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《続・「真説古代史」拾遺篇》(167)



「古代の推定人口」異論(9)


まとめ(1)

 問題の発端は水野祐氏による「倭人伝」に記載されいる戸数(人口数)の信憑性の否定だった。氏は「事実に合わない数値」だと言う。その事実とは澤田氏による弥生時代の推計人口との比較だった。澤田氏によるものだけでなく、従来流布されてきた弥生時代・奈良時代の推計人口が全て農民だけを対象にしていることがはっきりしたので、この水野氏による指摘は無意味となった。「倭人伝」に戻って再考する外ない。

 水野氏は対馬国・一大国・末廬国・伊都国の四ヵ国(どういうわけか、不弥国が抜けている)の戸数は
「魏の使者が直接渡来し、親しく見聞した国々」
なので信憑性があるとした。それに対して、奴国・邪馬壹国・投馬国は
「魏使が直接訪れていない国々であり、それらは皆、万戸以上の戸数を示しているので、それらはすべて魏使が伝聞をもとにして、概数を推測によって記したものと解されるから、これは信憑性のないものである」
とした。

 水野氏が信憑性を否定している論拠は二点ある。
(1)
 魏使は奴国・邪馬壹国・投馬国には直接訪れていない。
(2)
 「万戸以上の戸数」は多すぎる。

(1)について

 水野氏の言説は「井の中」でほとんど定説となっている榎一雄説(「放射状行路」説)を踏襲している。榎説では「魏の使者は伊都国にストップし、そこから先へは行かなかった」ことになっている。この榎説に対して、古田氏は「傍線行路」説を説き、榎説を批判している。(詳しくは『「邪馬台国」論争は終わっている。(5)』を参照してください。)ここでは「倭人伝」中の次の記事を転載しておこう。

正始元年、太守弓遵(きゅうじゅん)、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦罽(きんけい)・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。

 魏使は邪馬壹国で俾弥呼に会っている。この記事を無視して、「魏の使者は伊都国でストップ」という説が定説になるなんて、まさに「井の中」は病膏肓に入る状態である。

 上の記事の他に「倭人伝」に記録されている魏使に247(正始8)年「に派遣された塞曹掾史(さいそうえんし)張政等」がいる。張政は狗奴国と女王国との紛争の際に派遣された。張政の役どころは軍事顧問といったところだろうか。相当に長い間倭国に滞在していた(一説に20年と言う)。倭国での実地見聞は相当に正確だったと考えられる。『「邪馬台国」論争は終わっている。(12)』で、木佐敬久氏の次のような一文を引用した。

「倭人伝の最初に書かれている行路記事は、張政の軍事的報告書を背景にもち、中国側の軍事用の目的にかなうものとして、書かれているものと見なければならなぬ。」

 「(伊都国は)郡使の往来、常に駐(とど)まる所。」というのだから、倭への魏使の派遣は上に示した記録以外にもあったと考えられる。「倭人伝」はこれらの魏使の報告書をもとに書かれている。「井の中」で貶められているような間違いだらけの史料であるはずがない。

 さて、「倭人伝」の行路記事が上記のような意味合いを持った報告書をもとに書かれたのなら、当然魏使は奴国・投馬国をも実地見聞していたことになる。

(2)について

 倭国は百余国から成り立っていた。そのほとんどは後の郡の1~3程度の領域をもった小国だったと考えてよいだろう。そして、それらの国の戸数は1000~3000位だっだのではないだろうか。水野氏は邪馬壹国・奴国・投馬国をそれぞれ「筑後川下流地域筑後国山門郡地域」「那珂郡博多」「筑後川上流々域」に比定している。いずれも郡規模程度の領域を想定しているようだ。水野氏が「万戸以上の戸数」を否定する当然のことだった。しかし、私(たち)の比定では邪馬壹国・奴国・投馬国の領域はもっと広大な領域になるだろう。それぞれの国について検討してみよう。

邪馬壹国

 まず、「女王の都する所」を確認しておこう。伊都国より東行百里に位置する不弥国は姪の浜当たりと比定できた。そして、邪馬壹国は不弥国の南とだけあり、距離が書かれていない。これは不弥国の中心地(官庁)から邪馬壹国の中心地「女王の都する所」がほとんど隣接しているからである。つまり不弥国の中心地からは「女王の都する所」の偉容を垣間見できるほどの距離であった。次の文はサイト「福岡県の文化財」からの引用文である。

 1984年度調査で弥生時代前期末~中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した(吉武高木遺跡)。

 遺跡群内には同様に多数の副葬品を有する前期末~中期後半の甕棺を主体とした墓地(吉武大石遺跡)、中期後半~後期の墳丘墓(吉武樋渡遺跡)がある。

 またこれらの墓地の周辺には同時期の集落が広がり、吉武高木遺跡の東50mからは12×9.6mの身舎に回廊をめぐらした掘立柱建物も発見され、「高殿」の可能性が指摘されている。

 弥生銀座と呼ばれているこの吉武遺跡群ほど絢爛豪華な遺跡は他にない。こここそ女王国の所在地としてふさわしい。1948年に室見川で発見された銘板を古田氏は
「倭王の宮殿の完成を記念してこの金属板を作成した」
と解読している(『ここに古代王朝ありき』)。吉武遺跡群の中に見いだされた「回廊をめぐらした掘立柱建物」を含む集落跡こそ「女王の都する所」だった。室見川の中流付近である。

 その「女王の都する所」を中心地として、邪馬壹国の領域は広がっていた。その領域の範囲を比定することは出来るだろうか。『失われた九州王朝』に、ずばり「邪馬壹国の領域」という一節がある。これを教科書として検討してみよう。

(「古代の推定人口」異論の「まとめ」の段階にやってきたが、断片的な、しかも底の浅い知識をたよりの迷走思考が続いた。あっちこっち資料を調べていて、なかなか考えがまとまらない。前回から10日も経ってしまった。今回はとりあえずここまでとして、続きは次回で。)
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