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《続・「真説古代史」拾遺篇》(157)



「倭人伝」の戸数問題(6):人口(4)


 戸数問題は前回で終わる予定だったが、書き残したことや新しく得た情報があるので、それを追記した。

 一つは、行きつけの図書館の蔵書検索をしていて、『図説検証 原像日本』(1998年刊)に小泉清隆氏のよる論文「古代の人口と寿命」があるのを知った。それを読んでみた。そこから得た情報を報告したい。

 上記論文では出挙稲と課丁数を用いた奈良時代の推定人口、郷数による奈良時代の推定人口、遺跡数を用いた縄文時代・弥生時代の推定人口を全て紹介している。そして、遺跡数を用いた推定については、特に縄文時代について問題点を三点指摘している。次のようである。(小泉氏はこの人口推定者を鬼頭宏ではなく小山修三としている。)

 この推定には、大きく分けて三つの問題点がある。

 まず第一の問題は、人口の大きさは、発見されている遺跡の数に比例するのかということである。遺跡数は調査をすれば増加する傾向にあり、調査の疎密が遺跡の疎密に比例する。西日本では遺跡発掘があまり進んでいないので、東日本に比べて人口を過小推計する傾向がある。

 第二の問題は、一遺跡当たりの人口数である。縄文時代には、移動性が高く、小さなキャンプ地のような集落を短期間のうちに数多くつくる時期もあるが、定住性が高く、大規模な集落をつくり、長期間にわたってそこに住んでいる時期もある。そのような性質の違う遺跡に、均等な人口数を割り当ててもよいのであろうか。また、各時代について推定された土師器期に対する人口の比例定数は、現実を反映している妥当なものであるのか。この比例定数が少しでも違うと、結果として出てくる人口数は大きく変わる。しかし、算出した人口数をある程度の誤差を含んだ概数とみなしておけば、これら第一、第二の問題はたいした問題ではない。

 第三の問題は、人口数の安定性についてであり、各時代の人口はその期間を通して大きな増減はなく、安定していたと仮定していることである。縄文時代の各時期を細かくみると、その時期を通じて遺跡の数は一定しているわけではない。すなわち、時期によってはその中のある一時点において、極めて遺跡数が少なくなっている場合がある。

 今村啓爾によれば、このような遺跡数の減少する現象は、関東では縄文時代の前期末の十三菩提式期(約5000年前)および後期初頭の称名寺式期(約4000年前)に起きていることが確認されている。

 また、十三菩提式末期は関東の土器型式が東北地方北部の影響を受け、称名寺式期は西日本の影響を受けているというように、これらの時期には、遺跡の減少とともに、その土器型式が他の地域の影響を受けている。このことは、人口の減少とともに、他の地域から関東地方への、少なからぬ人口流入があったことを示していると解釈でき、人口の増減は緩やかに起きているのではなく、今村の主張するように、かなり大きい幅で増減を繰り返している可能性がある。

 この第三の問題は重要で、今村の主張が正しいとすれば、遺跡数から推計した人口は、各時代のどの時点のものなのか明確ではなく、数字はその時代を通しての人口を意味しなくなる。しかしながら、そのように局所的には大きな増減があったとしても、遺跡数と人口は密接な関係にあり、縄文時代、弥生時代といった大きな時代の流れの中で類推したものとしては、小山の示した人口動態は正しい結論であるといえよう。

 これらの問題点の指摘は主として縄文時代を対象に行われている。小泉氏は「ある程度の誤差を含んだ概数」として「大きな時代の流れの中で類推したものとしては、小山の示した人口動態は正しい」と、その正当性を認めている。しかし、私は、三つの問題点は大筋として弥生時代にも適応できると思うし、これだけの問題点があればその推定人口は採用しがたいと考える。

 ところで小泉氏はさらにもう一つ、「倭人伝」の戸数をもとにした推定人口を記載している。次はその全文である。

邪馬台国の人口

 さて、奈良時代以前の人口は、いったいどうであったのであろうか。邪馬台国のあった時代の人口を知る手掛りが、中国の晋の時代に書かれた『魏志』倭人伝にある。この中には、邪馬台国のほか七つの国の戸数が出ているが、これから推定すると、これら8か国の人口は159万人となり、邪馬台国およびその属国28か国の総人口は180万人、これに、それ以外の狗奴国や『魏志』倭人伝に出ていない東日本の人口を含めれば、三世紀ころの日本の総人口は、多少不確かといわざるを得ないが、ほぼ300万人ではないかと推定されている。

 他の推定人口の場合、その推定法法をかなり詳しく解説しているが、ここにはその種の記述がない。どのような計算をしたのか、その根拠を探ってみよう。

 邪馬壹国の属国を29ヵ国ではなく28ヵ国としているのは、おそらく二つの奴国を、陳寿の誤記みなし、同一国であると考えてのことだろう(水野氏もその説を唱えている)。すると8ヵ国以外の21ヵ国の人口をおよそ1万人と推定していることになる。

 では8ヵ国の人口159万人はどのようにして計算したのだろうか。逆算してみよう。8ヵ国の総戸数は15万戸だから、「159÷15=10.6」。つまり、1戸当たりの口数を10~11人とみなしていることになる。

 ここで私が書き残した問題が浮かび上がってくる。私は、漢書などの例とそのころの生産力(とくに食料)などを勘案して、1戸当たりの口数を5人と仮定した。このとき、「倭人伝」の
「その俗、国の大人は皆四・五婦、下戸もあるいは二・三婦。」
という文が念頭に浮かんでいた。そして、もしかすると1戸当たりの口数はもっと多いのではないかとも思っていた。しかし、それでは倭国の人口はとてつもなく多くなってしまう。それで、取りあえず、口数5人で論を進めてみた次第だった。清水氏が紹介している推定人口の一戸当たりの口数10~11人は上の「倭人伝」記事を考慮しての推定だったのではないかと推測している。

 「井の中」では「邪馬台国」九州説論者は「倭人伝」に記録されている国々を全て九州内に比定しているようだ。しかし、小泉氏は「『魏志』倭人伝に出ていない東日本の人口」と言っているので「邪馬台国」大和説論者のようだ。いずれにしても、遺跡数から推定した200年の推定人口60~70万人との大きな差違を全く検討せずに二つの推定人口を併記しているが、論説者のそのような姿勢にいささかあきれている。

 「8ヵ国の人口159万人」という推定は全くお話にならないし、一戸当たり口数5人で計算した「8ヵ国の人口75万人」も多すぎる。ここで私の思考は停止していた。

 ということで前回お手上げ宣言をしたわけだったが、これについて「愛読者」さんがコメントで次のようなアイデアを提出されていた。

『倭人伝の「戸」ですが、「国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。」「下戸、大人と道路に相逢えば」の「下戸」は個人の意味ですよね。やはり倭人伝の「戸」は「口=人」の意味かも・・』

 「わっ!大胆」と思った。しかし、『諸橋大辞典』を調べたら、「戸」にはそういう意味もあるんですね。

⑧ひと。住民。人民。
〔唐書、姚崇傅〕温戸彊丁。
〔劉禹錫、洛中送崔司業使君扶持赴唐州詩〕洛苑魚書至、江村雁戸帰。
(引用例文についてはよく分らない点があるが、一応転載しておく。ちなみに、雁戸は「流亡する民」という意味の熟語のようだ。)

 「戸数=人口」という仮説を検討してみようと思う。なにか進展があれば次回に。
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