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《続・「真説古代史」拾遺篇》(158)



「生口」とは何か


(「人口問題」については、一所をぐるぐる回っている感じで、これといった進展がありません。いましばらく宿題にしておきます。)

 『三国志』中の「生口」の使用例を調べてみた。全て魏志の中だけで蜀志・呉志にはなかった。14例あった。そのうち9例は「魏書にいう」「魏略にいう」など、注釈文中での使用である。意味はすべて「捕虜」である。本文中の使用例は「濊伝」に1例と「倭人伝」に4例あるだけだった。「濊伝」の例は
其邑落相侵犯,輙相罰責生口牛馬,名之為責禍
で、筑摩書房版『三国志』では
「邑落のあいだで侵犯があったときには、罰として奴隷や牛馬を取り立てることになっている。この制度を責禍と呼ぶ。」
と訳している。「倭人伝」中の4例もすべて「奴隷」と訳している。倭国の場合は『後漢書 倭伝』にも1例ある。それも含めて全5例を転載しておこう。

(後漢書 倭伝)

安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。

(魏志 倭人伝)

その行来・渡海、中国に詣(いた)るには、恒に一人をして頭を梳(くしけず)らず、蟣蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚(こうお)し、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。之を名づけて持衰と為す。若し行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭えば、便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まず、と請えばなり。

親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし、汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。

其の四年、倭王、復た使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木[犭付]・短弓矢を上献せしむ。

政等、檄を以て壹与を告喩す。壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還らしむ。因りて臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。


 『三国志』の中では中国(魏)に生口を貢献しているのは倭国だけである。では、この生口とは何なんだろうか。

下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或は蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、之が恭敬を為す。対応の声を噫(あい)と曰う。比するに然諾の如し。

 下戸は大人に完全に隷属していた。さらに、「婢千人」が俾弥呼に仕えていたし、また俾弥呼の死に際しては「徇葬する者、奴婢百余人」とある。倭国では「大人―下戸―奴婢」という徹底した身分制度が貫かれていた。生口は、「生口」という特定の呼称で呼ばれているし、②のように特別な褒美として与えられたり、③④のように貢物として使われたりしているのだから、単なる奴隷(奴婢)ではないだろう。なにがしかの技術か芸事を身につけていた者だったのではないだろうか。後の「部民」のような存在である。

 もしそうだとしても、①⑤の例は数が多すぎてちょっと変である。②③④の場合とは異なる意味があるのかも知れない。特に⑤では、生口を「献上し」宝物を「貢す」、とその行為を示す文言を使い分けている。「献」には「上奏する」という意味もあるので、①⑤の「生口」は②③④とは異なる意味があるのかも知れない。

 実は①⑤の生口については、古田氏が『俾弥呼』で取り上げているのでそれを紹介しよう。

 古田氏は「倭人伝」冒頭の「使譯通ずる所、三十国」の「三十」と⑤の「三十」の一致に注目して、次のように論じている。

 この「三十」という数値の「一致」は偶然だろうか。

 中国の歴代の史書が〝依拠する″立場がある。それは「中華思想」だ。その要点を左に記してみよう。

第一、
 中国と周辺の国々(「夷蛮」)との関係を「上下関係」で扱う。
第二、
 したがって「中国と他国との交流」を「献上」と「下賜」の形で記載する。

 たとえば、後漢書の倭伝には、次の著名の記事がある。

(①を掲載している。略す。)

 しかし、この「訓み」は疑問だ。右のような、通例の〝訓み″に従えば、その意味は次のようになろう。

(その一)
 倭国の王、帥升自身が漢の都、洛陽へおもむいた。
(その二)
 そのさい「捕虜、百六十人」を漢の天子、安帝に献上した。

 しかし、この「理解」は疑問だ。なぜなら「捕虜百六十人」を、倭国王がみすがらひきいて、漢の都へ向かったのか。もし、そうとすれば、「百六十人」をはるかに上廻る「倭国の軍団」がこれを〝ひきいて″いなければならぬ。けれども、そのような「倭人軍団」の存在は、一切書かれていない。

 これに対し、「生口」の語は「捕虜」を指すだけではない。「牛馬」を指す用法もある。たとえば「人口」という術語も、「捕虜の人数」ではない。「生きた人間の数」だ。

 同じく、この「生口」も、〝生きた人間の数″を指しているのではあるまいか。すなわち、倭国内の各地の倭人の使者団の〝総数″である。

 この場合、倭国王自身がみずから「洛陽」へ参上する必要はない。使節団百六十人を洛陽に送り、この「百六十人」に対する、漢の天子の「請見」を求めたこととなろう。この場合はもちろん、「百六十人」以外の、そして以上の「倭軍集団」の存在など不要だ。彼等百六十人こそ、「倭国の各地からの使節団」なのであるから。

 右のような「解釈」と〝対応″し、これを裏づけているのが、先述の「三国志」の倭人伝冒頭の言葉である。

旧百余国。漢の時朝見する者あり。

 右の「百六十人」が、倭国内の各国からの一名ないし二名の「代表者」であった場合、この(百余国(=百三十~四十国)」の「朝見」と、ほぼ一致する。彼等は、中国の天子、安帝の「請見」を願って、はるばる洛陽へとおもむいたのであるから。

 この倭人伝内で、俾弥呼が大夫難升米等を京都(洛陽)へ送り、

天子に詣りて朝献せんことを求む。

と書かれているのは、この「漢代の故事」に習ったもの。その歴史的背景を、陳寿は倭人伝の冒頭に記したのではあるまいか。

 けれども、「統一されていた、漢王朝の時代」とは異なり、いち早く「親魏」の立場を鮮明にした国々は、わずか「三十国」にとどまっていたのであった。

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