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《続・「真説古代史」拾遺篇》(168)



「古代の推定人口」異論(10)


まとめ(2)

(以下、《》付きの《邪馬壹国の領域》とは『失われた九州王朝』の一節「邪馬壹国の領域」のことです。)

 行路記事に依れば邪馬壹国の北は、邪馬壹国の玄関口の役を担う不弥国(姪の浜付近)・博多湾であり、西は伊都国と伊都国の東南百里(約7.6㎞)に政庁(以下では「首都」と呼ぶことにする)を持つ奴国と接している(奴国の領域については後に検討する)。しかし、東と南の境については文献は何も語っていない。古田氏は《邪馬壹国の領域》では東と南の境界について、次のような推定をしている。

 東は遠賀川の流域、南は筑後川の流域もまた、「邪馬壹国の全領域」中にふくまれていた、という可能性を十分もっているのである。すなわち、「筑紫国(筑前・筑後)→福岡県」という行政単位それ自身が、古えの邪馬壹国の領域を原型とし、それと大きく重なりあっている、という可能性もまた、大きいのである。

 古田氏はこの可能性が大である論拠として「山門(やまと)」という地名を取り上げている。

この点、一つの示唆を与えるのは「山門」という地名だ。筑前の室見川下流に「(下)山門」があり、筑後川下流に「山門郡」があった。肥後にも、「山門」があった、という。これは文字通り〝「山」の入口″という意味だ。ところが、筑後の山門郡を見ると、ここは地形上〝「山」の入口″ではない。むしろ筑後川の〝川の入口″といった方がいい。そうすると、この「山」とは、地形上の「山」ではなく、〝政治領域としての「山国」″ではないか、と思われてくる(『「邪馬台国」はなかった」でのべたように、「邪馬壹国」は山倭(やまゐ)国」であり、〝倭国を代表する山国″という意味だった)。「山国」、すなわち「邪馬壹国」の西北の入口は、室見川河口の「(下)山門」であり、南方の入口は筑後の「山門」や肥後の「山門」だったのではないか、と思われるのである。

 こうしてみると、「戸七万」の「邪馬壹国」の領域は、相当に広範囲だったこととなるであろう。

 「山門」という地名の意味は従来は「山への入り口」という意味とされてきた。吉田茂樹著『日本古代地名事典』には筑後国山門郡と肥後国菊地郡山門郷が取り上げられているが、どちらにも「山への入り口」という意であると解説されている。「大和」については「山処(あまと)=山のある所」と解釈している。ついでに他にも「山門」という地名がないかと調べてみたら、次のような例があった。

愛知県名古屋市千種区山門町
 ここは古代からある地名ではなく、新しい上に読みも「さんもん」であり、上の例とは全く異なる。「日泰寺の山門」という意と解説されていた。日泰寺の創建は1904(明治37)年だそうだ。

山口県宇部市山門
 ここも読みが違う。「やまかど」である。宇部市の南方で山口大学の北に位置する。近くにこれといった山が見当たらない。なぜ「やまかど」という地名が付けられたのか、ネットでは調べられなかった。

滋賀県長浜市西浅井町山門
 ここの「山門」はどう読むのか、ネットでは確認できなかった。琵琶湖の北岸にある。まわりは山だらけ。たぶん「山の入り口」で、「やまと」と読むのだろう。

北九州市山門町
 ここの「山門」もどう読むのか、確認できなかったが、すぐ東に山地がある。ここも「山の入り口」で、「やまと」だろう。

 余分な横道に入ってしまったようだ。戻ろう。

 古田氏は筑後国山門郡については「むしろ筑後川の〝川の入口″といった方がいい」と言い、「邪馬(壹)国の入り口」という新解釈を提出している。そして、(下)山門が邪馬壹国の西の境界であり、筑後国山門郡が南の境界であるとしている。そして、確言はしていないが、邪馬壹国の領域は筑紫国(筑前+筑後)と「大きく重なっている」可能性大だと言う。もしも、北九州市山門町も「邪馬(壹)国の入り口」という意の地名と考えれば東の境界は遠賀川の流域よりさらに東になり、ほとんど筑紫国全域ということになる。

 戸数7万という点から考えても邪馬壹国の領域はかなり広大であったことが予測できる。古田説には一理あると思う。しかし、この説は氏自身が『俾弥呼』で躬臣国を筑紫(のどこか)に、姐奴国を「女山(ゾヤマ)」(筑後山門、福岡県)に比定していることと整合しない。

 私は已百支国を上座郡の把伎(現在は朝倉市杷木)に、郡支国を北九州市の洞海湾付近に、弥奴国を三潴郡に比定している。これらの比定は固執するほどの確かさはないかもしれないが、一応私の立場からも「邪馬壹国≒筑紫全体」説には違和がある。

 古田説の要になっている「山門郡はむしろ筑後川の〝川の入口″」という「山門」の意味変更の根拠も弱いと思う。山門は郡名として採用されて広い領域を指しているが、現在では「みやま市瀬高町山門」として残っている。もとはここで使われ始めた地名が郡名として採用されたのではないか。ここは筑肥山地のすぐ西に位置していて、「山の入り口」として違和はない。また「下山門」は姪の浜のすぐ西に位置し、邪馬壹国の入り口ではなく、むしろ不弥国の入り口に当る。そして、ここもあの天孫降臨の地・高祖山のある背振山地への入り口として「山門(山の入り口)」という地名に不審はない。

 私は已百支国・郡支国・弥奴国の比定をしながら、漠然とではあるが、邪馬壹国の東の境界は遠賀川、南の境界は甘木あたりと想定していた。確かな論拠はないが、今は上の3国の比定地と整合するという理由で、この想定を私の説として提出しよう。ただし、この領域では戸数7万国としては狭すぎるきらいがあるが、この点については『「古代の推定人口」異論(4)』で学習した「弥生後期の社会像」を指摘しておこう。ここでは要点を抜き出しておく。

(1)
 板付遺跡では既に本格的な水田耕作が行われていたことが分かっている。もちろん水田はここだけではない。弥生後期には相当の人口を維持することができる水田耕作が行われていたことだろう。

(2)
 九州地方北部ではそれまでの環濠集落が大規模に発展している。それは次のようなピラミッド状に構成された地域集落群を形成していた。すなわち、内部に記念物的な大型建物や青銅器などの手工業工房をもち、祭祀的な施設や文物をもった中核となる大規模な環濠集落の下に、防御的な中小環濠集落が、その下位に無環濠の大規模農村、さらに多数の無環濠の中小集落(農山漁村)が存在していた。

 各ピラミッド状集落ではあらゆる生業が営まれていて、一種の都市の様相を示している。九州北部の人口密度はかなり高かったと推測できる。
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