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《続・「真説古代史」拾遺篇》(166)



「古代の推定人口」異論(8)


「推定人口」検証(2)

 澤田氏の推計方法について、「戸数問題(5)」ではウィキペディアの記事から読み取ったが、鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』にその推計方法要約があるので、改めて読んでみる。

 鬼頭氏は澤田氏の推計の手順を3段階に要約して示している。

①課丁数・出挙稲比
 出挙稲数が諸国の課丁数に比例していたことを明らかにしたうえで、数値が判明する陸奥国の815(弘仁6)年の課丁数(正丁および次丁)と、弘仁主税式に記されている陸奥国の出挙稲数の比を求めた。鬼頭氏はその比の値を記載していない。ウィキペディアによると次のようであった。

「1000出挙稲束数当たりの課丁数21.98人」

②各国課丁数
 上の陸奥における課丁数・出挙稲比を各国に適用して出挙稲数に乗じ、国別課丁数を算出する。

③国別人口
 (ⅰ)
 この課丁数を、あらかじめ戸籍・計帳断簡から求めた8世紀後半の課丁数・人口比で除すことにより、各国の人口を算出した。鬼頭氏は課丁数・人口比も記載していない。これもウィキペディアから転載する。

「人口100人当たりの課丁数18.7人」

 (ⅱ)
 ただし、弘仁出挙稲は陸奥国以下43ヵ国についてしか得られないので、東海道諸国と近江については、さらに時代の下った延喜主税式(927年成立)の出挙稲数を利用した。またいずれの数も得られない畿内5ヵ国と志摩・対馬・多褹(種子島)・左右京の人口は別途に推計された。

 以上の方法で推計した人口は560万人。
 陸奥国以下43ヵ国についても延喜稲に統一した場合はの推計人口は557万人

 両者の平均は559万人となる。澤田氏はこれらから奈良時代(8世紀)の良民人口を約560万人とした。これに出挙稲に反映されない浮浪・奴婢・雑戸を加えて、総人口は600万~700万人とした。

 以上の澤田氏による推計人口について、鬼頭氏は次のように述べている。

 沢田の推計はおおむね妥当なものとして受け入れられてきたが、問題がないわけではない。まず良民以外の人口および脱漏人口を40万~140万人(7~25%)も見積もることは多少、過大な推計といえるかもしれない。

 「出挙稲に反映されない浮浪・奴婢・雑戸」と書かれているが、正確には(前回調べた用語で言えば)「雑色人・賤民・浮浪者」と言うべきだろう。鬼頭氏はそれらの人口40万~140万人を「過大な推計」かもしれないと疑問視している。私にはこの問題の当否を判断することができないが、以上の推計に海民・山民がまったく現れないことこそ問題にすべきだろう。後ほど取り上げることにする。

 次ぎに、鬼頭氏はもう一つの問題点を取り上げている。次のようである。

 ところが茨城県石岡市(鹿ノ子C遺跡)で常陸国人口を記した漆紙文書が発見されたことは、沢田推計を見直すきっかけとなった。この文書には延暦年間(782~806年)の常陸国人口が記載されていることがわかった。22万4000ないし24万4000と解読される人口は、沢田の推計した常陸国人口(延喜稲よる推計21万6900人)に近似する。そこで鎌田元一は、沢田の推計したのは八世紀人口ではなく平安時代人口とみなすべきであると結論した(鎌田元一「日本古代の人口について」『木簡研究』六号)。そして沢田推計に替わる奈良時代人口(8世紀前半)として、鎌田は現存する籍帳などから一郷あたり良民人口(1052人)を推定し、これに全国郷数(4041郷)を乗じて良民人口を計算した。これは425万人となるから、これに7万4000人と推定した平城京人口と良民の4.4%と推計する賤口数(18万7050人)を加えて、全国人口を451万人とした。鎌田はこれにより8世紀の政府掌握人口を500万人程度としている。本書はこの新しい推計を8世紀前半(計算上、725年とする)の人口として採用した。ただし鎌田は国別人口を算出していないので、10世紀初期の承平年間(931~938年)に成立した『和名類聚抄』(和名抄)記載の各国郷数に一郷あたり良民人口(1052人)を乗じ、さらに賤民人口(対良民比4.4%)を加えてこれを推計した。

 鎌田は延暦期の常陸国人口に基づいて、平安時代の全国人口について二通りの参考値を計算している。第一は常陸人口から計算された一郷あたり人口(1464ないし1595人)を全国の郷数(4041)に乗じて得られる人口で、592万ないし645万人である。第二は沢田が行なったように、常陸の人口・延喜出挙稲比を全国の出挙稲数に乗じてえられる、532万ないし580万人である。

 本書では奈良末・平安初期(計算上は800年)の人口として沢田推計を用いている。前記のように、もともと沢田は奈良時代の人口を推計しようとしたのだが、鎌田はこれを「奈良末・平安初期人口」とみなすべきと指摘しているからである。本推計では、沢田が20万人とした平城京人口に換えて、平安京人口を21万人として加えた。鎌田の全国人口推計と比べて4%過大もしくは15%過小である。浮浪や脱漏などを考慮すれば、全国人口は600万ないし650万人となるであろう。

 鬼頭氏が最終的に採用した奈良時代の推計人口は次ぎのようになる。

8世紀前半の人口(鎌田説)
 一郷当たりの良民人口(1052人)と全国郷数(4041郷)を用いて、「1052×4041=424,7094」より
(1)良民人口 425万人
(2)平城京人口7,4000人と推計
(3)賤民口数18,7050人と推計
 (1)+(2)+(3)より全国人口は約451万人

奈良末・平安初期(澤田説を一部修正)
600万~650万人

 鎌田氏の郷数による推計は、私も「戸数問題(5)」で試みた。鎌田氏が一郷当たりの口数を1052人とした推計方法が分からないが、私は一郷戸当たりの口数を25人と、一郷(50戸)当たりの口数を1250人として計算した。それを用いた計算結果は約505万人だった。いま、これに鎌田氏が推計した平城京人口と賤民口数を加えると530万人となる。鎌田氏の推計451万人との違いをあれこれ議論してもしかたないだろう。この計算をしたとき、私は次のような疑問を提出していた。

「工業・漁業・狩猟関係者などは造籍対象者ではなかったようだ。造籍対象者はいわゆる農業関係者だけだった。」

 もしもこれが正しいのなら、鎌田説も澤田説も「工業・漁業・狩猟関係者」を考慮していないことになり、どちらの方法で計算しても過小推計ということになる。

 「造籍対象者はいわゆる農業関係者だけだった」ということを論証できないだろうか。ほとんど不可能だと思えるが、試みてみよう。

 『続日本紀』には志摩の海民に伊勢・尾張の田を班給したことが特記されているが、これは特別に試行された班給だろう。全ての海民・山民に班給するには水田は決定的に足りなかった。そのために「良田百万町歩の開墾計画」が立てられたが、その事業は当然挫折した。もしかりに海民・山民への班給ができたとしても、そのことによって海民・山民の生業はおろそかになり、全てを自給自足しなければならない時代に逆行することになろう。それはそれまでに構築してきた共同体全体の破壊になりかねない。やはり、私は海民・山民への班給はなかったと考える。これの根拠となるような文献上の根拠はないだろうか。

 『続日本紀』での海民に関する記述を調べたら、見落としがあるかもしれないが、一例だけであった。752(天平勝宝4)正月3日条で、次のように記されている。

四年春正月辛巳、正月三日より始めて十二月晦日(つごもり)に迄(いた)るまで、天下に殺生を禁断す。但し、海に縁(よ)れる百姓、漁(すなどり)を業(なりわい)とし、生存(いきながら)ふること得ぬ者には、その人数に随(よ)りて、日別(ひごと)に籾(もみ)二升を給ふ。また、鰥寡孤独(くわんくわこどく)と、貧窮・老疾との、自存すること能はぬ者には、量りて賑恤を加へよ。

 上の記述からは、支配階級は明らかにその人たちを、いわゆる「良民」(造籍対象者)とは異なる「百姓」と認識していた。良民とは別に漁撈を生業とする人たちが確かにいたのだ。私はその口数は良民と同じくらいだったのではないかと推測している。もちろん、ただの想像であり、根拠はない。

 『続日本紀』には山民(狩猟や林業を生業とする人たち)を直接扱っている記事はない。関連すると思われる記事が2例あったのでそれを取り上げてみよう。

764(天平宝字8)年10月11日
甲戌、勅して曰はく、「天下の諸国、鷹・狗(いぬ)と鵜(う)とを養ひて畋獦(でんれふ)すること得ざれ。また、諸国、御特に雑の宍(しし)・魚等の類を進(たてまつ)ることを悉(ことごとく)く停(とど)めよ。また中男作物(中男作物)の魚・宍・蒜(ひる)等の類は悉く停めて、他の物を以て替へ宛(あ)てよ。但し神戸(かんべ)はこの限に在らず」とのたまふ。

 〈大系〉の脚注は宍(しし)について次のように解説している。

「鳥獣の肉。延喜式には御贄の宍として雉・鳩・猪・鹿などが見える。」

 鷹や狗を用いて猪・鹿などを狩猟する仕事は農民が片手間で出来ることではないだろう。その記事は狩猟を専業とする人たちもいたことを示唆している。

784(延暦3)年12月13日
庚辰、詔して曰はく、「山川藪沢の利、公私これを共にすること、具に令文に有り。如聞(きくな)らく、「比来(このころ)、或は王臣家と諸司・寺家と、山林を包(か)ね幷せて独りその利を専(もはら)にす」ときく。是(ここ)にして禁ぜずは、百姓何ぞ済(すく)はれむ。禁断を加へて、公私これを共にすべし。如し(も)違犯(ゐぼむ)する者(ひと)有らば、違勅の罪に科(おほ)せ。所司の阿縦(あしょう)するも亦与同罪(よどうざい)。その諸氏の冢墓は、一(もは)ら旧界に依りて、斫り損ふこと得ざれ」とのたまふ。

 山林は良民(農民)たちが、いわゆる入会地として、日常用いる山菜や木材・薪を採集することもあっただろう。しかし、この記事では「良民」ではなく、「百姓何ぞ済はれむ」と表現している。山林の管理やそこでの木材製造・狩猟などを生業としていた山民がいたことも、私には確かなことと思える。
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