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《続・「真説古代史」拾遺篇》(151)



「倭人伝」中の倭語の読み方(94)
倭人名(3)


壹与
 「倭人伝」の掉尾をかざる「壹与」記事は次の通りである。

卑弥呼、死するを以て、大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。更(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女、壹与年十三なるを立てて王と為し、國中遂に定まる。政等、檄を以て壹与を告喩す。壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還らしむ。因りて臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

 「壹与」はもちろん「イチヨ」と訓む。「井の中」では「邪馬臺(台)国」と同様に「臺(台)与」と原文改定して「タイヨ」よ訓んでいる。この原文改定が不当であることは『「邪馬台国」論争は終わっている。(1)』で取り上げている。ここでは、「壹与」についての言及もあるので、『よみがえる卑弥呼』から「壹・臺」問題を論じている文を引用しよう。

 中国を中心とする、東アジア各地において、四世紀から五世紀当時、「―臺」という呼称の名辞は相継いでいる。
「単于臺」(匈奴。晋書、載記第一・劉元海)、
「雲風臺」(晋書、載記第六・石季竜、上)、
「留臺」(晋書、載記第十六・姚萇)
等がこれである。これ、三世紀の三国志中の魏志において頻出しているごとく、「鄴の三臺」をはじめとする、魏・西晋朝における、各種の「臺」を造立、いわゆる「臺の盛行」が、ようやく周辺夷蛮の国々へ波及してきた、その証左とすべきものであろう。

 後漢書の范嘩(はんよう)は、このような時期(五世紀半ば)に、この倭伝を記した。その冒頭の「地の文」中に出てくるのが、この一語であるから、これは「五世紀当時」の名称であって、「後漢の光武帝の建武中元2年(57)」といった、時点明記の項に書かれた「倭奴国」という歴史的名称(後漢当時の国名)とは、その質を異にしているのである。

 とすれば、これは、右のような、東アジア各地の用例と同じく、「ヤマダイ」と読むべきであって、「ヤマ」ではない。これはたとえば、「単于臺」が「ゼンウ」ではなく、「ゼンウダイ」と読むべきと、同様である。

 同じく、三国志の倭人伝の場合も、「ヤマイ」と読むべきではなく、「ヤマイチ(イツ)」と読むべきであり、「邪馬プラス壹」の形の、重層語形ではあるまいか。ちょうど、「狗邪韓国」「閔越」「不耐濊王」がそれぞれ〝韓の中の狗邪(国)″〝越の中の閔地″〝濊の中の不耐(王)″といった意味の重層表記法であるのと、同様であろう。「小地名プラス、大国名」の形である。

 右のように分析してくると、「邪馬壹国」は「邪馬プラス壹」となり、「壹」は「倭」に当る「大国名」ということになろう。前者は「イ(itt)」、後者は「ヰ(後にはワ)」であって発音を異にする。したがって単純な「表音」ではありえない。三国志では、〝臣下として最高の美称″たる「壹」が尊重され、逆に〝二心″を意味する「貳」がもっとも憎まれている。そこで倭国側が、この「壹」字をもって、国号「倭」に代えて用いたのではないか、そのように考えたのである。新の王莽が「句麗」を卑しめて「句麗」と表記させたように、「類音によって、表意を主とする」手法である。

 この点の分析をさらにすすめれば、倭人伝中の、この「邪馬壹国」の表記は、魏代(執筆対象)のものか、それとも西晋代(執筆時点)のものか、という問題が浮び上ってこよう。この点、先の後漢書倭伝の「邪馬臺国」の場合と同じく、「魏の景初二年」「魏の正始元年」といった、紀年つきの項目ではなく、冒頭部の「地の文」中に現われるのが、この中心国名「邪馬壹国」なのであるから、執筆時点たる、西晋時の名称、と解すべきであろう。すなわち、「卑弥呼、時点」でなく「壹与(壱与)、時点」の名称である。

 とすれば、この「邪馬壹国」の「壹」と、「壹与」の「壹」は、同じく、〝「倭(ゐ)」に代え用いた佳字〝となり、「与」は、倭王としてははじめて用いられた「中国風一字名称」ということとなろう。したがって、この「邪馬壹国」という中心国名、また「壹与」という女王名、ともに、泰始2年(西晋)のさいの、壹与の壮麗な貢献(倭人伝末尾)の上表文、その中の倭王側の自署名や表文の中に現われたもの、すなわち倭国側の表記である、そのように見なすべき可能性が高いのである。

 とすれば、三国志の中心たる魏志、その最末尾が、この「邪馬壹国」の記事で結ばれ、「壹与」の壮麗な大貢献をもって結ばれた、その真意ははじめて明らかとなろう。すなわち、かつて周王朝の名摂政たりし周公が、

海隅、日を出だす。率俾せざるは罔(な)し。〈尚書、巻十六)

として、「海隅、日の出づるところ」(倭人の地)から貢献のあったことを誇ったごとく、今、その倭国から壮麗なる貢献が西晋朝になされた、それをもって「天命が西晋朝の天子を嘉(よ)みし賜うた」証左とする、そのような(西晋朝の自己P・Rとしての)構成をもつ、それが三国志の思想的構造の根本をなしていたのである(右の点、『古代は輝いていた』第一巻、参照)。

 ここで古田氏は「倭人伝」に記録されている壹与の貢献記事を西晋朝への貢献としている。これは『晋書』起居注の記事を「倭人伝」の記事と同等と見なしたことによる立論である。私はこの説には異議がある。私は「倭人伝」の記事はやはり魏朝への貢献と考える。理由は簡単で、陳寿が西晋の吏官だったとはいえ、「魏志」の記録に西晋への貢献を記録するはずがない。また、「倭人伝」の貢献を西晋朝への貢献とすると、張政は20年も倭国に滞在したことにあり、不自然だ。(この問題は「崇神記をめぐって(7):壹与の朝貢年」で、かなり詳しく検討している。参照してください。)

 以上でシリーズ『「倭人伝」中の倭語の読み方』を終わります。
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