2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(164)



「古代の推定人口」異論(6)


 これまで網野氏の著作を頼りに各時代の社会像を見てきた。これを確認・補強する意味も兼ねて、これからの論考に必要と思われる事柄を『続日本紀』を用いて調べておこう。まず、関連すると思われる事項の奈良時代年表を作ってみる。

701(大宝1)年
 8月 大宝律令なる
 10月 律令を諸国に分つ
706(慶雲3)年
 9月 田租の法を改める
710(和銅3)年
 3月 平城京に遷都
711(和銅4)年
 10月 蓄銭叙位令、私鋳銭を禁ず
715(霊亀1)年
 5月 浮浪人に逃亡地で調庸を課す
 里を郷に改称
718(養老2)年
 藤原不比等ら、養老律令を撰上
721(養老5)年
 7月 主鷹司の品部廃止
722(養老6)年
 閏4月 良田百万町歩の開墾を計画
723(養老7)年
 4月 三世一身法を定める
 11月 奴婢の口分田班給を12歳以上に改める
725(神亀2)年
 9月 志摩国百姓に伊勢・尾張の田を班給
729(天平1)年
 3月 全国の口分田を全て収公、改めて班給
730(天平2)年
 9月 諸国の防人を停止
743(天平15)年
 5月 墾田永年私財法を発布
746(天平18)年
 5月 諸寺が墾田・園地を競い買うを禁止
757(天平宝字1)年
 5月 養老律令施行
759(天平宝字3)年
 9月 品戸を原則廃止
772(宝亀3)年
 10月 再び墾田の私有を許す
784(延暦3)年
 12月 王臣家・諸寺の山林・藪沢(そうたく)兼併を禁ず
794(延暦3)年
 10月 平安京に遷都

 班田収受法が破綻していく様子がよく見える。729(天平1)年条は725(神亀2)年条のように海民や山民までに班給しようとするための政策だったのだろう。しかし、「全国の口分田を全て収公、改めて班給」し直したところで、絶対的に不足しているのだから、海民や山民までに班給できるわけがない。721(養老5)年条や759(天平宝字3)年条が記録しているような官民という拘束を解かれた人たちにも班給されたとしてもそれはわずかで、ほとんど従来からの農業従事者を再編成しただけだったのではないだろうか。

 さて、上の725(神亀2)年条では「百姓」という言葉が使われている。勿論、この言葉は『日本書紀』以来の用法で人民一般を指す。ちなみに、岩波〈新・体系〉ではこれを「はくせい」と訓じている。志摩は海民の国であるが、当然のことながら海民は百姓に含まれる。「百姓」は『続日本紀』には頻出する。

 ところで、『続日本紀』では「百姓」と類似する「良民」「公戸」という言葉が使われている。「良民」は「良人」ともただ単に「良」とも書かれている。この「良民」は「賤民」との対語である。詳しいことを知らなかったので、この際、改めて学習しておこう。(岩波大系『続日本紀』や「官制大観」というサイトを利用しています。)

良民
 一般に、戸籍に登録され、口分田を班給され、納税・課役を負担する者を指す。上級貴族の俸禄として支給される「封戸」と、納税が一般財政に用いられる「公戸(こうこ)」と、もう一つ「雑色人(ぞうしきにん)がある。それぞれ次のようである。

「封戸(ふこ)」
 親王に給される「品封」と臣下に給される「位封」がある。
「公戸(こうこ)」
 公戸は『続日本紀』に4例ある。そのうち768(神護景雲2)年3月条では「公戸百姓」という形で出てくる。「公戸身分の百姓」という意であろう。(他の3例については後に触れる。)
「雑色人(ぞうしきにん)」
 雑色人は、良民の中で下位に位置し、雑色人の中でも雑戸は下位に位置している。
 史生(ししょう)・大舎人(おおとねり)・伴造(とものみやつこ)・使部(しぶ)・兵衛(ひょうえ)などの雑任(ぞうにん 下級役人)や、諸役所に置かれた「~戸(べ)」の集団、それと次の品部(しなべ)・「雑戸(ざっこ)」を「雑色人」と呼ぶ。

「品部」について
 特殊技術・技能を有するとして旧来の「職業部」を再編し、特定の役所に置いたもので、「鷹戸」「船戸」「紙戸」などの「戸(べ)」の集団である。代々、技能を相伝する「常品部(じょうしなべ)」と臨時従業の「借品部(しゃくしなべ)」の2種がある。

「雑戸」について
 「品部」より下位の層として「雑戸籍」に入れられている。特定の役所に所属する手工業者集団で、役所の工房に上番(当番で出仕)する人と、直接、手工業品を納める人とがあり、いずれも課役の全額ないし一部が免除されている。

賤民
 五色の賎(ごしきのせん)と言い、5種類の賎身分がある。その中でも上下に二分される。いずれも無姓で、同身分間での婚姻しか認められず、解放されない限り身分は世襲である。

上位の「賎」
 戸をなす(家族を持ち一家を構える)ことを許される。次の3種がある。
「陵戸(りょうこ)」
 もとは「陵守(はかもり)」といって賎身分ではなかったが、養老令以降、唐制に倣って「陵戸」として賎身分に編成された。良民と同じだけの口分田を班給されている。
「官戸(かんこ)」―官有の奴隷賎民
 良民と同じだけの口分田を班給され、戸を構えることを許されている。
「家人(けにん)」―私有の奴隷賎民
 地域の族長層以上の私有奴隷賎民で、相続の対象とされた。良民の1/3の口分田を班給され、私業を営み、戸を構えることを許された不課口(納税義務を持たない人)である。

下位の「賤」
 戸をなすことを許されない。物や家畜に似る財産として賎視・駆使・売買される。次の2種がある。
「公奴婢(くぬひ)あるいは官奴婢(かんぬひ)」
 朝廷と諸王家が所有する奴隷賎民で、諸役所の雑役に従事する。
「私奴婢(しぬひ)」
 地域の族長層以上が私有し、相続の対象とされた不課口の奴隷賎民。その所有主に、良民の1/3の口分田が班給された。

 奴婢にはほかに「神奴婢」「寺奴婢」があが、「五色の賎」のうちには入れないようだ。

 なお、賤民の口数について、「官制大観」は次のように述べている。
「ちなみに、奴婢人口は全人口の5%と推定されているようです。つまり、その時代、20人に1人は奴婢とされたということです。」

 『続日本紀』での「公戸」の他の3例は、上の年表の721(養老5)年条と759(天平宝字3)年条と、もう一つ、722(養老6)年3月10日条である。年代順に転載する。

(1) 721(養老5)年7月25日
庚午、詔して曰はく、「…その放鷹司(はうようし)の鷹・狗、大膳職(だいぜんしき)の鸚鵡(う)、諸国の雞(にはとり)猪(いのしし)を悉く本処に放ちて、その性を遂げしむべむべし。今より而後(のち)、如(も)し須(もち)ゐるべきこと有らば、先づその状を奏して、勅を待て。その放鷹司の官人、幷せて職の長上らは且(しまら)くこれを停めよ。役(つか)ふ品部(ともべ)は並(ならび)に公戸に同じくせよ」とのたまふ。

(2) 722(養老6)年3月10日
伊賀国の金作部(かなつくりべ)東人・伊勢国の金作部牟良(むら)・忍海漢人安得(おしぬみのあやひとあんとく)・近江国の飽波(あくなみ)漢人伊太須(いだす)・韓鍛冶(からかぬち)百嶋(ももしま)・忍海部乎太須(おだす)・丹波国の韓鍛冶首法麻呂(おびとのりまろ)・弓削部名麻呂(ゆげべのなまろ)・播磨国の忍海漢人麻呂・韓鍛冶百依(ももより)・紀伊国の韓鍛冶杭田(くいた)・鎧作名床(よろいつくりのなとこ)ら、合せて七十一戸、姓雑工(ざふく)に渉ると雖も、本源を尋ね要(もと)むるに、元来雑戸(ざふこ)の色(しき)に預(あづか)らず。因(より)てその号(な)を除きて、並(ならび)に公戸に従はしむ。

(3) 759(天平宝字3)年9月15日
また、品部(しなべ)を停(とどめ)め廃(や)めて公戸に混(まろか)し入れむ。その世業(なりはい)を相(あい)伝ふる者は、この限に在らず。

 (1)(3)は雑色人から公戸に解放された記事である。(2)からは官庁に統合されていた品部・雑戸以外に各地に品部や雑戸と同じような仕事を代々生業としていた人たちがいたことがうかがわれる。(3)からは品部から解放された後も身につけた技術を用いた生業を続ける人たちがいたことが分かる。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1854-2f66e643
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック