2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(162)



「古代の推定人口」異論(4)


(以下は玉田芳英編『史跡で読む日本の歴史1 列島文化のはじまり』所収の[a]三好孝一論文「稲作の開始と青銅器生産」と[b]七田忠昭論文「弥生集落の展開」を教科書にしています。)

弥生後期の社会像
を、集落の変遷の面から探ってみよう。

 弥生時代を特徴づける生業である稲作の技術ははどのようなレベルにあったのだろうか。最も古いとされている佐賀県菜畑遺跡は次のようである([a])。

 遺跡は、唐津湾西部の現在の海岸線から1㎞ほどはいった場所に立地し、その附近には山麓部から樹枝状にのびた丘陵の先端部と、その前面を流れる松浦川によって形成された砂堆が形成されている。その一画に調査区を設定した結果、低地部において、幅約0.6~1.3㍍、深さ0.3~0.6㍍をはかる水路と、これにとりつく畦畔から形作られた耕作面4枚が検出され、さらに、附近から炭化米、諸手鍬、エブリなどの木製農具、石庖丁や石鎌も出土したため、水田とする確証が得られた。

 次ぎに古いとされる福岡県板付遺跡は次のようである。

 それは、部分的に木杭や板材で補強した細長い不整な長方形の畦畔を構築して耕作面を区画し、これらの間を堰、取水口と排水口を付随させた幅2㍍、深さ1㍍をはかる水路でつなぐという本格的なものであった。さらに、隣接するG-7b区で検出された水路底面のくぼんだ部分からは、諸手鍬やエブリ、鍬の柄など水田耕作に関連する農具の未成品が出土し、そのほかに石庖丁、石鎌未成品、そして、炭化した米粒そのものまでが検出された。

 ここでもうすでに「本格的なもの」と言われるほどの水田が構築されている。この時期よりおよそ800年後(前2世紀頃)、北九州の水稲稲作を主体とした農業は相当発展していたと思われる。私は「天孫降臨」というアマクニによる北九州侵略を前2世紀頃と考えているが、北九州は魅力的な穀倉地帯だったのだ。

 さて、水稲稲作を主体とした農業の開始により、当然、集落形態も大きく変化する(以下は[b]による)。

 縄文時代において長期間続いた環状集落・馬蹄形集落といった伝統的な集落構成が解体し、竪穴住居を主体とし周囲に穴倉(貯蔵穴)や高床倉庫と考えられる掘立柱建物を配置する農業集落の基礎が形成され、なかには環濠集落とよばれる区画あるいは防御目的の溝や濠(壕)によって囲まれた形態の集落も出現する。

 それでは弥生後期の北九州の集落はどのようなものだったのだろうか。

 弥生時代後期には、近畿地方などほかの地域の環濠集落の大半が中期末頃に解体しはじめるのに対し、九州地方北部ではそれまでの環濠集落が大規模に発展し、また、新たな大規模環濠集落が相次いで生まれるなど、様相を異にする。  佐賀県吉野ヶ里遺跡
 長崎県原ノ辻遺跡
 福岡県平塚川添(ひらづかかわぞえ)遺跡
では発掘調査が進んでおり、集落構造もしだいに明らかになってきた。

 上の3遺跡の様相は次のようである。

 原ノ辻遺跡は『魏志倭人伝』に記された一支国の都となった集落跡で、前期末から集落が形成され、中期前半以降平面楕円形にめぐる三重の環濠によって囲まれていた。後期には環濠に囲まれた丘陵頂部には祭祀場と考えられる区画があり、掘立柱建物などが存在していた。中期前半には船着場があることがわかり、朝鮮半島の無文土器や三韓系土器、楽浪系土器や中国の銅鎖や銅銭、ガラス製トンボ玉などの出土品、また伊都国とされる福岡県糸島地方のものと類似した弥生土器などと合わせて、『魏志倭人伝』の「南北市糴」(市場)を証明する。中期には石庖丁などの石器を生産していた。

 一大国の都における交易の賑わいぶりが想像できる。もうこの頃には商業を生業とする人々もいたと考えられる。また、倭人以外のいろいろな人種が住んでいたことだろう。その戸数を「三千許家」と、「戸」ではなく「家」で表現していたことも納得できる。さらに、石器生産を生業とした人々がいたとも言う。これはもう「都市」と言ってもよいのではないか。

 平塚川添遺跡は、近畿・東海地方に通例の多重環濠集落であり、中期前半の二重環濠の外側に後期にさらに三重の環濠が設けられていた。内部では多数の竪穴住居や掘立柱建物などが発掘されたが、環濠内部では溝などで区切られた区画も存在し、大型建物や四棟並んだ状態の大型掘立柱建物が存在していた。集落内では石製管玉など玉類を生産していたとみられている。

 大型建物は倉庫だろう。この集落は工業団地のようなものだったのだろうか。ここはいわば拠点集落の一つであろう。拠点集落について、[b]は次のように説明している。

 地域集落群のなかの集落を個別的にみてみると、その立地と規模、環濠の有無など集落構造の違い、集落の継続性、農業以外の手工業生産の有無、出土品の質や量の差異、非日用品の存在など、集落間の相違を把握することによって、格差をもった集落群がピラミッド状に構成された地域集落群の姿が浮かび上がってくる。すなわち、内部に記念物的な大型建物や青銅器などの手工業工房をもち、祭祀的な施設や文物をもった中核となる大規模な環濠集落の下に、防御的な中小環濠集落が、その下位に無環濠の大規模農村、さらに多数の無環濠の中小集落(農山漁村)が存在していたのである。

 吉野ヶ里遺跡は一大拠点集落だ。吉野ヶ里遺跡は縄文時代晩期から弥生時代終末期までの環濠集落が発掘されている。[b]では吉野ヶ里遺跡についてかなり詳しい解説が行われているが、弥生後期のまとめに当る部分を転載することにする。

 弥生時代後期後半から終末期の吉野ヶ里集落では、環濠、城柵、物見櫓などの防御施設が設けられ、内部には政治・祭事的な空間や祭殿・祭壇などの祭祀施設を計画的に備えたともみられ、内部に多くの人々が住み、周辺集落を含めて青銅器、木器、絹布や大麻布などを生産する手工業工房が存在していたと考えられる。

 吉野ヶ里遺跡は、朝鮮半島から伝播した水稲農業や手工業を発展させて成立・発展した集落であるが、その当初から環濠を備え、前期・中期と規模を拡大させ、後期後半から終末期には大規模な環濠集落へと発展し、内部には祭事の場としての北内郭や、政事の場としての南内郭、物資集積の場としての高床倉庫群などが、環濠・城柵・物見櫓で守られて存在していた。吉野ヶ里集落はまさにピラミッド構造をなす地域集落群の中の拠点集落として存在していたことが発掘によって確かめられたのである。

 一般的な環濠集落形態が縄文時代晩期や弥生時代前期に朝鮮半島から伝播したこととは違って、中国の都市景観を導入するといった政治的な積極行動とみることも必要と考える。一部ではあれ、はじめて日本国内に中国の都市形態が導入されたことは注目される。このことは周辺の主要な墓地から出土する多数の後漢鏡や鉄製素環頭大刀などの中国の権威を帯びた文物などと合わせ、中国との外交といった視点からも考察しなければならない現象であろう。

(中略)

 吉野ヶ里遺跡のクニと想定される南北約20㎞、東西約15㎞の範囲でも、福岡平野など九州北岸平野部とを隔てる分水嶺である北の脊振山地南麓に延びる河川や丘陵によって隔てられた小地域ごとに、中核となる環濠集落が存在している。そして、その周囲に環濠をもたない大中規模の農業集落、さらにその周囲に小規模農業集落や、森林資源を供給する山村や海洋資源を供給する漁村がネットワークを組んで存在していたことが推定される。

 吉野ヶ里遺跡の南方約10-12㎞地域は弥生時代後期から終末期にかけての有明海の海岸線であった。その沿岸部に位置する佐賀郡(現佐賀市)諸富町では、東海地方以西からの搬入土器あるいはそれら地方の形態の特徴をもった土器群が多数出土しており、交易・外交に供される港津の存在も想起される。

 特に弥生時代後期後半から終末期にかけての時期には、吉野ヶ里集落の周囲2㎞の範囲に現在までに確認されただけでも5ヵ所の環濠集落が存在し、かつ山麓線や南の有明海に注ぎ込む城原(じょうばる)川沿いには環濠集落と考えられるこの期に成立した集落が多数存在するなど、戦略的とも考えられる配置状況であることは注目される。

 伊都国の東南に位置づけられている奴国は戸数2万の大国。この集落は、もしかしたら、奴国の都だったのでは?
(妄言でした。百里を無視していました。しかし、邪馬壹国か奴国内の集落の一つであった可能性はあると思う。)
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
前々回の記事について
 弥生時代の始まりが前10世紀頃ということと『論衡』の「(周の)成王の時(紀元前1115~1097年)、越常白雉を献じ、倭人は暢(鬯)を貢ぐ」とは密接に関係していると思われます。
 この時期は箕子が朝鮮に渡り東夷を教化したとされる時代で、ここを通じて倭人は周王朝と初めて交流を持ったこととなります。
 この交流により水稲耕作技術が普及し弥生時代の幕が開いたとの考えはどうでしょうか?
 弥生幕開けが紀元前10世紀というのが九州なら、鬯草を献じた倭人は疑いなく九州の倭人ですね。
 であれば、周王朝は邪馬壹国・九州王朝に極めて大きな影響をあたえたもので、周制に復した魏晋朝への臣従はその辺にも遠因が有ったのかも知れません。
2013/05/08(水) 23:46 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013/05/09(木) 09:52 | | #[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1852-92ee13af
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック