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《続・「真説古代史」拾遺篇》(169)



「古代の推定人口」異論(11)


まとめ(3)

奴国

 「倭人伝」には奴国の首都は「(伊都国の首都の)東南、奴国に至ること、百里(7~8㎞)」と記録されている。古田氏は伊都国の首都を波多江付近(前原~周船寺間)に比定した(『「邪馬台国」はなかった』より)。この比定地をもう少し絞ろう。

 周船寺(すせんじ)から東南百里の地は高祖山の辺りであり、山中になってしまう。前原からだと細石神社辺りになる。この付近には三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡・井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡・平原(ひらばる)遺跡という三種の神器(鏡・剣・勾王)をもつ弥生の王墓三基がある。こここそ奴国の首都としてふさわしい。すると逆に、伊都国の首都「郡の使の往来、常に駐る所」は前原辺りということになる。『「一大率」とは何か(4)』で、「一大率」の所在地を周船寺とする説に賛同した。そのときは伊都国の首都は周船寺だろうかとも思ったが、ここはあくまでも一大率の軍営基地だろう。

 上記の三遺跡がある糸島平野は糸島地方では最も大きな平野ではあるが、どのくらいの広さであろうか。境界を、東は高祖山地・南は背振山地・北は周船寺あたり・西は前原あたりとすると、東西・南北ともに8㎞ほどだろうか。この領域内で戸数2万は多すぎすだろう。奴国の領域には肥前国の佐賀郡・神埼郡・養父郡なども含まれていたのではないだろうか。もしそうならば、戸数2万もうなずける。『「古代の推定人口」異論(4)』で、私は吉野ヶ里遺跡は「もしかしたら、奴国の都だったのでは?」などとうかつなことを口走ったが(後日取り消した)、有明海に臨む軍事基地として、吉野ヶ里遺跡が奴国(あるいは邪馬壹国)の領域内に入る可能性はあると思う。

投馬国

 投馬国を薩摩国・大隅国(現在の鹿児島県全体)に比定してきたが、この比定には問題点が二点ある。第一点に、
(a)青銅器遺物が乏しいのだ。
「女王国統属下の国々(その四)」の図(1)・(2)をみると銅鉾(または銅戈)がわずかしか出土していない。第二点は「投馬国(7)」で出合った
(b)石器出土数のくいちがい問題
である。

(a)について

 青銅製武具は武器というより祭祀用あるいは権力のシンボルとして用いられていた。その祭祀用・シンボル用青銅器の投馬国への伝播が遅かったか、あるいはそれが投馬国の伝統に馴染まなかったのではないだろうか。投馬国は親魏倭国として邪馬壹国と親密な関係にあったが、隷属していたわけではない。自らの歴史が培ってきた伝統をそうたやすく放棄するはずはない。

 投馬国には水田耕作の伝播も遅かったのではないだろうか。しかし、南九州は縄文文明の先進地であったようだ。南九州の縄文文明については「投馬国(7)」で上野原遺跡を紹介したが、もう一件取り上げよう。

 南九州では縄文時代の早い時期から「定住性の高い集落」が形成されていたという。玉田芳英編『史跡で読む日本の歴史1 列島文化のはじまり』所収の岡田康博論文「定住の開始と集落の出現」から引用する。

 さらに、南九州でも定住性の高い集落がみつかっている。史跡拵ノ原(かこいのはら)遺跡は薩摩半島の西側、鹿児島県南さつま市(旧加世田市村原)に位置する。万之瀬(まのせ)川と加世田(かせだ)川の合流地点の西側の標高約40㍍の丘陵上に立地する縄文時代草創期の集落跡である。集落は台地北部の南から緩く北に傾斜する斜面から発見された。約1万1000年前の薩摩火山灰に覆われていたため、良好な状態で保存されていた。

 遺跡の西側には溶結凝灰岩の板石を舟形に組んだ舟形配石炉を含む配石炉、焼け石が密集した集石遺構、土坑などが検出された。ほかに燻製用の施設と考えられる煙道付炉穴も検出された。出土遺物には隆帯文土器、石鏃、磨製石斧、打製石斧、磨石、石皿、スクレイパーなどがある。隆帯文土器は平底と思われる。磨製石斧には両側縁に抉りのあるもの、丸鑿(まるのみ)状のもの、定角式がある。縄文時代に普遍的な土器や石斧などの石器が普及していることは中小型獣の狩猟、堅果類の粉食など植物製食料の利用、森林の伐採や木材の加工など縄文時代的な生業、食生活の開始をよく示している。

 拵ノ原遺跡では1975~1977年,1986年,1989~1993年と9回の発掘調査が行われている。その結果、その遺跡は縄文時代草創期から縄文時代早期・後期・晩期・古墳時代,中世にかけての複合遺跡であることが分かった。

(b)について

 「投馬国(7)」で提示した古田・奥野・安本の三氏が用いている表①・表②・表③から鹿児島県の部分をとり出して、問題点を再提示しよう。

①  工具2 漁具1 武具21 その他4 計28

 鉄剣9 鉄鏃12〈武具計21〉 工具・他6 合計27

 刀子1 鉄鏃3 計4

 ①②と比べて、③が著しく少ないのだった。これらの資料から、私は
『もしも表③の方が正しいとすると、「投馬国=薩摩」説の考古学的根拠が怪しくなるけど、私にはこれ以上の資料は思いつかないので、この問題はここでひとまず終える』
と問題を保留していた。しかし、このほど古田氏の著作『ここに古代王朝ありき』で新たな資料に出合った。次の図である。
投馬国鉄器出土状況
 この資料では出土地までが明らかにされている。この資料を疑う理由はない。安本氏作成の表③が誤りであることを確信した。

 上の図によると
鉄剣9 刀1 鉄鏃12 鉄器4 刀子1 釣針1 鉇1 計29
である。これを①②の分類に従ってまとめて、()で追記すると次のようになる。(「鉇(やりがんな)」は「鉈」の異体字)


 工具2(2) 漁具1(1) 武具21(22) その他4(4) 計28

 鉄剣9(9) 鉄鏃12(12)〈武具計21(22)〉 工具・他6(7) 合計27

 ①には「刀1」②には「刀1」と「刀子1・釣針1・鉇1のどれか一つ」がおちているようだ。それぞれの表の作成時期以降に新たな発見があったのだろう。

 さて、鉄製農具によって農業生産の質と量は飛躍的に向上するだろう。一般論としてこの二点に異論はないだろう。また、鉄製武器は戦闘力を飛躍的に高めるだろう。では、投馬国の出土鉄器からは何が読み取れるだろうか。ここでもう一つ、『「邪馬台国」論争は終わっている。(7)』で用いた図を追加する。

大型鉄器分布図

 以上の鹿児島における鉄器出土状況について、古田氏は『ここに古代王朝ありき』で次のように述べている。

 図において新たに注目されるのは、鹿児島の「28」。その中心は「指宿」にある。「全大型鉄器表」にもあるように、南九州でひとり周辺と卓絶した質量をしめしているのである。

 ことに周辺との隔絶性が注目されよう。全体量は、福岡県などには遠く及ばないけれども、この地帯においては、卓絶した力量をそなえていると見られる。

 わたしは、かつて第一書『「邪馬台国」はなかった』において、投馬国をこの鹿児島湾一帯の中に求めた。「水行二十日」を不弥国(博多湾岸、西端)から南へ、九州東岸まわり、と解した結果である。けれども、その「投馬国」の中心が不明だった。ここには「銅鏡」「銅矛」類の出土分布がないからである。

 ところが、今回、鉄器によってその中心点が見出された。ここ指宿は鹿児島湾の入口、その喉元を扼する要衝だ。ここを制する者は、鹿児島湾全体を制する。指宿の王者は、すなわち鹿児島湾岸の王者なのである。

 古田氏は『俾弥呼』では投馬国の所在地について新説を提出している。それについては『投馬国(6):古田説の検討(4)』で検討しているが、私には受け入れられなかった。私は第一書での説を採用している。

 また、古田氏は指宿を投馬国の中心地としているが、そこは投馬国の首都という意味合いでの中心としては地理的に端に偏りすぎている。そこはあくまでも「鹿児島湾の入口、その喉元を扼する要衝」であり、そのための一大軍営地であろう。やはり投馬国の首都は姶良市あるいは霧島市辺りではないだろうか。たった一本の出土ではあるが、霧島市隼人から鉄剣が出土している。

 ともあれ、投馬国が鹿児島県全体と重なるような領域を支配していたとすると、戸数5万を過大表記として一概に否定することはできないと思う。

(以上で『「古代の推定人口」異論』を終わりとします。)
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この記事へのコメント
iroiro
都国千戸、不彌国千家に注目すれば、両国は極めて限られた領域となります。一大国(壱岐)が一三五平方キロで三千許家。人口比で単純に面積比較する伊都国・不彌国両国は各四〇平方キロ。しかも人口密度は、ほぼすべて平野部である糸島地域がはるかに高いのは当然で、仮に人口密度を四倍とすれば高々一〇平方キロの面積でしょう。
面積計算ソフトで調べると、これは糸島水道の両端の部分、伊都国は加布里湾南岸の銚子塚古墳のある二丈~神在~前原付近まで、不彌国は今宿を中心とした今津湾一帯~姪浜付近位にあてはまります。
また、奴国との位置関係でも、奴国は伊都国の東南百里(七~八㎞)で糸島地域においてこれがあてはまるのは、先述の加布里湾南岸付近と、三雲・平原・井原という「怡土平野中枢部」付近の位置関係しかありません。ただ、『倭人伝』の行程記述が「中心地=政庁の位置」であるとした場合、奴国の「範囲・領域」は怡土平野に限定されず別途考えるべきことになりはずです。背振山地を超えて広がるという考えもありますが、菜畑や宇木汲田付近を含む、縄文以来の「穀倉地帯」に広がっていたと考えることも可能と思います。何故なら末盧国とされる唐津周辺は縄文以来の「穀倉地帯」で「山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず」と言う末盧国の記述はこれに合わないからです。
邪馬壹国までの諸国も色々考え処が多いですね。
2013/06/14(金) 22:49 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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