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《続・「真説古代史」拾遺篇》(159)



「古代の推定人口」異論(1)


 『「倭人伝」の戸数問題(6)』で、
『「戸数=人口」という仮説を検討してみようと思う。なにか進展があれば次回に。』
と書いたまま、『「倭人伝」の戸数問題』を中途半端な形で放置して、二ヶ月ほども経ってしまった。

 さて、ずいぶん色々と考えてみたが、一大国と不弥国の戸数が3000許家・1000余家と「家」が用いられていて「戸」と「家」がはっきりと使い分けられている。「戸数=人口」という仮説には、このこととの整合性がなく、受け入れ難いと思うにいたった。もう一度、古田氏が言う「はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったらどうなるか」という原点に立ちかえってみようと思う。つまり、種々流布されている「古代の推定人口」を疑うことになる。(以下は網野善彦著①『日本の歴史をよみなおす』、②『「日本」とは何か』を教科書にしている。直接の引用文には①・②記号を付してその出典を示すことにする。)

 「水呑百姓」という言葉がある。「広辞苑」に
「田畑を所有しない貧しい小作または日雇いの農民。無高(むたか)百姓。水呑み。⇔本(ほん)百姓」
とある通り、私はずっとそのような意の言葉と理解してきた。『古事記』『日本書紀』『風土記』では「百姓」は「おおみたから」と訓まれていて一般人民を指しているが、何時からか「百姓=農民」という通念が出来上がっていて、私もその疑いもなく受け入れていたのだった。しかし「水呑百姓=貧農」というのはとんでもない誤解であることを知った。

 「水呑」という呼称は江戸時代に天領(幕府の直轄地)で用いられた呼称であり、それが一般化されたが、実際には地域によって異なる呼称が用いられていた。例えば
前田藩
 加賀・能登・越中…頭振(あたまふり)
 越前…雑家(ぞうけ)
萩藩…門男(亡土 もうと)
伊豆…無田
隠岐…間脇(まわき)
 これらの呼称について網野氏は次のように解説している(②)。

隠岐では「間脇」といわれたが、「間人(もうと)」は中世では新たに移住してきたものをさす語、「脇」は「本」に対して下位の存在、「雑」も同じく消極的な意味を持っている。「無田」は無高を直截に表現しているが、「水呑」「頭振」の語義はいまのところあきらかでない。これらの言葉については今後さらに各地域に即して蒐集につとめ、語義を考えてみる必要があるが、いずれにせよこれらの語がマイナス評価を含んでいることは間違いなく、そこに江戸時代の石高中心の制度「農本主義」が作用していることは明白といってよかろう。

 この江戸時代に顕著な「農本主義」は、言うまでもなく、8世紀の「班田収授法」から連綿と引き継がれてきたものである。

 さて、「水呑」である。網野氏は、時国家に残された文書の検討を通して、これまで流布されていた「時国家」観がまったくの間違いだと言うことを思い知らされる。(②)

 われわれは、これまで中世的・後進的の典型とされてきた百姓時国家が、すでに元和4(1618)年に松前まで行って昆布を買い付け、京都・大坂に運んで売却する廻船交易を行う一方、広大な塩浜を経営して製塩を手広く行い、これを能代などの北方に運び交易していたことを文書を通して知り、さらにやはり元和のころ、同家が鉛山の開発を前田家に申請している文書を上時国家で新たに見出した。それまでの「豪農」時国家のイメージは音をたてて崩れ、新たに日本海交易に積極的に乗り出す多角的企業家時国家の姿が浮び上ってきたのである。

 しかも本来の時国家は現在の上下両家のように、山を背にして前に田地のある家ではなく、町野川の川沿いに、恐らく中世後期以来の270平方間、間口約50メートルといわれるほどの巨大な家屋と多くの蔵を持ち、町野川の水運とその河口の潟湖を通じて、日本海交通と深く関わっていたこともあきらかになってきた。

 さらに同じ時期に、そうした巨大な時国家の負った借金百両の返済を援助するほどに富裕であり、柴草屋という屋号を持ち、港に根拠を持つ廻船商人が、なんと「頭振」 ― 前田領における無高民、「水呑」に位置づけられていることを文書によって確認したとき、われわれは文字通り、目を見はり、驚愕した。泉雅博氏はこれにつづいて万治2(1659)年の文書に名前を連ねた「頭振」たちの中に、やはり京屋弥五兵衛と吉兵衛という廻船人のいたことを明らかにしており(「能登と廻船交易」『海と列島文化1 日本海と北国文化』小学館、1990年)、「頭振」「水呑」はけっしてそのすべてが貧しい農民などではなく、その中には田畑をまったく持つ必要のないきわめて裕福な商人、職人、廻船人も少なからずいたことを、われわれはこのときはじめて明確に知ったのである。


(次の引用文は①からです。)

その後(時国家の文書検討後)、意識的に、豊かな「水呑」、非農業民の百姓を追究してみようということになり、一緒に時国家の調査をしている跡見学園女子大学の泉雅博さんは、享保20年(1735)の鳳至(ふげし)・珠洲(すず)両郡の前田家領の村々について、百姓と頭振(水呑)の家数、村高、税率を全部書き上げたおもしろい史料によって、両郡の村ごとの頭振の全戸数にたいする比率を調査されました(「近世北陸における無高民の存在形態―頭振について―」「史学雑誌」101編1号)。

 その結果、奥能登最大の都市、輪島(河井町・鳳至町村)は、総戸数621軒で、おそらく人口は数千人の大きな都市ですが、その家数の71%が頭振だったという興味深い事実が明らかになりました。そして残りの29%の百姓の平均持高は、田畑4.5反ほどに相当する4.5石でしかないこともわかりました。

 また時国家が船入りと屋敷を持っていた内浦の宇出津も大きな都市で、総戸数433軒におよぶのですが、頭振(水呑)は、76%という非常な高率をしめていることもわかったのです。

能登の頭振
(②より転載した。)

 このように、輪島や宇出津のような海辺の都市のほか、飯田、甲(かぶと)、波並(はなみ)のような多くの家が集中している都市的な集落も、頭振の比率がきわめて高いことが統計的にもはっきりと確認できました。もしも、百姓は農民、水呑は貧農というこれまでの常識に従いますと、輪島は極度に貧しい村になってしまいます。4.5反ぐらいしか土地を持だない百姓が29%、水呑百姓が71%もいるのですから。宇出津の場合はもっと貧しいことになりますが、この常識がまったく間違いであることは、事実そのものが明白に証明してくれました。

 輪島の71%の頭振(水呑)の中には、漆器職人、素麺職人、さらにそれらの販売にたずさわる大商人、あるいは北前船を持つ廻船人などがたくさんいたことは間違いないところですし、百姓の中にも、輪島の有力な商人がいたことも明らかなのです。先ほどもふれましたように、輪島の頭振(水呑)の中には、土地を持てない人ではなくて、土地を持つ必要のない人がたくさんいたことは明白といってよいのです。とすると、百姓を農民、水呑を貧農と思いこんだために、われわれはこれまで深刻な誤りをおかしてきたことになります。

 このような事例は決して能登だけのものではない。網野氏は他の例も取り上げているが、ここでは割愛する。

 「百姓=農民」という通念は日本の歴史学全体を呪縛しているようだ。網野氏は「百姓=農民」という通念にとらわれている従来の歴史像の再考を提言している(①)。

 これまでの歴史研究者は百姓を農民と思いこんで史料を読んでいましたので、歴史家が世の中に提供していた歴史像が、非常にゆがんだものになってしまっていたことは、疑いありません。これは江戸時代だけでなく中世でも同じですし、古代にさかのぼってもまったく同様です。百姓は決して農民と同じ意味ではなく、農業以外の生業を主として営む人々 ― 非農業民を非常に数多くふくんでいることを、われわれはまず確認した上で、日本の社会をもう一度考えなおさなくてはならないと思います。

 網野氏は「古代にさかのぼってもまったく同様」と述べている。次回は、引き続き網野氏の著書を頼りに、縄文時代から奈良時代までの社会像を再検討してみよう。
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この記事へのコメント
人口推計がおかしいというのは常識的でしょうね。問題は「奴国は三雲・平原などの怡土平野である」という古田説を訂正する必要が生じます。いくらなんでもあの面積に10万~20万人は収容できないからです。
そして博多湾岸が「奴国」で「奴」は「な」と読め、邪馬壱国は大宰府以南の筑前から筑後一帯となり、博多湾岸邪馬壱国説はやはり誤りだったことになる・・・どうなんでしょう?ほかに解決策は?(肥前・吉野ヶ里なども奴国?)
2013/04/29(月) 02:15 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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2013/04/30(火) 06:10 | | #[ 編集]
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