すべては卵が始りだった。」
 羽仁さんは激動の中でドイツが次第に力を蓄える様を目撃したのだった。

 その頃のヨーロッパで三木清、林達夫らと交流しながらマルクス主義を学んだ。遠い日々を私(矢崎)に語り聞かせる羽仁さんの眼には、若かった時代のまぶしい程の光が宿っているようであった。
 三木さんはハイデッガーが教鞭をとっていたマールブルク大学に移ったが、羽仁さんはハイデルベルク大学に留まり、イタリアの哲学者ベネデト・クロオチェの歴史哲学を知ることになった。『クロオチェ』(河出書房)の伝記を1939年に上梓したのは、この時の実体験からでもある。
1924(大正13)年
 帰国。東大文学部史学科に再入学

 帰国の途についた羽仁さんは、マルセーユから船に乗り、途中カルカッタ、シンガポール、上海などで帝国主義下の植民地圧政に苦しむアジアを歴訪し、民衆の極度な貧困を見て強い衝撃を受けたと言う。多感な24歳という年齢を思うと、まさに筋金入りの反権力への道程を歩む姿が垣間見えて来るではないか。

結婚
1926(昭和元)年4月8日
羽仁説子さんと結婚

 女性の独立を助ける考えから、自由学園を創設した羽仁吉一、もと子さんの家に夫婦で入り羽仁姓となった。
 この年、岩波書店の創立者・岩波茂雄の支持を受けて「歴史叙述の理論及歴史」というクロオチェの訳著を岩波書店から刊行する。その翌年に東大を卒業するとほぼ同時に、自由学園教授、日大講師(2年後に教授)に就任し、独自な歴史哲学の講義を本格的に始めている。若干26歳。その後の思索活動は多忙を極め、官吏になることを嫌って嘱託となっていた東大史料編纂所の改革にも尽力している。

その後の活躍
1928(昭和3)年2月、日本最初の普通選挙で、社会民衆党から立候補した阿部磯雄を応援して本郷で演説し、史料編纂所から注意を受けるや、独自の改革案を所長に辞表と共に提出して辞職した。

 ますます反権力的傾向を強めながら活発な言行一致的な思想を世に問うようになるが、1933(昭和8)年、ついに大きな災難に見舞われる。(下は年譜よりの引用)

 9月11日、早朝4、5人の私服刑事に自宅から目白警察に連行留置される。治安維持法違反容疑の名目だが逮捕状はなく、24時間以内に検束を解かねばならないので、夜中の12時になると警察の玄関まで連れ出して再検束するやり方で約3ヵ月半を地下の留置場に監禁された。その間、目白署から京橋署と〝たらい回し″されながら警視庁から来た〈特高〉という思想警察に自白を強要されたが、当時非合法の日本共産党を指導していた野呂栄太郎のかくれ家をはじめ友人の秘密を守り、共産党に資金提供したという誘導尋問をもしりぞける。

(中略)

 強制的に虚偽の「手記」を書かされた上で、12月末に釈放されしばらく拘禁性心臓障害で入院した。

(以下は矢崎さんの解説をそのまま引用する。)

 留置中に辞表の提出を求められ、日大教授の職を奪われてもいる。この年、ナチス党を率いたヒトラーがドイツで政権の座に着いた。日本の軍国主義がそれに同調する。羽仁さんは反ファシズム、反戦の旗幟を鮮明にしながらミケルアンヂェロ」(岩波書店)など次々に自由と人権の著作を発表している。

 しかし、第二次世界大戦は不幸にも勃発する。前年末の出版法違反(反政府宣伝)で起訴され北軽井沢滞在中の津田左右吉を久野収と共に訪問し、公判を前にして意見を述べたりもしている。

 こうした活動が政府によって監視され、敗戦間近かになると身に危険を感じるようになった。拘束、虐殺を心配する友人たちから国外脱出を勧められ、中国に渡って戦争をやめさせる工作を開始する。自由学園が中国の戦災孤児のために経営していた北京学校の資金調達という名目でようやく旅券を取っての危険な脱出行であった。

 しかし、敗戦直前の3月10日、偽電話で北京市内の料理店に呼び出され、憲兵によってロビーで逮捕される。同行していた羽仁説子は翌日釈放になったが、羽仁五郎は2週間後に東京の警視庁に強制送還の上で留置され、連日拷問を受けることになった。

 7月末、身勝手な国家は突然、ポツダム宣言についての意見を羽仁五郎に求めた。羽仁さんは冷静沈着に「即刻受諾すべし」と答えている。その意見を入れていれば広島・長崎の原爆投下はなかったかも知れない。

 羽仁さんは敗戦後も警視庁地下二階の代用監獄に拘留され、10月4日に治安維持法が廃止されるまで自由の身になることはなかった。体はボロボロだった。病院に運ばれた時に、危篤のニュースが流れたりもした。

 10月10日号の『週刊朝日』に「団結・自由・勝利 ― 病床から」を執筆。これが戦後の羽仁さんの第一声となった。

 羽仁五郎が青少年時代から求め続けてきた、言論表現の自由はようやく手中にすることが出来た。それまでミケルアンヂェロやクロオチェを盾にして権力を撃ってはきたが、限界はあった。フェミニストとして迫害を受け、教育の場からも次第に閉め出された。敗戦によるものとは言え、長い年月をかけて批判し続けてきた明治維新の虚構も堂々と暴くことが可能になった。天皇制反対の旗印はついに一度も下ろすことはなかったのである。

(戦後の活躍については必要に応じて取り上げることにする。)
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