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《続・「真説古代史」拾遺篇》(163)



「古代の推定人口」異論(5)


 弥生後期の北九州の状況を学習してきたが、実にさまざまな生業があり、交易も盛んだった様子がよく分かった。「倭人伝」が伝える戸数がリーズナブルなのではないかという印象がますます強くなった。これまでに流布されている弥生時代の人口の推定は奈良時代の推定人口をもとに行われている。その推定人口の妥当性を探るために、奈良時代の正しい社会像を知る必要がある。今回はそれを取り上げよう。

奈良時代の社会像

 「百姓=農民」という思い込みの淵源は班田収受法にある。その法施行の実際はどのようだったのだろうか。網野氏の著書②から引用する。

私は、いわば当初の「日本国」の国制の基本ともいうべきこの制度を実現するためには、水田は決定的に不足していたと考える。養老6(722)年、長屋王の政府が良田百万町歩の開墾例を発したことはよく知られているが、班田を制度通りに行おうとするならば、実際にこれだけの田地が必要だったのではあるまいか。この開墾令の実現のために、国家機関が本気で動いている点から見て、これを長屋王の非現実的な誇大妄想の産物とすることはできないと思われる。長屋王はこの国制を真に実現するための理想をめざしたのではなかろうか。

 しかし日本全国の水田の総計が百万町歩をこえるのは、確言するのは難しいが16世紀以降と推定されている。なぜなら諸国の田積をあげた諸史料についてみると、平安後期の『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』が85万9596町余、14世紀半ばの『拾芥抄(しゅうがいしょう)』が95万6474町、15世紀後半の『海東諸国紀(かいとうしょこくき)』が86万4905町余と、いずれも百万町歩に達していないのである。この数字がどこまで実態を現わしているかについては、議論の余地があるとしても、8世紀初頭に百万町歩の水田を開発することは、まったくの理想にとどまらざるをえなかったことはあきらかであろう。

 しかしそこまで水田は不足していたのである。このころ政府はしきりに陸田―畠地の開発を奨励し、これによって水田の不足を補う一方、百万町歩開墾令を止めた養老7(723)年には三世一身法(さんぜいしんほう)、さらに天平15(743)年に墾田永年私財法を発し、地域の有力者の開発意欲を促して、水田の増加をはからざるをえなかったのは、そのことをよく物語っているが、少くとも8世紀前半の「日本国」の政府は、この制度をその規定通りに実施しようという、強烈な意志を持っていたことも間違いない。

 天平元(729)年、藤原不比等の4人の子供の領導する政府の実施した班田は、口分田をすべて収めたうえであらためて班給するという徹底したもので、下級の官人の中に自殺者を出すほどの酷烈さを持っていたと思われる。

 また神亀2(725)年、海民の国志摩の口分田を尾張・伊勢に与えることにしているのも、もっぱら海に生きる海民にも水田を与え、これを「農民」として制度の中に組み入れようとする国家の強い意志がよく現われているといえよう(弥永貞三『日本古代社会経済史研究』岩波書店、1980年)。しかし、無理はやはり無理である。いかに海の世界では伊勢湾を通じて密接に結びついているとはいえ、尾張の水田を志摩の海民が耕作しつづけることなど、できるはずがない。おそらくこの水田は賃租に出され、志摩の百姓の手から離れ、百姓は海民としての生活を変えることなく展開、発展させていったに相違ない。

 また、いかに開発を奨励したとしても、足りないものは足りないのであり、水田の決定的な不足が班田制そのものの実施を不可能にしていったことはあきらかである。事実、9世紀に入ると班田の間隔が12年に一班となり、10世紀初頭を最後に、班田はもはや行われなくなる。

 さきの直線道路や戸籍などと同様、発足当初の「日本国」の国制の基本ともいうべき班田制は、弛緩し、10世紀以後、もはや完全に実質を失っていった。とはいえ、ここで「日本国」が水田を課税の基礎とし、6歳以上の全人民にこれを与え、いわばすべての百姓を「稲作農民」にしようとする強烈な国家意志を社会に貫徹すべく、少くとも百年、長くみれば二百年、本気で試みつづけたことは、その後の列島社会に、じつに現在にいたるまで甚大な影響を及ぼした。

 いまでも高校の教科書には、律令制の説明に関連して「班田農民」という用語が当然のごとく使われ、水田があたかも全国をおおったような叙述が見られる。しかしさきの志摩の海民のように、水田はもとより農業自体にもほとんど関わりなく、山野河海で独自な生業を営む百姓の場合、そうした非農業的生業の比重は、農業をはるかに上まわっていたに相違ないのであり、そうした百姓をすべて「班田農民」とするのは「日本国」の国制にひきずられ、その国家意志の下に自らをおき、結果として多様な非農業的生業を切り捨てる結果になるといわざるをえない。この表現は、一日も早く改められる必要がある、と私は考える。

 班田制を貫徹するためには水田がまったく不足していたことが指摘されている。また、弥生時代にもさまざまな生業があった。当然のことながら、奈良時代も農業一色ではなかった。その生業は弥生時代以上にバラエティーに富んでいただろう。網野氏は「非農業的生業の比重は、農業をはるかに上まわっていたに相違ない」と断定している。その様相は庸・調の実体からうかがい知ることができよう。②からの引用を続ける。

 しかし「日本国」自体は、けっして水田で収穫される米を収取、貢納させていたわけではなかった。田地には初穂に当る租が賦課されていたが、それは収穫のわずか3パーセントにすぎず、国の正倉に蓄えられてその一部は出挙(すいこ)といわれる利稲付資本として百姓に貸し付けられ、国の財政を支えており、それ自体、ただちに食料とされていたわけではなかった。

 都の政府には、首長へのミツギをうけついだ調・庸が貢納されたが、その中には米はほとんど見出されず、きわめて多様な品目の物資が成年男子(正丁。その前後の次丁、少丁も若干、負担)の負担として、都まで運ばれたのである。

 たとえば若狭の百姓の調は、内陸部までふくめて塩であったことが、平城宮跡の木簡によって判明しているが、さきにふれた志摩の百姓の負担した「耽羅鰒(たんらのあわび)」など、海産物として塩、鰒、堅魚、そして鮭、海鼠(なまこ)、烏賊(いか)、海藻などが調として貢進されており、これに中男作物(ちゅうなんさくもつ)、交易雑物、さらに贄(にえ)の海産物を加えると、この国家の支配する社会の実態が、きわめて海の香りの高いことをよく知ることができる。

 また、さまざまな種類の絹・糸・布が広く諸国の調となっているほか、山陰・山陽道の中国山地に関わる地域の中には鉄や鍬などの鉄製品を貢納する国もあり、木器や焼物を出す国もあった。とくに中男作物には紙が多く現われるのも、注目してよいと思われる。

 これによって知られるように、百姓はさまざまな生業に携っていたのであり、けっして水田農業のみによって生活していたわけではない。とくに、さきの鰒を貢納する志摩の百姓がまぎれもない海民そのものだったように、列島の海辺の〝津々浦々″の海民の比重は、かなり大きかったと考えなくてはならない。

 たとえば、神亀年中(724~29)、対馬に食糧を送る船の梶取(かんどり)に差し定められた筑前国宗像郡の百姓宗形部津麿は間違いなく船を操る海民であり、それに代って対馬に船出して遭難した同国糟屋郡志賀村の白水郎荒雄(あまのあらお)も「白水郎」を氏名とする海民であった。こうした海民の百姓がさきのような海産物を調として貢納したのであり、『日本後紀』延暦18(799)年11月14日の条に「児島郡百姓等、塩を焼て業となす、因て調庸に備う」とあるように、塩を貢納する百姓の中にはこうした製塩民ともいうべき人々が多数いたのである。

 しかし若狭の内陸部の百姓で塩を調として負担している人の場合、米などの産物と塩とを交易して納めたのであろう。鉄や鍬を貢納している伯耆・備中・備後などの百姓の中にも、製鉄民というべき人々が少からずいたと見てよいと思うが、やはり米と鉄とを交易していた場合も十分に考えられる。

 そしてとくに見落してはならないのは、さきの志摩の耽羅鰒は大伴部得嶋(えじま)という男性が納めているが、実際に鰒をとっているのは海女―女性であり、絹・糸・布なども貢納者は男性の名前になっているとしても、生産者はのちにもふれるように、女性と見るのが自然である。

 このように「日本国」の国制が、水田を百姓に与え、それを基盤として成年男子にさまざまな物品を貢納させるという租税制度を実施したことは、稲作以外のきわめて多様な生業や女性の生産労働など、社会の実態の重要部分をおおいかくす結果になった。現在まで、多くの歴史研究者がこの国制にひきずられて、百姓を頭から「班田農民」ととらえる誤りに陥り、海民・山民をはじめ多様な生業に携わる人々、女性の活動などを切り捨てたことに気づかなかったのであるが、それはさきのように、当初の「日本国」が本気でこの制度を貫徹させようと百年以上、社会に立ち向った結果、水田を課税の基礎とし、租税の負担者を成年男子とする制度が、本来の律令に基づいた制度が行われなくなったのちも、中世、近世と形と内容を変えつつ長く維持されたことに、大きく影響されている。

 後に詳述するように、百姓をただちに農民と解する日本にしか通用しない理解の仕方が、近世後期から近代、さらに現在にいたるまで、政府をふくむ日本人のほとんどすべてに広く行われるようになる起点は、まさしくこの当初の「日本国」の租税制度に端を発しているといわなくてはならない。

 網野氏は「日本列島は、3700以上の島々からなり、海岸線は2万8千キロメートルにおよび、農耕地になりうる低地、台地は25%ぐらいしかない」と指摘している。こうしたことからも海民がかなりの数であることが納得できる。また、上の文では山民についての詳しい記述がないが、狩猟や林業を生業とする人々もかなりいたはずだ。
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 コメント
この記事へのコメント
海の生産力
誰の推計も「海の生産力」の軽視がありますね。米麦ばかり食べなければ人間は生きていけないと思い込んでいるのでは。海産物と粟・稗など雑穀が支える生命をどう考えているんでしょうか。
2013/05/11(土) 18:05 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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