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《続・「真説古代史」拾遺篇》(142)



「倭人伝」中の倭語の読み方(85)
官職名(13):伊都国(5)


 前回書いたように、「日置」を「ヘキ」と訓む地名例が『日本地名ルーツ辞典』にあった。山口県日置町。ちなみに、日置町は2005年に長門市に合併されていて今はこの町名はない。この町の町名の由来を『日本地名ルーツ辞典』では次のように解説している(執筆者・高橋文雄 山口県地名研究所)。

【日置】ヘキ ―町

 日置は『和名抄』に「比於木(ひおき)郷」とあるが、いつごろからへキというようになったか明らかでない。同じ字を書く地名は全国的にも多くへキ・ヒオキ・ヒキなどという。

 起源は、
①伴信友の説によると
「日置は戸置(へおき)で、昔、民の戸数を調べる職に任じられたものを戸置、その部(むれ)を戸置部といった」
とあるが、
②古代の鉱山に関係があり、製鉄のための木炭生産にあたった部民のことともいう。

 ネットでいろいろと調べていたら、「日置(ヘキ)」という姓の方もおいでだった。また弓道に「日置(へき)流」という流派がある。「日置=ヘキ」という訓みはわりと広く使われているようだが、その源流はどこにあるのだろうか。「弊岐=日置」という等式への私の疑問は解消していない。上の伴説にも納得ができない。「戸置部」などという「部民」は聞いたことがない。自説を補強するための創作だろうか。あるいは確かな出典があるのだろうか。いずれにしても長門市の「日置」の訓みは、理由は分らないが、10世紀(「和名抄」編纂時)以降に「ヒオキ」から「ヘキ」に変えられたことになる。

 次ぎに、京都府宮津市日置の解説は次のように始まっている。(執筆者・澤潔 地名随筆家)

【日置】 ヒオキ 〔宮津市の地名〕

 『姓氏家系大辞典』をみると、「斎部宿禰本系帳」をかかげ、そこに葉耳命(はみみのみこと)の名がみえる。そしてとくに注して、「葉耳命は日置部(へきべ)の祖なり」とある。葉耳命のミミやミは、皇室系譜のなかで、母方が海人(あま)系出身の場合につくことばである(アメノオシホミミ・ヒコホホデミ〈山幸彦〉・カムヤマトイワレヒコホホデミ〈神武〉・カムヌナカワミミ〈綏靖(すいぜい)〉・シキツヒコタマデミ〈安寧〉・オオヤマトヒコスキトモミミ〈懿德(いとく)〉など)。

 「ミミ」は投馬国の官職名にも使われいる。弥弥(ミミ)・弥弥那利(ミミナリ)である。古田氏は「ミ」は女神のことであり、「ミミ」は「二重反復語」と解している(後に投馬国の官職名を取上げるときに詳述する)。

 「葉耳命」なんて聞いたことのない名前が出てきた。ここの記述と「弊岐=日置」が共に正しいとすると「弊岐君の祖」は大山守命なのだから「葉耳命=大山守命」ということになる。ついでに確認しておくと、水野氏が論拠としている「弊岐=日置」が正しいとすると、「日置部」の成立は4世紀(応神の時代)以降ということになる。従って、「弊岐=日置」を根拠にしている水野説は成り立たないことになるが、ついでなので「日置」についてもう少しこだわってみよう。

 上の「ミ」を受けて、澤氏は次のような諸説を紹介している。

 太田亮は、ヒコホホデミ(山幸彦)の兄のホスセリ(海幸彦)の子孫に日下部があると指摘している(『姓氏と家系』)が、丹後国にあまねき太陽の光芒の如く君臨した豪族日下部氏の自負であろうか。

 池田末則も、日祀(ひほき)部は日奉部・日置部(ヒホキ→ヒオキーヒキ)と同義であって、日置部は日下部に転ずるとの指摘がある。すると『丹後国風土記』逸文にいう浦島太郎を与謝郡日置里、筒川村の日下部首(くさかべのおびと)というのも理解できる。

 柳田国男は「聖」をヒジリというのは「日知」の意であり、日置も日の善悪を占ったり、日の性質を知る能力があるとし、日置にはヘキ・へギ・ヒオキ・ヒキの四訓があって、日奉・日祀・日知の意がある(『毛坊主考』)としている。

 折口信夫も、日置の「置く」はソロバンを置くというように、ものを計量することであり、日向(ひむか)の伊勢に対して、出雲(いずも)国にあって「日沈宮(ひしずみのみや)と称されたのが、式内社の日御崎神社であるが、この神社の譜代の神官は日置氏であった。日置氏に賜った田が日置田、つまり疋田(ひきだ)である」としている。
 丹後国の日置は、丹後半島の東側にあって、敦賀(つるが)湾にさし昇る朝日の直射す、まさに日(太陽)を知るうってつけの場所にあり、聖地の名に恥じない。しかしその聖地日置は、また浦島太郎の訪れた竜宮へ行く結界の地で、それは母親の棲(す)む妣(はは)の国・黄泉(よみ)の国・常世(とこよ)国である冠(かんむり)島(大島・雄島)に通ずる。

 古田氏は
『太陽神たる天照大神を頂点とした筑紫を中心に、このような「日置部」が成立するに至った』
と述べていた。上の諸説も「日置」を日(太陽)を掌る役職と解釈している。

 これも余分なことながら、折口説を読んでいて思いだしたことがある。ずいぶん以前に能登半島を訪れ、気多神社に立ち寄った。神社のパンフレットで知ったのか、実際に歌碑を見たのか、定かでないが、釈迢空(折口信夫)の歌を覚えている。その歌では「妣の国」を臨む海は羽咋の海になっている。念のため調べてみたら、その歌碑は気多神社の境内ではなく、藤井巽氏宅庭内のあるそうだ。次のような歌である。

「はくひの海うなさかはるゝこのゆふべ妣か国見ゆ見にいでよこら」

 さて、次は鹿児島県日置郡(執筆者・平田信芳 鹿児島地名研究会世話役)

【日置】ヒオキ ―郡

 薩摩半島北西部に位置する郡。郡名は古代から現在までつづく。『延喜式』記載の部名が史料上の初見になる。『和名抄』は比於岐(ひおき)」と訓み、冨多・納薩・合良(あいら)の三郷をあげている。

 地名の由来については、
①品部(ともべ)の一つ、「日置部」の居住地であったことによる、
②祭祀に供する料田の一つ「日置田」に由来する、
などの説がある。日置部の職掌についても暦法・卜占(ぼくせん)と関係があるとする説や浄火の管理にたずさわったとする説などがあり、また、薩摩国のような僻遠の地での日置部の存在などは考えられないとする説もある。

 「薩摩国のような僻遠の地」というのはヤマト王権一元論が生み出した偏見だろう。投馬(薩摩)国は「倭人伝」に5万余戸もの戸数を保つ国として記録されている。

 日置部の職掌として「暦法」「卜占」「浄火の管理」なとの説が紹介されている。総じて、「日置氏」の出自についても「日置部」の職掌についてもあれこれ言われいるが、どれも納得しがたい。水野氏は「浄火の管理」説を採用しているのだが、私は伊都国の副官と日置を結び付けるのは無理だと思う。

 「日置」にずんぶん長く関わってしまったが、いよいよ伊都国の副官についての自分の考えを述べるべき時が来た。(次回に続く。)
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