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《続・「真説古代史」拾遺篇》(153)



「倭人伝」の戸数問題(2):「戸」と「家」(2)


 蜀志では「戸」は直接話法文中に二例あるだけで、地の文で直接言及している記事はない。次の通りである。

①〈法正伝〉
正(法正)牋して璋(劉璋)に与えて曰く「…今、此れ全く巴東・広漢・犍為を有し、過半己に定まる。巴西の一郡、復(また)明将軍の有に非ざるなり。益州を計るに、仰ぐ所は惟(ただ)蜀のみ。蜀も亦破壊す。三分、二を亡い、吏民疲困し、乱を為すを思う者、十戸にして八…」と。

②〈劉封伝〉
「達(孟達)、封(劉封)に書を与えて曰く「……但(ただ)、僕と倫と為るのみに非ず、三百戸の封を受く。……」と。


 共に手紙文である。①は暴動寸前の状況が記されている。この二例しかないが、蜀でも「戸」という行政単位が施行されていたと考えてよいだろう。

 呉志の場合は次のように六例あるが、魏志と比べれば極端に少ない点では蜀志と同じである。次ぎのようである。(校正ミスや誤記の指摘はミネルヴァ書房版『倭人伝を徹底して読む』のものです。筑摩書房版『世界古典文学全集 三国志』で確認していて気付きました。)

③〈呉主伝〉
(「呉王伝」となっている。校正ミス。④では正しく表記されている。)
初め、曹公(曹操)、江浜の郡県、権(孫権)の為に略せられるを恐れ、徴して内移せしむ。民転(うた)た相驚き、廬江・九江・蘄春(きしゅん)・広陵より戸十余万、皆東のかた江を渡る。江西、遂に虚(むな)し。合肥(地名)以南、惟(ただ)皖城(地名)有るのみ。

④〈呉主伝〉
 秋、魏将梅敷(人名)、張倹(人名)に使して、求見撫納せしむ。南陽の陰・鄼・筑陽(筑・音逐)・山都・中廬(以上地名)、五県の民、五千家、来附す。

⑤〈劉繇伝〉
(古田氏は〈筰融伝〉としているが、「劉繇伝」中の一節である。また、筑摩書房版では「筰融」ではなく「笮融」と表記されている。)
乃ち大いに浮圖(ふと)の祠を起し、銅を以て人を為し、黄金塗身、衣(き)するに錦采を以てす。銅槃九重を垂らし、下、重楼閣道を為し、三千余人を容る可し。悉く課して仏教を読ます。界内及び旁郡の人、仏を好む有らば、受道するを聴(ゆる)す。其の他の役を復し、以て之を招致す。此に由りて遠近前後、至る者、五千余の人戸。浴仏の毎(ごと)に、多く酒飯を設け、路に布席す。数十里を経て、民入来観し、就食に及ぶすら、且、万人、費すに巨億の計を以てす。

⑥〈呂蒙伝〉
蒙(呂蒙)の子、覇、爵を襲い、守家の三百家と与(とも)に、田五十頃(けい)を復す。

⑦〈潘璋伝〉
璋(潘璋)の妻、建業(都)に居す。田宅を賜い、客五十家を復す。

⑧〈孫和伝〉
(「孫休伝」と誤記されている。)
其の年、父の和(孫和)に追諡号(ついし)して文皇帝と曰(い)う。明陵に改葬す。園邑二百家を置く。(主語は孫晧)


 ③と⑤に「戸」が遣われているが呉の行政単位とは言い難い。③は、曹操が揚子江流域の郡県を孫権に支配され富や住民を収奪されることを恐れて住民を大移動させた、というものであり、ここの「戸」は魏の行政単位として書かれている。

 また、⑤は筰融が無法な方法で財をなし、その財を用いて大々的な仏教の儀式を行い、参加者には賦役を免除すると喧伝して沢山の人を集めたという話である。ここでは「五千余戸」という表現ではなく、「五千余の大戸」という他に見られない書き方をしている。行政単位としての「戸」とは異なる表記と考えてよいだろう。

 ④⑥⑦⑧はすべて「家」という単位が使われている。「戸」と「家」の使い分けを解く手掛かりがありそうだ。

 ④は、魏の梅敷(ばいふ)が張倹を使いに立て呉に帰属してきた、という呉側の記録である。この帰属民を「五千戸」ではなく「五千家」と言っている。(古田氏はこの文を「呉の方から魏の勧誘に従って来た」と解釈していて、私の解釈とは異なる。)

 ⑥⑧の「三百家」「二百家」は守墓人のである。「戸」ではなく「家」を用いている。

 ⑦では「五十家」という表現をしている。「客」には「臨時に他郷に住んでいる人」「他郷から来ている人」といった意味がある。「移住させられた五十家」という意味であろう。⑥⑧の守墓人の場合もそのように理解してよいだろう。

 さて、以上の資料をもとに問題を二点整理してみよう。第一は蜀志・呉志に「戸」記事がない問題である。魏・蜀・呉は当初はともに漢の行政制度を踏襲していたと考えるのが妥当だろう。なのに、蜀志・呉志に「戸」記事がないのはどうしてだろうか。古田氏は次のようにまとめている。

 呉志はわずかですが、そこには「家」という形が出ています。たとえ「戸」が使われてもそれは実質的に魏に関係するところであって、要するに『三国志』の呉志や蜀志では、基本としては、「戸」は使われていない。「戸」が使われているのは魏志だけということになります。

 しかも注目すべきことは、まず第一に、北方でも鳥丸・鮮卑などは「戸」とはいわないのに、倭国では「戸」の表現がふんだんに使われていることです。ということは、倭人伝の「戸」は独立、孤立の「戸」ではなく「魏志に出てくる戸の一環」としての「戸」であり、「魏の概念の戸」であると考えられます。もちろん実態としては、中国本土の場合と高句麗、日本列島の場合ではちがうことがありえます。ありうるにもかかわらず、建前としては、「魏の戸」であるということをはっきり認識しておく必要があります。

 第二に注目すべきことは、呉や蜀で「戸」という行政単位がなかったか、ということです。蜀は、漢の後を受け継ぎ、制度も漢と同じでしたから、漢に盛んに使われていた「戸」が、当然蜀でも使われてしかるべきなのに一切使われていない。しかし直説法の文章の場合は、断片的に出ていますから、直説法の場合はかまわないが、制度としては全部消してしまう。そういう立場に立って『三国志』は書かれていた、ということがいえます。これは呉についても同じことです。それほど『三国志』では、「魏の制度の戸」という立場が非常に強引に貫かれているのです。

 ここで古田氏は『日本書紀』や『続日本紀』の「評隠し」との同一性を指摘して「郡評論争」のあらましを記しているが、これは既に『偽装「大化の改新」(1) ― 「郡評」論争』で取り上げているのでそれを参照していただくことにする。

 さて、第二点は「戸」と「家」の使い分けという問題である。実はこれがテーマであった。これも古田氏の説を取り入れよう。

 先ほど「戸」と「家」の混用問題にふれましたが、「戸」を使うところでは「戸」を使い、使うべからざるところでは「戸」は使われていない。混用でありながら、その使い分けはいい加減でなく、非常に厳しいものがあります。

 そうして見ていくと、章のはじめに出てきた一大国・不弥国は、「三千許戸」「千余戸」とは書いてはならなかったのです。各国それぞれ特色はあるにしても、「戸」というのは、「魏の大義名分上の戸」であることが先の結論でした。

 すると一大国。不弥国に関しては、「戸」だけではなかったのではないか。先の例を見ていくとよくわかるように、「家」の場合は、「戸」と書いてはならない、いろいろなケースがあります。たとえば「魏人千余家を遣わして上谷に居らしむ」(鮮卑伝)を見ると、「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位になっています。ところが下部単位以外のものもふくめてでは「戸」とはいえない。つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人々までふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。そういうふくみがあるから、ここは「戸」を使わずに「家」と使っているのです。「家=戸プラス戸以外」です。このように「戸」以外のものをふくんでいるケースでは、「家」でなければいけなかったのではないかと思われます。

 すると、一大国は、住人が多く海上交通の要地に当たっていましたから、倭人のほかに韓人などいろいろな人種が住んでいた可能性が大きい。同じく不弥国は、「邪馬一国の玄関」で、そこにもやはりいろいろな人たちが住んでいたと考えられる。そうした状況では「戸」ではなく「家」の方がより正確であり、正確だからこそ「家」と書いたわけです。

 わたしは「陳寿を信じとおした、ただそれだけだ。はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったらどうなるか」ということで倭人伝にとりくんだはずなのに、このようなことに気がつかなかったことに慄然(りつぜん)とし、陳寿に「お前ばかだな」と笑われているような気持ちがします。

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