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《続・「真説古代史」拾遺篇》(170)



「古代の推定人口」異論(12)


投馬国について補足

 『「古代の推定人口」異論』は前回で終えるつもりだったが、もう一回追加したい。

 投馬国についての記述では重要な2点については単なる推測で終わっていた。もう少し何とかならないかと思っていた。文献上の資料は「倭人伝」以外にはないのだから、考古学上の資料を求めるほかない。そこで久しぶりに図書館へ行って来た。以下は
①『日本歴史地名大系』(平凡社)
②『角川日本地名大辞典』
を教科書としている。青字の文は前回の私の推測です。

推測1
投馬国には水田耕作の伝播も遅かったのではないだろうか。

 これは全く間違っていた。②より引用する。

 弥生文化は水稲耕作と金属器の使用に特色づけられる。本県においても、この特色をもつ文化が弥生時代の前期には早くも確認でき、以後中期への発展をみせるが、後期には停滞する様相を呈する。

 弥生時代の主な遺跡は、薩摩半島西岸沿いの日置郡金峰(きんぼう)町・吹上町、鹿児島湾岸の鹿児島市・垂水(たるみず)市、志布志湾周辺部の肝属(きもつき)郡高山(こうやま)町、川内川流域の大口市・姶良郡栗野町などがあげられるが、それを時期的に概観すると、前期前半に薩摩半島西岸部に導入され、前期後半には鹿児島湾岸に、そして中期になると島嶼部を除く県下全域へと拡大する傾向をみせる。

 まず、弥生文化が最初に導入された日置郡金峰町の高橋貝塚が注目される。この遺跡は前期を代表する遺物が多く出土した。この遺跡から出土した土器には籾の圧痕が見出されており、また抉入(けつにゅう)石斧の出土などから福岡市の板付遺跡との関連が推測されている。

 稲作は「後期には停滞」すると書かれているが、①では
「その後南九州に稲作文化が定着した痕跡は認められず、狩猟・漁猟・植物採集が重要な生活手段であったのであろう。」
と推測している。もちろん、
「狩猟・漁猟・植物採集が重要な生活手段」
の一つであったことは、投馬国に限ったことではないし、その通りであろう。しかし、水田耕作は振るわなかったとしても、その他の農耕が盛んだったことは論を俟たない。なお、②は水田耕作が弥生文化が後期以降停滞する要因として
「本県の火山性土壌と水稲耕作の不適性」
を指摘している。これもその通りだと思う。

 また、②では板付遺跡との関連を推測しているが、鉄器類についても言えることだろう。

 さらに、鉄器様遺物も発見され、九州でも早い時期の鉄器の導入として注目される。石包丁の出土した遺跡は、県内でほぼ50か所を数えるが、1か所からの出土数は1~2個であるにもかかわらず、この遺跡からは9個出土した。

推測2
祭祀用・シンボル用青銅器の投馬国への伝播が遅かったか、あるいはそれが投馬国の伝統に馴染まなかったのではないだろうか。

 稲と同時期に鉄器も伝播していたのなら青銅器もほぼ同じ時期に伝播していたと考えるのが妥当だろう。しかし、考古学的事実として青銅器の出土は僅少である。「投馬国の伝統に馴染まなかった」という推測の方はそう間違ってはいなかったと思う。金峰町の高橋貝塚からは「ゴホウラ製貝輪の製品・未製品」も出土している。これについて②は次ぎのように述べている。

この貝は種子島以南の南海産で、特に沖縄諸島海域に多く産するが、この地に運ばれて加工され、北部九州・中国・畿内地方まで交易品としてもたらされている。前代に続いて、海洋性の文化の性格づけができよう。

 その点では、種子島南部の広田遺跡も注目される。この遺跡は前期後半から後期にかけての埋葬遺跡で100体以上の人骨が出土した。上下2層の埋葬のうち、上層は一度埋葬したあと集骨したもの、下層は屈葬人骨であったが、そこからは中国系のトウテツ文様の貝符も出土し、東シナ海文化圏を想定させる遺物として注意をひいた。また、この遺跡出土の貝符の1枚には「山」の文字が刻まれていた。

 ここまでは主として弥生早期~前期の遺跡についての分析であるが、中・後期についてはどうだったろうか。①から引用する。

 鹿児島市王子遺跡は中・後期の出土遺物により瀬戸内および北九州との交通路の存在が推定される。金峰町松木薗(まつきぞの)遺跡は後期を主体とし、集落を防御するための環濠がめぐらされている。肥後系の土器も出土し、中九州方面との交流があったのであろう。

 投馬国は沖縄諸島海域と銅鉾圏を結ぶ重要な役割を担っていたようだ。水田耕作が不振でも、幅広い交易によってその不足を補って余りあったと考えられる。

 投馬国の祭祀も独特なものだったようだ。②では次のように記されている。

 祭祀遺跡として注目されるものに肝属郡大根占(おおねじめ)町の山ノロ遺跡がある。中期の遺跡で、径3mほどの環状配石とその周囲に壷形・甕形土器が配置され、軽石製岩偶・同陰石・同石棒、それに焚火跡が見出された。おそらくは海岸平野部に立地した共同祭祀場であろうが、特異な性格をもつ遺跡である。

 ①ではまた別の祭祀遺構が取り上げられている。次のようである。

 薩摩半島南端地域には独特な祭祀遺構として立石墓と称されるものがある。山川(やまがわ)町成川(なりかわ)遺跡は弥生中期後葉から古墳時代にかけての埋葬・祭祀遺跡である。弥生時代の立石が30基近くあり、傍らに焚火跡を伴い、立石の性格を示唆している。

 第一号立石は遺跡の中央部分に位置し、埋葬人骨がまったく認められない。この最も巨大な立石は依代と考えられ、儀礼的な性格をもち、墓地を営んだ集団全体の喪葬儀式の場であろう。枕崎市松ノ尾遺跡でも成川遺跡と同様の遺構が認められる。

 「立石墓」と呼ばれる遺跡を始めて知った。ネット検索をしたら「松之尾立石墓」を紹介している「古代文化研究所」さんに出合った。そこから一部転載させていただく。

 松之尾遺跡で出土したものは、壺形土器、高坏、坩、鉄器製品等の遺物のほか、土壙墓、立石等が確認されている。更に第二次発掘調査が昭和55(1980)年10月から翌年の1月に行われ、数多くの土壙墓、立石が現れ、また、壺形土器、高坏・坩等の多種多様な土器類、剣・刀子や鉄鏃などの鉄器類が出土している。

 調査の結果、松之尾遺跡は弥生時代終期から、古墳時代初頭にかけて盛行した砂丘に立地する埋葬遺跡であること、この砂丘を使用した初現は、弥生時代中期に求められることなどが判明したとある。

 松之尾遺跡の脇にある説明看板には次のように記されているという。

  松之尾立石墓
 ここにある石は、弥生時代中期頃(今から約1600年前)の墓に使用された立石です。
 石は板状の自然石で、石質は安山岩(火山岩の一つで灰色で、黒や白の斑点が見られる)です。
 ほかに立石をもたない古墳時代の墓(土壙墓)もあり、弥生時代中頃から墓地として、利用されてきました。
 なお、この立石墓は南薩地方にみられる独特の埋葬施設です。


 松之尾遺跡が本格的に発掘されたのは1972~1980年だという。これまで鹿児島県では弥生時代の遺跡や出土品は少なかったが、これからまだまだ新しい発見があるのではないだろうか。
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この記事へのコメント
宮崎はどうなんでしょう
鹿児島の古代の見直しは必要ですね。それとあまり誰も触れませんが、規模も出土品も膨大な「西都原古墳群」のある「宮崎」の古代はどうなんでしょうかね。3世紀からとの事なので俾弥呼とダブっていると思うのですが。投馬国があって宮崎がないのも不自然な気がします。ひょっとして鹿児島・宮崎(南部)を含んだ投馬国だったのでは、などと「ちょっとだけ」思っています。
2013/06/21(金) 10:59 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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