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《続・「真説古代史」拾遺篇》(154)



「倭人伝」の戸数問題(3):人口(1)


 「倭人伝」に記録されている「戸」の一戸当たりの口数はどれぐらいだったのだろうか。「戸」「家」などの本来の意味からすれば両親と子供で構成されている一家族と考えてよいと思うがどうだろうか。

 「愛読者」さんのコメントによると、令制下の「戸」とは「郷戸(親族集団)」のことであり、「郷戸」は「房戸」と呼ばれる世代家族によって構成されている。房戸の口数は7~9人であり、郷戸の口数は25人程度だったという。手許の「詳説日本史史料集」(山川出版社)に「正倉院文書」にある戸籍と計帳が一例ずつ掲載されている。それによると次のような構成になっている。

戸籍…下総国葛飾郡大嶋戸籍 養老5(721)年
郷戸主・佐留(47歳)計27人
 うち、課口(役負担を負う成年男子)は6人、あとは女性・子供と障害者・疾病者が若干名。
(口数の内訳)
 佐留の家族数…15人
 房戸主・小諸(佐留の従兄 55歳)…5人
 房戸主・小国(佐留の甥 27歳)…7人


計帳…山背国愛宕郡出雲郷計帳 神亀3(726)年
郷戸主・千依(69歳)…計22人
 うち、課口は5人。 (内訳)
 千依の家族数…16人
 房戸主・果安…6人

 郷戸主は大家族だが、まだ幼い子供が多い。これらの子供のうちどれほどが無事に成長するのだろうか。たぶん生存率は低かったのではないか。それでもこれだけの家族を養うことができたのは農耕生産技術の進歩によって生産高が上がったからであろう。また、出雲郷計帳では不課口22人の中に「奴一人」が記録されているのが目に付いた。

 「倭人伝」に戻ろう。「倭人伝」の「戸」は令制下の「房戸」、つまり一家族を「戸」として数えていたのではないだろうか。また、3世紀頃では上に見られるような大家族はほとんどなかったのではないかと思う。一戸当たりの口数はせいぜい数人程度だったと考えるが、「三国志」には一戸当たりの口数を推定する資料はない。水野氏は『漢書』地理志と『後漢書』を用いてその推定を試みている。次のようである。(一戸当たりの平均口数は少数第二位を四捨五入した。)

『漢書』地理志
玄菟郡
 戸数4,5600戸・人口22,1845人
 一戸当たりの平均口数4.9人
楽浪郡
 戸数6,2812戸・人口40,6748人
 一戸当たりの平均口数6.5人
『後漢書』
楽浪郡
 戸数6,1492戸・人口25,7050人
 一戸当たりの平均口数4.2人

 玄菟郡は漢により朝鮮半島北部に設置された郡であり、玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡・真番郡を漢四郡と呼んでいる。水野氏が玄菟郡と楽浪郡を選んだのは倭国との比較をするためだったようだ。古田氏は『漢書』地理志から51例の資料を抽出している。その第一は次のようになっている。

(京兆尹)元始二年、十九万五千七百二、六十八万二千六百十八。県十二。 帥古曰く「漢の戸、元始の時に当りて最も殷盛と為す。故に志、之挙げ、以て類と為すなり。後皆此に類す」と。

 これによると、『漢書』地理志に記録されている戸数・口数は漢が最も栄えた元始年間(西暦1~5)頃のものということなる。京兆尹(けいちょういん)とは、ウィキペディアによると、
「前漢から後漢かけ設置された行政区画であり、都城である長安付近の県を管轄した。また京兆尹は当該行政区画を監督する官名でもある。」
 この京兆尹の一戸当たりの平均口数は3.5人と少ない。この他に古田氏による資料からランダムにいくつか計算してみたが、ほとんど4~5人前後というところだった。しかし、多い例として7.1人(益州郡)というのがあった。かなりの違いが見られる。戸として数えられているのは農民だけではなく、漁民・商人・工人なども入っているだろうから、その口数はその地域の中心産業が何かによってかなりの違いがあったと思われる。

 さて、水野氏は「倭人伝」の戸数記録は
「事実に合わない数値となるのであって、この数字は信憑性の少ないものといわなければなるまい。」
と主張している。その論拠は二点ある。一つは倭国の戸数と朝鮮半島の戸数の比較である。概略次のようだ。

朝鮮半島の戸数は
東沃沮・濊・馬韓・弁韓・辰韓の合計12,5000余戸、楽浪郡・玄菟郡の戸数約10,8000余戸(水野氏は楽浪郡だけの数を用いているので訂正した。)を加えて、合計23,3000余戸
 これに対して、「倭人伝」で戸数が記録されている8ヵ国(対海国~邪馬壹国)の戸数は、「戸」と「家」を区別しなければ15万余戸(14,6000余戸と4000余家)。その比は約3:2=6:4となる。
 一方、朝鮮半島の面積は22,1000㎢、九州の面積3,6000㎢で、その面積比は約6:1。
 九州の8ヵ国だけの戸数はあまりにも多すぎる。

 一つの参考資料にはなるが、国土の面積だけでの比較は危うい。人口は地形・気候・産業状況や政治状況などによってかなり異なる結果になるのではないだろうか。特に、朝鮮半島の中・西北部は漢四郡という名称に見られるように、中国からの侵略を受け、ほとんど植民地だった。そのような要素も考慮しなければならないのだから、単純な比較はできない。

 次に、水野氏は倭国の人口を10世紀の人口と比べて「やはり多すぎる」という結論を出している。大和説の場合はどうとか、狗奴国を入れるとどうとか、かなり錯綜した理論展開をしている。そこで、水野氏が用いている資料を利用して、私(たち)の立場に引きつけてまとめ直してみる。

 水野氏が用いている資料は
〈『延喜式』所収「全国出挙稲」を基に算定した澤田吾一氏の研究〉
とあるが書名がない。ネット検索をした結果『奈良朝時代民政経済の数的研究』のようだ。直接調べてみようと思ったが、残念ながら近所の図書館にはなかった。ネットでの学習になるが、古代の人口について少し調べてから、続きを書くことにする。
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