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《続・「真説古代史」拾遺篇》(156)



「倭人伝」の戸数問題(5):人口(3)


 前回の澤田氏による人口推定値は水野氏の『評釈 魏志倭人伝』から転載した。今回はウィキペディア「近代以前の日本の人口統計」を利用している。この資料を「人口統計」と略記する。

 「人口統計」には200(300)年頃の推定人口も記載されている。McEvedy & Jones・鬼頭宏・Birabenという三人の方の推定値が記載されている。それぞれ70,0000・59,4900・50,0000(60,0000)となっている。かつてこの数値に疑問を持った人はいなかったのだろうか。1戸当たりの口数を5人とすると「倭人伝」に記録されている8ヵ国(対海国~邪馬壹国)の人口(約75万人)だけですでにそれらの推定人口を超えている。「倭人伝」の記録がとんでもない誇張記事だと言うべきなのだろうか。鬼頭氏の推定方法が解説されているので、それを読んでみよう。実に分かりにくい解説だが、次のようである。

 澤田氏による奈良時代の関東地方の推定人口94万3300人と関東地方における土師器を産出する遺跡数(5549箇所)から1遺跡当たりの人口(94,3300÷5549≒170)を基準値としている。そして、弥生時代はその0.2~0.43(平均約1/3)で56と推定する。弥生時代の土師器を産出する遺跡数は10624なので弥生時代の人口は、56×10624=594944、つまり59,4900人というわけだ。

 ここで使われている関東地方の人口も、1遺跡当たりの人口が弥生時代は奈良時代の約1/3というのも推定値であり、推定に推定を重ねている。遺跡だって、まだ未知のものがどれだけあるか分からない。このような推定値はとても信用するわけにはいかない。

 それではここで使われている澤田氏による奈良時代の推定人口は信頼できるものだろうか。「人口統計」には澤田氏の推計方法の解説もあるが、これも実に分かりにくい。次のように解読した。

 澤田氏は、理由はわからないが、陸奥の1000出挙稲束数当たりの課丁数21.98人が基礎単位に使われている(たぶん、出挙稲束数と課丁数がともに記録されている国は陸奥だけなのだろう)。もう一つ、戸籍・計帳断簡から人口100人当たりの課丁数を18.7人と推定している。これらを用いて筑前の推定人口を次のように計算する。筑前の出挙稲束数は79,0063なので筑前の人口は
(21.98×79,0063/1000÷18.7)×100=9,2864
となる。前回転載した「筑前…9,2900人」はこのように計算されたようだ。

 実に込み入った推計をしているが、疑問がいくつかある。まず、基礎単位に使われている
(1)「1000出挙稲束数当たりの課丁数21.98人」
(2)「人口100人当たりの課丁数18.7人」
が妥当だのだろうか。(1)は陸奥国での場合であり、これを全国共通の基礎単位にしてよいものか。(2)は「戸籍・計帳断簡」をもとにしたとあるが、その「断簡」は全体の基礎資料とするに堪えるほど十分な史料なのだろうか。十分な検証のうえで選ばれたものだとしても、この計算方法で出された人口数は農業従事者の戸だけのものであろう。澤田氏は「推定良民人口」と呼んでいるようだ。だから氏は全国の人口推計では平城京の推定人口(20万人)や賤民・遺漏者の推定人口(ともに100万人)を加えている。しかし、それらの推定人口はどのような根拠をもとに得られた数なのだろうか。ともあれ、氏は結論として奈良時代の人口を約600万~700万人と推定している。

 澤田氏は実に込み入った計算をしているが、もっと単純な計算をしてみよう。「和名抄」に記録された郷数を用いてみよう。各郷は50戸からなり、一戸の口数は25人とする。全国の郷数は4041(4039・4029・4026などの説もあるようだ)だから、全国の人口は
4041×50×25=505,1250
で澤田氏の推定より100万余少ない。さらに郷数による九州各国の推定人口と澤田氏の推計人口と併記すると次のようなる。

国名(郷数)―人口数―澤田氏による数

対馬(9)		 1,1250		   7000
壱岐(11)	 1,3750		 1,0600
筑前(102)	12,7500		 9,2900
筑後(54)	 6,7500		 7,3300
豊前(43)	 5,3750		 7,1600
豊後(47)	 5,8750		 8,7400
肥前(44)	 5,5000		 8,1400
肥後(99)	14,8500		18,5500
日向(28)	 3,5000		 4,3800
大隅(37)	 4,6250		 2,8400
薩摩(35)	 4,3750		 2,8500
 ――――――――――――――――――
合計		66,1000		71,0400
 郷数による推計人口の場合も8ヵ国(対海国~邪馬壹国)の全人口の方が10万ほど少ない。しかし、郷数による推定人口にも疑問点がある。「一戸の口数は25人」という仮定はどのくらいの信憑性があるのだろうか。岩波講座「古代史3」を拾い読みしていたら「残存戸籍にみえる肥君猪手の戸(戸口数124)」(吉田孝「律令制と村落」)という記述に出会った。このような豪族はどのくらいいたのだろうか。また、武具や織物・染め物などの加工にたずさわる「品部、雑戸は4000戸と計上されるが、彼らは京畿内および近国にあって…」(狩野久「律令財政の機構」)という記述にも出会った。このような工業者は近畿だけではなく、各国にもいたのではないか。そして、工業・漁業・狩猟関係者などは造籍対象者ではなかったようだ。造籍対象者はいわゆる農業関係者だけだった。

 以上、古代の推定人口をいろいろ調べてみたが、残された資料が不十分なのだからやむを得ないことではあるが、私にはどれも信用することができない。

 では、「倭人伝」に記録されている戸数はどうなのだろうか。ここでの戸数は農耕関係者だけではなく全ての住民が対象だったと考えられる。しかし、これだけでは「倭人伝」の戸数が誇張されたものか否かを判断することはできないだろう。判断するための材料不足。なんとも情けない結論だが、「分からない」と言うほかない。
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この記事へのコメント
人口問題
可能性は3つ。①人口推計がおかしい。②「戸」の概念が中国や半島と違う。③倭人伝はとんでもない誇張数字。
人口は外交上も軍事上も最も重要な情報の一つ。天子に報告する書に「誇張」することは考え難い。③を採ることは出来ないでしょう。
①は科学的な推計問題で、誤りの可能性はあります。ただ鬼頭宏氏の推計では、200年の北九州の人口が約4万。8ヵ国の全人口が15万戸×5人で75万人なら約10分の1。
「桁違いの推計誤り」となり、これも「誇張」同様簡単に信じることは出来ません。
残る可能性は「戸」は「口=人」であり、邪馬壹国はそういう認識で魏使に告げたというものです。
その可能性があるか、考えているところです。
2013/02/28(木) 17:56 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
追加です
それでも倭人伝の未廬国以降約10万戸と差があるのは「遺跡の編年」問題ではないでしょうか。
2世紀の遺跡群をもとに人口を推計しても、その遺跡群の編年が100年ほど狂っていて、実際は1世紀の遺跡群だったなら、2世紀人口と思っていたのが、実際は1世紀人口であったことになります。
九州の遺跡は100年ほど古くなるというのが現在の考えですから、200年人口4万人は100年の人口だったことになって、3世紀卑弥呼時代はおよそ150年後。その間に人口増があったなら、増加率からほぼ似たような数字になるのではないかと思います。今のところは単なるアイデアですが・・・
2013/02/28(木) 20:03 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
すみません、もうひとつ
ところで、倭人伝の「戸」ですが、「国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。」「下戸、大人と道路に相逢えば」の「下戸」は個人の意味ですよね。やはり倭人伝の「戸」は「口=人」の意味かも・・
2013/02/28(木) 23:08 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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