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《続・「真説古代史」拾遺篇》(161)



「古代の推定人口」異論(3)


弥生文化概観

 網野氏は「弥生文化」の項を次のように書き始めている(今回は全て①からの引用)。

 ふつう稲作は弥生時代からと考えられていますが、縄文晩期から瀬戸内海や北九州の一部ですでに稲作がはじまっており、稲作と弥生土器はかならずしもセットであったわけではありません。

 氏は、稲作の始まりが従来の説よりかなり遡るという考古学上の成果について、縄文時代・弥生時代の従来の実年代区分を変えるのではなく、縄文時代にも稲作が行われていたと解釈している。その理由として「稲作と弥生土器はかならずしもセットで」はない事を挙げている。いまでもこのように解釈する学者が少なからずいるようだ。しかし、その後の研究結果では、稲作と弥生土器はセットになっているのだった。前回利用した西村豊弘論文「縄文文化から弥生文化へ」は次のように述べている。

 我々が弥生文化の始まりを追及する時に取った方針は,弥生初期の土器の年代を測定するだけでなく,前後の時代の資料の年代も測定することである。我々は,弥生時代のはじまりを水田稲作のはじまりと定義しており,水田稲作を伴う時期の土器型式とされる九州北部の山の寺式土器と夜臼I式土器の年代を測定し,それらの土器の使用時期を紀元前10世紀と推定した。この年代推定は,山の寺式土器と夜臼I式土器の年代を測定した結果だけではなく,その前の時代の縄文晩期や,弥生前期の土器型式の年代を測定することによって得られたのである。それも九州北部だけではなく,日本全国の土器型式の年代も測定した結果に基づいている。

 そして,この方針により山の寺式と夜臼I式土器を測定した結果,九州の縄文晩期の土器として知られる黒川式土器の新しい時期のものと同時期であり,器形が異なることから同時期に用途を異にして使い分けていたらしいことが明らかとなった。他の地域でも年代測定の結果,縄文晩期の土器と弥生土器が並存することが知られるようになり,縄文文化と弥生文化の接触のあり方について,新しい視点で考える手がかりが得られつつある。

 さて、新しい実時代区分では弥生時代は約1200年もの長い期間続いたことになる。当然その間に、縄文文化を引き継ぎながら大きな変化・発展・進歩があっただろう。弥生文化どのようだったのろうか。取りあえず、それを概観しておこう。

 弥生時代の特徴といえば、まず「稲と青銅と鉄」が挙げられよう。これらはそれぞれの技術を持った集団が朝鮮半島経由で移住してきて、まずは北九州にもたらされた。網野氏はその他にも養蚕・織物の技術・新しい土器製塩の技術などが入ってきたと言っている。また、面白いことに鵜飼もその中に入ると言う。

 また、鵜で魚をとる鵜飼もこのころ列島に入ってきたようです。鵜飼は列島の西部からはじまり、中世になると、ほぼ日本列島全域に鵜飼を生業とする人が広がっています。ですから、生活を十分支えられる漁法だったわけですが、これも稲作といっしょに入ってきた技術のひとつです。

 これらの文化がどこから持ちこまれたのかについてもさまざまな議論がありますが、だいたい中国大陸の南部、いわゆる江南および朝鮮半島を経由して入ってきたと考えられます。たとえば、巨石を用いる支石墓や金属器は朝鮮半島から北九州に入ったのでしょうし、鵜飼や最近有名になった吉野ヶ里の遺跡については、江南の文化とのかかわりが非常に注目されています。

(中略)

 そしてこのような広がり方を見ますと、弥生文化は、本来海をこえてきた文化であり、海や川を通じて広がったことは明らかです。ですから弥生文化をもたらした人々は、元来、海に深いかかわりがあり、船を駆使するすぐれた航海の技術をもった人々であったと考えられます。また、弥生時代になっても大きな貝塚があるわけですから、漁撈、製塩、狩猟、採集も依然として行われているわけですし、弥生時代は、はじめから海を視野に入れないと、理解しがたい文化であることも強調しておく必要があると思います。

 中国大陸や朝鮮半島との交流も、われわれがこれまで考えてきたよりもはるかに密接です。いろいろ議論はあるようですが、朝鮮半島の南部から、日本列島でつくった弥生土器が出土しているとのことですし、日本列島の西部、朝鮮半島の南部、あるいは中国大陸の海辺などの交流の中で、海と深いかかわりを持ちつつ、「倭人」とよばれる集団が形成されていくのだと思います。

 それゆえ、「倭人」は決して「日本人」と同じではないのです。列島西部を中心とした弥生文化の担い手であるとともに、海をこえて朝鮮半島南部、あるいは中国大陸の一部にまで広がった人びとの集団であったと考えておく必要があります。

 それは弥生時代の末期に書かれた『魏志倭人伝』によってもよくわかります。注意しておく必要のあるのは、対馬について、田畑がないのでもっぱら南北に交易を行って生活しているとあり、壱岐についても、若干の田地はあるけれども、生活を支えるには不足なので、やはり南北に交易していると書いてあることです。これは壱岐、対馬だけでなく、島で成り立っている日本列島に広くあてはまることで、「末盧国」といわれた松浦地域も同様と考えなくてはなりません。

 このように、日本列島の社会は当初から交易を行うことによってはじめて成り立ちうる社会だった、厳密に考えれば「自給自足」の社会など、最初から考えがたいといってよいと私は思います。これだけの人口がいるのだから、これだけの水田、田畑があるはずだというのは、頭から農耕のみによる「自給自足」を前提にして、漁撈、狩猟、採集などの他の生業を無視しており、決して事実にそくした見方ではないと思います。

 さらに『倭人伝』の中には、「国々に市あり。有無を交易す」という記事が出てきます。この「国」はのちの郡の程度、あるいはもう少し小さな単位だと考えられますが、すでにそうした地域に市庭(いちば)が立っているわけで、交易の場がいかに重要であったかがよくわかります。こうした市庭なしに社会は成り立ちえなかったのです。

 実際、平地に住む平地民の生業としての田畑の穀物の生産、それに桑、漆、麻、苧(からむし)などの樹木の栽培やその加工による諸生産、牧での馬や牛の飼養、海民の採取する魚介類や塩、山民の採集する果実や木材、それを素材として生産される炭や木器、漆器、さらにこれを燃料として生産される焼物や、山で採取、製錬される鉄・銅、および、それを加工した鉄器、青銅器など、こうした多様な生産物の交換が広い範囲で行われなくては、社会が成り立たなかったと考えなくてはなりません。

 山民と海民との間の分業は、縄文期には成立しており、弥生時代には平地民との間にも分業が確立したと考えられますから、縄文期の塩や魚貝、あるいは石器の原料などの交易を媒介していた原初的な商業活動は、弥生期以降さらに活発かつ広域的になったと考えられます。まだ、専業の商人ではなく、生産者が広い地域を動いて交易に従事するのがふつうだったと思いますが、それを支えたこの時期の交通の基本が海、川による交通であったことは遺跡、遺物の分布をみてもはっきりとわかります。川や海にかかわりを持った遺跡が多く、水系によって遺跡群のまとまりもあるようです。しかもそれは予想以上に活発だったと考えたほうがよいようで、日本列島を横断する交通路は、早くから何本もあったと思われます。

 瀬戸内海から大阪湾に入り、淀川を遡上して宇治川に出て、若干の陸路を通らなくてはならないでしょうが、琵琶湖に出て、また短い陸路を経て北陸、日本海に出る交通ルートは、この時期には活発に利用されていたと考えられます。

 また、弥生時代に北陸の勾玉がかなりまとまって千葉県から出土していますので、中部、関東を、川と陸の道を利用して横断し、太平洋と日本海をつなぐ列島の横断路も利用されていたと思います。とくに川の交通は、現在からは想像できないくらい活発だったと見なくてはなりません。

 「倭人伝」の記述についての考察が行われている。いま取り上げている「人口問題」の発端は「倭人伝」に記録されている戸数だった。次回は、「倭人伝」の時代、すなわち弥生後期にしぼって、その社会状況を少し詳しく調べてみよう。
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「人口推計は誤り」との論証に期待
先日研究仲間と議論しましたが、「至伊都国・不彌國・奴国」とはそれぞれ「国の中心地=政庁・国庁なり宮の所在地に至る」ということであり、奴国の政庁所在地が伊都国東南100里7~8キロの怡土平野の三雲・平原・井原であって、奴国の範囲を怡土平野に限定するのは誤りではないか、との意見が出されました。
 確かに末盧國の「山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず」と言う記述は、菜畑など縄文以来の「穀倉地帯」には合わず、松浦半島周辺に限定される可能性があります。そうであれば、奴国は菜畑から伊都国東南一帯に広がっていたと考えるべきことになり、2万戸十数万人も不自然ではありません。
 こうした考えに加え人口推計の誤りが論証できれば、博多湾岸邪馬壹国説は人口問題から見ても正しいという確信が持てるようになります。
現在進められている論証に期待しています。
2013/05/06(月) 22:22 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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