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《続・「真説古代史」拾遺篇》(150)



「倭人伝」中の倭語の読み方(93)
倭人名(2)


難升米・都市牛利・伊声耆・掖邪狗・倭載・斯烏越
(前回、取りこぼしがありました。追加訂正しました。)

 倭国から魏に遣わされた使者たちである。古田氏はそれぞれ順に次のように訓んでいる。

難升米……ナンシメ
都市牛利…トイチゴリ(ギュリ)
伊声耆……イセイキ
掖邪狗……エキヤコ
倭載………ヰサイ
斯烏越……シオエツ

 「井の中」では「倭載斯烏越」を「倭の載斯烏越」と訓んで一人扱いをしている。「壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還。」(壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし…)という一文があるため、そのよう訓みを考えたのかも知れない。しかし、この訓みは不当だ。「倭の大夫率善中郎将掖邪狗」の場合は倭国での官名「大夫」と魏から授与された官名「率善中郎将」を併記する必要があったので「倭の大夫」と書いた。これに対して「倭載斯烏越」の場合、倭から遣わされた使者は何の断りがなければ倭人に決まっている。いちいち「倭の」という形容の必要はない。「倭載」「斯烏越」と二人の氏名とする方が妥当な考えだろう。ちなみに各使者の「井の中」での訓みは次のようである。

「難升米」…「ナシマ」「ナシメ」「ナンショウベイ」「ナソメ」
「都市牛利」…「ズシゴリ」「トシゴリ」「タジゴリ」
「伊声耆」…「イサンガ」「イシキ」「イセイギ」
「掖邪狗」…「イサカ」「ヤヤク」「ヤヤコ」
(倭の)載斯烏越…「サイシウエツ」「ソシアオ」

 地名の場合、遺称地を手掛かりに妥当な訓みをある程度探ることが可能だが、人名にはその手掛かりがほとんどない。諸説が乱立するのも「むべなるかな」である。しかし、私(たち)は「読み方のルール」によって正しいと思われる訓みをある程度しぼることができる。「井の中」では紀記に登場する人物や諸神社の祭神に比定しようとしてとんでもなく無理な訓みをしている例(内藤博士 上には含めなかった)もある。水野氏もさすがにこれは採用しない。「あえて日本の所伝に見る神や人に無理に比定しようとしないでもよく、ただ人名としてとるだけでよい」と述べている。私もそのように考える。

 狗奴国の王「卑弥弓呼」についても同様である。どういうわけか古田氏の読下し文では訓み(ルビ)が付されていないし、本文でも全く触れていない。あえて訓むとすると、「弓」の音は「キュウ」または「ク」なので「ヒミキカ」か「ヒミクカ」となる。「卑弥呼」と同じ文字が使われている。この王は巫覡だったのだろうか。

 さて、古田氏による訓みでは「都市」を「トイチ」と音訓併用の異質な訓みになっている点が目に付くが、この訓みの根拠と「都市牛利=松浦水軍の長」という「都市」解釈は『「倭人伝」中の倭語の読み方(4):読み方のルール(3)』で取り上げている。また、上で触れた「倭の大夫」に関連する論題として、これらの使者の肩書きの問題がある。その肩書きには「大夫難升米・使大夫伊声耆・倭の大夫率善中郎将掖邪狗」という変化が見られる。これについては『官職名(2):「大倭」とは何か(2)』で取り上げている。

 最後に、古田氏が難升米の訓みとその意義について論じているので、その論考を転載しておこう。

 彼(難升米)は俾弥呼の使者、ナンバー・ワンである。ナンバー・ツウの都市牛利が「姓と名」をもっているとすれば、ナンバー・ワンの難升米が〝名前だけ″のはずはない。従来、「ナシメ」などと〝訓んで″きたのは、〝不当″である。「難」が「姓」、「升米(しめ)」が名。そういう構成だったのではないか。

 それを〝裏付ける″報告があった。中国の河南省。洛陽の近く、河南省で石碑(南北朝時代、420~589)が出土した。それは「難」家の系譜だった。その代々が刻まれていたのである(『中国人の苗字おもしろ談義』丘桓興『人民中国』2006年4月。水野孝夫さんの御教示による)。

 そこには「難樓」という名の鮮卑族の官僚の事跡が記載されていた。後に松花江に移り、「難江」に改名。難姓の鮮卑人は、その後、朝鮮半島に移り住んだという。それを知った、韓国のその子孫に当たる家々の人たちが、「先祖のもとへ参る」ために、集団で現地(河南省の難姓の村)へ行ったというのである。

 すでに中国の古代、この「難」は古典に存在した。周礼である。

「難(おにやらい)」
「難は凶悪を難卻(きゃく)するなり。周礼、方相(ほうそう)氏、百隷(れい)を率いて時難(じなん)、或は單(「甲→里」という字、手許の辞書にはない)に作る。通じて儺に作る。」(集韻)
「遂に始難をして疫(えき)を敲(く)す。」(周礼、春官、占夢)
「故に書、難、或いは儺と為す。」(注)


(追記 2月8日)
 『諸橋大辞典』で上の不明の文字を調べてきた。その文字を〈里〉で表すことにする。 〈里〉の音は
[一]ダ・ナ[二]ダンナン

意味は
「えやみを祓ふ。儺・難に同じ。〔玉篇〕〈里〉、除疫也、興儺同。〔集韻〕難、難卻凶悪也、或作〈里〉。」

 『俾弥呼』では「卻」は「郤」となっていたが、校正ミスだろう。訂正した。


 その後継者と見られる「難」姓が今回出土の石碑だったのである。

 このような経緯から見ると、倭人伝に出現する「難升米」も、その系流の一員だったのではないかと思われる。

 第一に、太宰府の天満宮も「鬼やらい」の信仰を背景としている。
 第二に、「難」の音(おん)は「ダン」または「ナン」であるが、「団・段」などの姓が福岡市や北九州市に散在し、有明海沿いには「南(ナン)」あるいは「南(ミナミ)」の姓が分布している。

 難升米がそのような系流に属する渡来人(いわゆる「帰化人」)だったとすれば、俾弥呼の使者としての「洛陽詣で」は、すなわち〝先祖の地″に至ったことに他ならない。言わば〝熟知″のルートだったのである。

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