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《続・「真説古代史」拾遺篇》(160)



「古代の推定人口」異論(2)


縄文時代と弥生時代の実年代

 縄文時代は土器による日本特有の命名だが、世界史的には新石器時代に区分される。それ以前は旧石器時代と呼ばれている。旧石器時代のはじまりは定かではないが、その下限、言いかえると縄文時代の開始は約紀元前1,5000年頃とされている。今のところ、1998年に大平山元Ⅰ遺跡(おおだいやまもといちいせき 青森県外ヶ浜町にある縄文時代草創期の遺跡)から出土した土器が一番古く、炭素14年代測定法により1,6500年前と算定されていることによる。人の手で作られた器具を工業製品と呼ぶなら、いまのところ、この土器が世界最古の工業製品ということになる。

 縄文時代の下限(弥生時代のはじまり)は稲作の開始が目安にされ、従来は前5世紀から前3世紀頃とされてきた。しかし、2003年5月20日に、「弥生時代の開始が500年さかのぼってBC10世紀頃」という国立歴史民族博物館による研究発表があった。この研究は、北九州を中心(福岡県板付遺跡、佐賀県菜畑遺跡など)に縄文晩期から弥生時代の土器の炭素14年代測定を集中的に行ったものである。この結果をふまえて作られた弥生時代の実年代表を掲載しよう(秋山浩三著『弥生実年代と都市論のゆくえ』より転載)。

弥生時代の年代

 その後も研究は続けられている。西村豊弘編『新弥生時代のはじまり 第2巻,縄文時代から弥生時代へ』所収の藤尾慎一郎氏の論文「弥生時代の開始年代」には詳細な研究経過が記されている。そこで氏は「2007年2月現在,濯漑式水田稲作の開始は前10世紀後半と考えられる」と結論している。また、これは北九州に限らず、東部九州・豊前・豊後でも同様であると報告している。

 九州以外の地域の弥生開始年代はどのようだろうか。前提書所収の西本豊弘論文「縄文文化から弥生文化へ」から引用する。

 我々の研究チームのこれまでの年代測定によって,九州北部での弥生早期の始まりは紀元前10世紀後半,九州全体から
 瀬戸内東部・四国の弥生前期の始まりは紀元前800年頃,
 近畿地方の前期の始まりは紀元前600年頃,
 中部地方での弥生前期の始まりは紀元前550年頃
と推測される。

 九州で水田稲作が始まって以降,約350年をかけて中部地方にまで弥生農耕文化が広がったことになる。

 以上をまとめると
縄文時代
 紀元前1,5000世紀頃~前10世紀頃
で、約1,4000年間
弥生時代
 前10世紀頃~3世紀中頃
で、約1200年間
ということになる。稲作がこれほど早くから行われていたという事実からも私たちの古代観の再検討が迫られていると思う。

縄文時代の社会像

 日本列島は「稀なる孤島」であり、縄文文化は「孤立した日本列島固有の文化である」という従来から思い込みが未だに強く残っているようだ。この問題についてはずいぶん以前に一度取り上げたことがある。

『「日本」とは何か(5):「稀なる孤島」という虚像(1)』
『「日本」とは何か(6):「稀なる孤島」という虚像(2)』

 このころ、私はまだ古田氏の諸著作を知らず、もっぱら網野氏の著書②を教科書にしていた。網野氏は2004年に亡くなられていて、上記の国立歴史民族博物館による研究発表はその著書には反映されていない。だから氏は「弥生時代の始まりは前5世紀から前3世紀頃」という説のもとに論を進めている。そのことを考慮しながら読んでいくことにする。

 さて、縄文文化は「孤立した日本列島固有の文化」ではない。東アジアの住民たちは相当古い時代から互いに渡来し合い、その交流を通して技術・文化・知識面で相互的に影響し合っていた。もちろん列島内においても同じである。各地域間の交流も活発だったことだろう。網野氏は次のように述べている(①から引用)。

 いずれにせよ、いままでわれわれが教えられてきたように、縄文文化が「島国」の中に孤立した文化であったとする見方は、完全に誤りであることが明らかになってきました。

 日本列島の内部でも、海を通じていろいろな物が動いていたことがわかってきており、千歳空港の拡張工事で発掘された美々(びび)遺跡からは、翡翠がたくさん見つかっています。これは新潟県、糸魚川のあたりの翡翠で、かなりの年月をかけたにせよ、大量のものが新潟から海を通じて北海道に運ばれていたことがわかります。

 こういう事例は数限りなくあげられるようで、長野県で黒曜石の工場のような遺跡が発掘されたという話もあります。黒曜石の交易は日本列島の中で非常に活発に行われており、これはたまたま交易をしたというのではなく、最初から交易を前提に黒曜石の生産をする、いわば「商品生産」が縄文時代にすでにあったといえるのだと思うのです。

 商業の開始についても、これまでは新しい時代のことと考えられてきたのですが、交易のために物を生産することが行われていたとすれば、商業がすでに行われていたといってよいのではないかと思います。

 黒曜石だけでなく塩も同様で、日本列島の場合岩塩がありませんから、塩は海水からとらなくてはなりません。最初のうちは「藻塩を焼く」といわれるように、海草を使って鹹水(かんすい 塩分の濃い海水)を得て塩を焼く煎熬(せんごう)をしていたのですが、縄文後期になると土器で製塩が行われるようになります。

 霞ヶ浦の沿岸などに大きな製塩土器が発掘されていますが、土器で塩をつくりますと、相当量の塩が一挙にとれます。ですからこれは交易を前提にした製塩であるといって間違いないと思います。塩がとれると魚貝の塩蔵も可能になり、その交易も行われるようになりますので、塩の交易、それにともなう魚介類の交易は、日本列島の社会の中でもっとも早く現われる商業で、塩商人、魚貝商人は、やはりもっとも古い商人ではないかと私は考えています。

 これまで縄文時代については、毛皮をまとったほとんど裸の人が、裸足で弓矢や石器を使って獣を追って駆け回っているイメージが強いのですが、これは徹底的に消してしまわないといけないと思います。

 たとえば衣類にしても、藤や葛など木の繊維を使った織物がありますし、木の実を入れる編み物の袋も作られています。靴も履いている。また道具も、弓矢や石器だけではなくて、木器もかなり高度なものが作られています。

 若狭の三方五湖の、鳥浜遺跡という有名な縄文時代の遺跡からは、きれいに漆を塗った女性の櫛も出土しています。また最近の青森市の三内丸山の遺跡からは、みごとな漆器がたくさん出土していますし、おどろくほど厖大な量の土器も発掘されています。さらに巨大な柱跡が見られるのですが、その間隔が等しく、一種の物さしがあったと推定されているのです。

 縄文時代の生活文化は、このように非常に豊かで複雑なものだったのです。それは漁撈、狩猟をはじめ、大変に発達した木の実の採集、加工を基礎にしているのですが、それだけではなく、植物、樹木の栽培もはじまっていたようです。鳥浜遺跡からは瓢箪の種が出てきたのですが、胡麻やニガウリの種も発掘されています。とくに瓢箪の場合、日本列島原産の植物ではないので、これは栽培されたとしか考えられません。このように植物の種を蒔いて栽培する技術は、縄文時代後期には日本列島の社会に定着していたのではないか、と考えられるようになっています。

 さらに稗もでてきますので、畑作も縄文後期にははじまっていたのではないかという説もありますし、縄文晩期には稲作が一部ではじまるわけで、このような非常に多様な文化が縄文時代にあったことは間違いありません。

 さらにまた、能登半島の真脇(まわき)遺跡をはじめ、さきほどの三内丸山など、日本海沿海地域に巨木文化とよばれるような、巨大な木を何本も立てた遺跡が各地で見つかっています。

 それが建物なのか、祭祀遺跡なのかはよくわからないようですが、これだけの仕事はかなりの組織的な社会ができていなければ達成することはできないと考えられますので、広域的な交易関係を持ちつつ、それぞれの単位の社会もかなり複雑になっていたものと考えられます。もちろんだからといってすぐに権力の存在や、支配、被支配の関係を考える必要はないと私は思いますが、それなりのリーダーの存在は考えうると思います。

 まったく素人なのにこのようなことから話しはじめたのは、これまで弥生時代に農耕、稲作がはじまると、われわれの目は完全に稲作だけに向いてしまい、日本列島の社会全体が稲作一色におおわれた農業社会になったように考えがちだったため、長い縄文時代を通じて蓄積されてきた、多様な生業にそくした技術や文化を切り落としてしまっていたことを強調したかったからなのです。縄文時代をそのように多様な生業に支えられ、広域的なつながりを持った社会と考えておかないと、その後の文化、社会を正確に理解することはできないと思います。

 ところで、時代をさかのぼるが、旧石器時代も決して閉じた社会ではなかった。いま玉田芳英編『史跡で読む日本の歴史1 列島文化のはじまり』を併読している。その中の加藤真二氏の論文『列島各地の旧石器文化』から引用する。

(北海道湯の里4遺跡)
 細石刃石器群のうち、楔形細石核をもつものは、本州島から北海道半島南部にナイフ形石器をもつ石器群が展開している時期に、いち早く北海道半島に出現する。これは、針葉樹疎林・草原化したこの地域にメインランドから流入したマンモス動物群を追跡してきた集団によってもちこまれたものだろう。楔形細石核による細石刃技術と荒屋型彫器をもつ石器群が、東シベリアからロシア極東地方を中心に東北アジアに広くみられるからである。

 また、史跡ピリカ遺跡(北海道今金町)、柏台1遺跡(同・千歳市)、湯の里4遺跡などから出土した、二万年前という古い年代をもつ細石刃石器群に特徴的な石製装身具も東北アジアの細石刃石器群にしばしばみられ、この見方によくあう。

 湯の里4遺跡では、墓とされる赤色顔料が散布された長径1.1㍍、、短径0.9㍍の土坑のなかから、楔形細石核の一種である蘭越(らんこし)型細石核や石刃石核とともに椴岩(かんらん)岩製玉製点、琥珀(こはく)製玉一点が出土した。玉類の素材となった橄欖岩は、北海道地方や古本州島産ではなく、アムール河下流からシベリア・中国の地域からもたらされた可能性があるという(畑宏明編『湯の里遺跡群』1985)。また、墓に赤色顔料をふりまく行為もそれらの地域に広くみられる。まさに、かの地から渡ってきた人、あるいはその近々の子孫が、この北海道半島の南端の地までたどり着きながらも息絶え、故郷から身に着けてきた玉とともに、かの地の流儀で葬られたことを想像させる。そして、その後に彼らの子孫が津軽海峡を越えた交流や移動によって、楔形細石核をもつ石器群を古本州島にもたらすこととなる。

(九州の剥片尖頭器)
 今度は、古本州島南西端の九州地方に眼を向けてみよう。ここではAT火山灰の降下後、剥片尖頭器をもっ石器群が突然出現する。この石器は、朝鮮半島南部を中心とする地域で後期旧石器時代の比較的古い時期から細石刃石器群期まで盛行する石器である。これをもつ集団が朝鮮・対馬海峡を越えて九州地方に流入、拡散したのだろう。この頃、イノシシが大陸から古本州島に流入したという考えがある(小澤智生「理フィロソフィア」10、名古屋大学理学部・理学研究科、2006)。これを追ってきたのだろうか。

 また、限定的な事例ではあるが、華北地域の梅溝遺跡(河北省陽原県)で小型石刃素材のナイフ形石器が出土したほか、西白馬営遺跡(同、1.8万年前)で今峠(いまとうげ)型ナイフ形石器、王府井東方広場遺跡(北京市宣武区、2.4-2.1万年前)で百花台(ひゃっかだい)型台形石器に類似した資料が存在する。ナイフ形石器は古本州島の代表的な石器であり、今峠、百花合両型式の石器とも九州地方特有のものである。

 前述したように、古本州島の後期旧石器文化は、大陸の渤海湾周辺地域の旧石器文化が西ルートでもたらされたものである。その後、局部磨製石斧や各種ナイフ形石器の盛行など、古本州島の旧石器文化は、地域的な特徴が濃くなる。しかし、後期旧石器時代の後半期に入ると、北海道半島や九州地方を窓口とする大陸とのさまざまなレベルの情報・物資の交流や集団移動があったようだ。大陸の一部であった北海道半島のものはもちろん、古本州島の旧石器文化も大陸のそれと密接に連動していたといえるだろう。そろそろ、〝わが国の旧石器文化″、〝日本旧石器文化″という捉え方から解放されてもいいのではないだろうか。

 言うまでもないことだが、どの時代でも人間社会の文化はたえず変化・発展・進歩して引き継がれていく。後期旧石器時代の後半期に到達した大陸との連動の延長上にある縄文文化が「孤立した文化」であろうはずがない。
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