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《続・「真説古代史」拾遺篇》(165)



「古代の推定人口」異論(7)


「推定人口」検証(1)

 従来流布されている推定人口についての疑問点は既に『「倭人伝」の戸数問題(5)』で述べている(以下「戸数問題(5)」などと略記する)。その時は資料をウィキペディアから拝借した。今回は念のため、鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』と『岩波講座日本考古学2 人間と環境』所収の小泉清隆論文「古人口論」を用いている。「戸数問題(5)」と重複する部分もあろうかと思うが、煩をいとわず初めてのつもりで進めることにする。なお、ちなみに小泉清隆氏は「戸数問題(6)」で取り上げた『図説検証 原像日本』の著者でもあった。

 さて、私は「戸数問題(5)」でウィキペディアの難解な(?)解説を次のように解読した。

「澤田氏による奈良時代の関東地方の推定人口94万3300人と関東地方における土師器を産出する遺跡数(5549箇所)から1遺跡当たりの人口(94,3300÷5549≒170)を基準値としている。そして、弥生時代はその0.2~0.43(平均約1/3)で56と推定する。弥生時代の土師器を産出する遺跡数は10624なので弥生時代の人口は、56×10624=594944、つまり59,4900人というわけだ。」
(推定人口と書いてきたが、一般には推計人口が使われている。以下は推計人口を用いる。)

 このときはこの推計人口は鬼頭氏によるものとばかり思っていたが、小山修三氏による推計人口だった。そして、この推計人口に対して、次のような疑問を持った。

「ここで使われている関東地方の人口も、1遺跡当たりの人口が弥生時代は奈良時代の約1/3というのも推定値であり、推定に推定を重ねている。遺跡だって、まだ未知のものがどれだけあるか分からない。このような推定値はとても信用するわけにはいかない。」

 「奈良時代の関東地方の推計人口94万3300人」は澤田氏によるものだ。この澤田氏の業績について鬼頭氏は次のように述べている。

「8世紀の推計人口には、沢田吾一によるものがよく知られている。小山が縄文・弥生時代の人口を推計する際にも利用しており、奈良時代の人口を論ずる場合に、避けて通ることのできない重要な業績である。」


 このように重要視されている澤田氏による推計については後ほど検討する。先にもう一つの疑問点
「1遺跡当たりの人口が弥生時代は奈良時代の約1/3」
を取り上げよう。この「1/3」の論拠を小泉氏が詳しく紹介している。以下の引用文では「土師期」という聞き慣れない言葉が出てくるが、これについての小泉氏のコメントを先の読んでおく。

『小山が使用する「土師期」は、今日考古学者は使っていないが、古墳時代・奈良時代・平安時代を包含した意味で、本論文では、小山の引用に限ってそれを使用する。』

さて、「1/3」の根拠は次のようである。まず、古代の一般住居の「一人当たりの住居面積」を計算している。

 小山修三は一人当たりの住居面積を3.3平方メートルとして土師期の船田遺跡のものにあてはめ、住居趾の面積から、一居住単位当たりの人数を計算している。これによると戸別人口は5~8人が最も多く、8~11人、11~14人がこれに続いている。またこれとは別にやはり土師期にあたる721(養老五)年に武蔵国で作成された戸籍を集計した結果、一家の構成人員は完全に船田遺跡のものと同じパターンを示すことから、一人当たりの住居面積3.3平方メートルは妥当な値であると結論している。

 引用文中に船田遺跡はは東京都八王子市にある遺跡で、もともとは「史蹟船田石器時代遺蹟」と呼ばれている。その遺跡で1965年代に「古墳時代後期の竪穴住居跡が195棟、古墳が1基(船田古墳)、奈良・平安時代の竪穴住居が97棟みつかり、これらの住居跡から出土した土器は、多摩地域における当該期の土器編年の基準資料となっている」(『遺跡が語る東京の歴史』)という。

 3.3㎡は一辺が約1.8mの正方形程度広さである。竪穴住居の一人当たりの住居面積3.3㎡というのは常識的にも妥当な数値だと思う。続きを読もう。

 一人当たり住居床面積を3.3三平方メートルと仮定して縄文・弥生・土師期の各時代の代表的な三つの遺跡の収容人員を計算する。

 土師期の船田遺跡の収容人員に対して、縄文時代中期高根木戸遺跡の収容人員は0.1から0.26倍なのでそのほぼ中間の1/7を中期の比例定数として採用する。縄文時代早期は中期最低の0.1倍を採り、その期間が倍であることを考慮にいれて1/20とし、また、弥生時代は大塚遺跡の0.2から0.4倍の数値のほぼ中央の1/3としている。小山はこの数字に遺跡数を乗じて、各時期・各遺跡の人口を求めた。

 私(たち)の関心の中心である弥生時代にしぼって検討してみよう。

 大塚遺跡は横浜市にある遺跡で「85軒の竪穴式住居が発見され、7棟の竪穴式住居と1棟の高床式の倉庫が復元されている」という。小山氏の計算は次のように行われたのだろう。
船田遺跡の全住居数(195+97=292)を用いると「85÷292≒0.29」
古墳時代後期の住居数(195)を用いると「85÷195≒0.43」

 前者は全く異なる時代の住居の合計数であり、これは不当だ。もし採用するとしたら後者の「0.4」だろう。こちらをとると弥生時代の人口は
「(170×0.4)×10624≒722000」
となる。しかし、どちらにしても、「弥生時代の土師器を産出する遺跡10624」の中からなぜ大塚遺跡を選んだのか、大塚遺跡一つだけのサンプルで結論を出せるのか、などの問題があり、私は杜撰過ぎる論理だと思う。ちなみに、小山氏が用いている資料は「全国遺跡地図」(全四七巻)だという。私には全く手の届かない資料だ。

 さて、鬼頭氏は小山氏による推計人口59,5000を弥生時代の人口として採用し、次のように続けている。

 つぎに3世紀の邪馬台国時代の人口についてであるが、『魏志倭人伝』にある邪馬台国以下29ヵ国の戸数から、180万人以上あったと推計できる。同書には邪馬台国ほか7国の戸数が書かれており、その合計は15万9000戸余となる。一戸あたり人員をどれくらいに見積もるかが問題であるが、3~5世紀の住居跡から推定される世帯の規模を参考にこれを10人とすれば、8ヵ国の人口は159万人余となる。戸数記載のない斯馬国以下21ヵ国の戸数を仮に各国千戸として加えれば、倭人伝29ヵ国の総人口は180万人余になる。しかしこれらの国は西日本に位置していて、東日本の人口が含まれていない。東日本人口を縄文晩期から弥生時代への増加率を用いて推計しこれに加えれば、当時の人口は220万人内外はあったとみてよいだろう。

 小泉氏の『図説検証 原像日本』の場合と同様、「倭人伝」の戸数記事を肯定している。というより、3世紀の総人口を鬼頭氏が「220万人内外」としているのに対して小泉氏が「ほぼ300万人」としている点(東日本の推計人口の差)を除いて他は全く同じなのだ。そして、弥生時代の推計人口59万5千人と3世紀の推計人口との大きな違いに目をつむっている点も同じだ。そのほか倭の「百余国」のうちの親魏倭国だけにしか目配りがないなどの問題点もあるが、いま私(たち)が問題にしているのは「倭人伝」に記録されている戸数なのだから、それだけにしぼって論を進めよう。

 「戸数問題(2)」では、取りあえず、一戸当たりの口数を5人とみなして8ヵ国(対海国~邪馬壹国)の全人口を約75万人とした。これに対して、小泉氏・鬼頭氏は一戸当たりの口数を10人として8ヵ国の全人口を159万人としている。一戸当たりの口数10人は「3~5世紀の住居跡から推定される世帯の規模を参考」にして推計したというのだから、こちらの方が正しいかもしれない。いずれにしても、奈良時代の推計人口を用いて算出した59万5千人とは相容れない。この弥生時代の推計人口を疑うしかない。

 弥生時代の人口の推計方法のうち奈良時代の人口の「1/3」という論拠があやしいことは先に指摘したが、これはさほど重要なことではない。弥生時代の推計人口を疑うということは、もう一つの根拠、澤田氏による奈良時代の推計人口を疑うことである。次回は澤田氏による奈良時代の推計人口を検討しよう。
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この記事へのコメント
北部九州の比較はどうなるんでしょう
問題は鬼頭氏が邪馬「台」国を大和を中心とした近畿の広い範囲に比定していることでしょうね。つまり西日本の国々が180万人、主要8か国が159万と考えているわけで、我々の立場では159万人から投馬国の50万人を引いた100万人が「北部九州の人口」(対海・一大国含む)となりますが、この辺(北部九州)の比較はどうなるんでしょうか?
2013/05/19(日) 20:57 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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