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《続・「真説古代史」拾遺篇》(147)



「倭人伝」中の倭語の読み方(90)
官職名(18):邪馬壹国(2)


 「井の中」での三副官の訓みと意味解読は相変わらずの類音探しであるが、紹介しておこう。

「彌馬升」
内藤湖南は「ミマショウ」と訓み、孝昭天皇の謐号観松彦香殖稲天皇の観松彦かとし、天皇の御名代部の類だとする。「御名代部がこの時代に存在したとは考えがたい」とこの説も水野氏は一蹴している。そして、水野氏は「義不詳」と断りながらも次のような説を提案している。

升はショウであるがシ音を示すから「ミマシ」とも訓める。『宋本太平御覧』には「彌馬叔」とあるが、「叔」は音「シュク」「シク」で「ミマシク」と訓むことができるが、「ミマ」はミマの国、ミマナ(任那)の「ミマ」と関係ある語かも知れないが、私はこの「シ」「シク」は、「シキ」という語と思う。「エシキ」「オトシキ」、あるいは「ニシキ」の「シキ」で、「シキ」は「磯城」で、石で築いた城であったり、石で築いた祭場、神聖な場所として石壇を設けた神籬―あるいは神籠石のような場所か―をさすのである。「ミマ」の地にある「磯城」、もしくは祭場の主宰者が「ミマシキ」と称されていて、それを写したのが「彌馬升」であったとする。

「彌馬獲支」
 「ミマカシ」と訓み、水野氏は「これも義不詳」としている。「伊馬」では「イマ」と「支」を「キ」訓んでいながら、ここでは「シ」である。ここでもご都合主義を採っている。
 内藤説は「崇神天皇の謐号御間城入彦五十瓊殖によって、御間城とし、天皇の御名代」であるが、水野氏はこれも採用しない。次のような説を提案している。

 この「獲支」は、「エウカシ」「オトウカシ」の「カシ」に関係のある語とする。「カシ」は「戕牁」「杙柯」で、船をつなぐために水中に立てる杭または棹のことで、もやいぐいのこと。すなわち船主であり、古代航海を主宰する人を「カシ」と称した。弥馬の船主、航海主宰の豪族の長であったと解される。

 「奴佳鞮」
 「ナカテイ」と訓んでいる。「奴」を「ナ」と訓む誤りをここでも採用している。
内藤説
「天児屋根命の裔たる中臣連なると、此の中跡直等なるとは、必ずしも問わず、中臣もしくは中跡の対音とみるべきは疑なし」
 山田氏も「中臣説を唱えている」という。水野氏もこの説を採用していて、これが「井の中」での定説になっているようだ。水野氏の解説は次のようである。

 「ナカテイ」は「ナカト」で、それは中臣とも中人ともとれる。「ナカト」というのは、神と人との中間に介在し、神の意志を人に伝え、人の神への願望を神へ伝達する機能を果たす、卑弥呼のようなシャーマン=巫覡のことであるという説が出てくる。当時巫覡がたくさんいたことは充分認められるので、その最有力者が邪馬壹国の一国の国政に参加していたとも解しうるが、私は新たに字義に即して、奴佳鞮は、魏や韓など外国と倭国との中間に立って詞を通訳する官人ではなかったかと思うのである。すなわち使訳を主管する官人が奴佳鞮であったというのである。

 古田氏は「弥馬升」は「ミマシ」、「弥馬獲支」は「ミマカキ」、「奴佳鞮」は「ヌカテ」と訓んでいる。その意味を次のように解いている。

 次は「弥馬升(ミマシ)」と「弥馬獲支(ミマカキ)」。いずれも「弥馬(ミマ)」という言葉が〝冠″となっている。「弥(ミ)」は〝御(ミ)″。美称であろう。「馬(マ)」は〝真(マ)″。これも、美称である。共に「ミマ」というのが、女王国の中心的官職名をしめす「美称」なのではあるまいか。尊敬語だ。

 最初の「弥馬升」。「弥馬」という尊敬語を除けば、語幹は「升(シ)」である。「チクシ」「ツクシ」の共通部分は「クシ」だけれど、それをさらに分析すれば「ク」は〝奇し″の「ク」。〝ほめ言葉″だ。語幹は「シ」なのである。「シナノ」「コシ」の「シ」と同じく、「人の生き死にするところ」を意味する基本の「倭人語」である(「言素論」参照)。「ミマシ」は〝筑紫を支配する、中心官僚″の存在をしめす「自尊、官職名」なのである。当然、稲作中枢の「板付(いたつけ)」をふくむ。

 次の「弥馬獲支(ミマカキ)」。「カキ」の「カ」は〝神聖な水〝。「河(カワ)」の「カ」。そして「俾弥呼」の「カ」である。「キ」はもちろん、〝柵、要害″である。  だから「獲支」とは〝獲得せられた、神聖な水の要害″の意だ。もちろん「呼」と「獲」では、日本語では同じ「カ」でも、中国音では、「別発音」である。しかし、倭人側の「漢字使用」では「獲」の一字を以て〝われわれの支配し、獲得した、神聖な水をたたえる要害″の意を〝ふくめて″いるのである。すなわち、この「弥馬獲支」とは、あの御笠川の上流、天満宮の地、のちの「水城(みずき)」の地を〝指して″いるのである。もちろん、後世(7世紀)の「水城」のような要害は、まだなかっただろうけれど、博多湾岸の平野部に住む人たちのための「水がめ」の役割は、すでに地形上存在していたのではあるまいか。住民用の〝必須の水″の存在は、同時に、軍事上枢要の地であったはずなのである。この地に「海士(あま)族の御津」としての「天満宮」(「てんまんぐう」は「アマミツノミヤ」)が建てられたのも、決して偶然ではなかったのである。

 次は「奴佳鞮(ヌカテ)」である。現在、福岡市西区に「野方(ノカタ)」がある。壱岐団地の南、例の「最古の三種神器」の出土遺跡、「吉武高木」の北に当たっている。「額田」とも書かれていた。「鞮(テイ)」は「テ」。「手」である。〝広がった場所のあたり″を指す。人間の「手」に〝なぞらえて″いる。「縄手」(長野県松本市)などの「手」と同じである。ここは、他ではない「吉武高木」の神殿に対する〝北方からの侵略″を防ぐための軍事基地である。先の「天満宮」や「後世の水城」に対する「弥馬獲支」と同類の、重要な地点なのである。

 このように「邪馬壹国」の四つの官職名「伊支馬」「弥馬升」「弥馬獲支」「奴佳鞮」のいずれも、女王国の中枢部にとって、もっとも重要な「機能」と「領域」をもつ地帯に対する「新規の、弥生命名の官職名」なのであった。

 女王俾弥呼を取り巻く一大軍事集団、それは奇しくもあの「天孫降臨」という名の「侵入者」たち、そのリーダーとして、歴史の面影をクツキリとしめしつづけていたのである。

 邪馬壹国は俾弥呼の「男弟」が俾弥呼を「佐けて國を治」めているのだから、大官にしろ副官にしろ、文官は必要ないだろう。4人の官は全て武官だったという古田説に賛成したい。
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「鞮」
「鞮」ですが、周代の官名に、楽官・翻訳官とありました。
鞮(dī)
○〔鞮鞻氏〕中国周代楽官名:「掌四夷之楽与其声歌」
○ 古代翻訳官:「光景所照、鞮象必通」
2013/01/28(月) 09:51 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
追伸
(追伸)因みに、我国の辞書には、
「楽官」(うたまい‐の‐つかさ)1 律令制施行以前、朝廷で歌舞音楽をつかさどった役所。また、それに属する人。楽官(がっかん)。
とあります。
2013/01/28(月) 12:31 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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