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《続・「真説古代史」拾遺篇》(141)



「倭人伝」中の倭語の読み方(84)
官職名(12):伊都国(4)


 水野氏は柄渠觚については「ヘイ-キョ-コ」→「ヘキコ」と訓んで次のように論じている。

 この「ヘキコ」というのは、日本語で現わすと、「日置子」となる。「日置」は、「置」と書くものもあるが、これを「応神記」に、「幣岐君」とあるのによって、「ヘキ」と訓むのである。「ヘキ」は「ヒキ」または「ヒオキ」とも訓むが、地名としては、遠江国にあり、また丹波国多紀郡にも、出雲国神門郡には日置郷がある。人名としては「日置臣」「日置部」などがあり、『新撰姓氏録』によると、日置舎人は高句麗の帰化族であるとし、前記の幣岐君は、応神天皇と、品陀真若王(ほむだまわかのきみ)の娘高木之入日売命(たかぎのいりひめのみこと)との間に生まれた大山守命(おおやまもりのみこと)を祖とするとしている。その氏族の名から推して火を守る職能をもつものであったと思われる。そうすれば、卑奴母離と同種の職能をもつ者であり、「ヘキコ」はその火の管理者であったと思われる。

(中略)

 伊都国は魏使や帯方郡吏が往還した、女王国の外港の地であったから、そこに特別に火守の職能をもつ、ヘキコが存在したと考えても不思議ではない。

 水野氏の「弊岐君」(原文では弊が用いられている))に関わる記述は岩波大系「応神記」の頭注と同じ内容である。それを踏襲しているようだ。頭注には次のように書かれている。

「幣岐(ヘキ)は日置と書いて、へキともヒキともヒオキともいう。この地名は遠江国にもあり、丹波国多紀郡にもあるが、何れか不明。」

 学者さんたちの長年の研究の結果なのだろうが、私は日置をヘキと訓むことに納得できない。「弊岐=日置」はどのようにして得られた説なのだろうか。弊岐君は「応神記」の「大山守命の反逆」説話の分注に「(大山守命は)弊岐君の祖」と一回だけ現れる名前である。一方『新撰姓氏録』に現れる日置舍人や日置造はすべて高句麗からの渡来人である。「弊岐=日置」という等式は出てこない。

 紀記・風土記に現れる「日置」を調べてみた。『古事記』にはない。『日本書紀』には一例だけで垂仁39年10月条の分注に「日置部」とある。『風土記』では、あの「浦嶼子」に出てきた「日置郷」の他に、「尾張國風土記」逸文に「日置部」がある。あと「出雲國風土記」に「臣・郷・伴部・首」を伴って12例出てくる(ここの例には問題がある。後述する)。ここまでは全て「ヒオキ」と訓んでいる。

 「出雲國風土記」の「日置」は原文改定されてるのだった。初出の日置は(中略)のところで水野氏が「日置臣志毘(ヘきのおみしび)」と引用している。しかし先に書いたように〈大系〉は「ヒオキ」と訓んでいる。〈大系〉の脚注によると「日置」ではなく「宜」となっている写本が2例あるという。またその他の11例は全ての写本で「置」なのに「日置」と原文改訂が行われている。この問題は『よみがえる卑弥呼』第二編「部民制の史料批判」で古田氏が取り上げていた。古田氏は「置→日置」と同じような原文改定を他に3例指摘している。「早部→〔日/下〕(日下)部」「田部→額田部」「額部→額田部」である。「置→日置」の批判部分を引用する。

 たしかに、大和朝廷下の部としては、上欄(原文)は〝見馴れぬ″ものであろう。しかしながら、部民制の〝原初の地″たる出雲の中において、右のような「部」が存在したことを、一概に否定するのは危険ではあるまいか。

 別の面からいえば、たとえば弘仁6年(815)の頃撰進されたとされる新撰姓氏録などは、あくまでもその時期の姓氏の実情をしめすものであり、それらの認識をもととして出雲風土記古写本の原文に対し、「改削の手」を加えるというのは、方法論上、不当である。むしろ、それらとの間の「誤差」にこそ注目すべきであり、そこに当史料(出雲風土記)の独自の史料価値を見出すべきではあるまいか。

 もちろん、当史料の「原文」がすべて正当であるとは限らない。しかしそれはそれとして十二分に検討を加えた上でなされるべきであり、安易に「後代」の、「大和朝廷中心主義」の物指しを当て、それによって「原文改定」を加えること、それは不当である。わたしはそのように考える。

 この点、実証的には次のような事実が指摘されよう。

 当風土記の大原郡の項に「置谷の社」(岩波古典文学大系本、243ページ)がある。これから見れば、先の「置部」という「部」も、当然ありうるのではあるまいか。これを他の各地(大和・伊勢等)に見られる「日置郷」に合わせて「改定」するのは、必ずしも穏当ではないのではあるまいか。この「日置郷」は、周防・長門・肥後・薩摩といった西海道周辺にも分布している。筑前(日佐郷)・筑後(日方郷)・筑後(日奉郷)・豊後(日理郷)といった風に、「日-郷」といった形の地名は多い。従って出雲の「置部」が原点となり、「国ゆずり」後、太陽神たる天照大神を頂点とした筑紫を中心に、このような「日置部」が成立するに至った、―そのような可能性もまた、これを〝あらかじめ無視する″ことは許されないのではあるまいか。

 ここにも、「後代の常識」に従って安易に「原文改定」する例が見られるように、わたしには思われる。

 原文改定された日置を除くと、紀記・風土記に現れる日置は「垂仁記」の「日置部」と風土記逸文の「日置郷」「日置部」だけとなる。

 ところで『万葉集』にも一例あった。巻三・354番の題詞で「日置少老の歌一首」とあり、「へきのをおゆ」と訓んでいる。この人物は「伝未詳」である。「伝未詳」なのにどうして「日置」を「ヘキ」と訓むと決められるのだろう。不審だ。「応神記」の頭注「弊岐=日置」を踏襲したのだろうか。

 次ぎに地名に残っている「日置」を調べてみた。吉田茂樹著『日本古代地名事典』では「へき〔日置〕」項は『「ひおき」を見よ。』とあり、「へき」と訓む地名を取り上げていない。「ひおき〔日置〕」項では真っ先に原文改訂された出雲風土記の神門郡日置郷を取り上げている。その解説の中で「ヒオキ・ヘキ・ヒキ等の音を用い」ることに触れている。また、「浦嶼子」の日置里、「和名抄」から但馬国気多郡日置郷と薩摩国日置郡を取り上げている。解説は通り一遍で、全て渡来系一族の日置部の部民の居住地と解説している。

 手許にもう一冊『日本地名ルーツ辞典』(創拓社)がある。こちらで調べたら、京都府宮津市日置・鹿児島県日置郡を取上げている。いずれも「ヒオキ」と訓む。もうひとつ山口県日置町を挙げているが、これは「ヘキ」という訓みである。それぞれにかなり詳しく興味深い解説があった。それを検討してみようと思う。(また長くなりそうなので、続きは新年に持ち越します。)
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美容整形外科医 麻生泰のコメント
はじめまして。
美容整形外科医 麻生泰です。
素晴らしいブログですね。
2013/01/02(水) 02:23 | URL | 美容整形外科医 麻生泰 #USldnCAg[ 編集]
本年も期待しております
明けましておめでとうございます。
本年も研究の一層の発展に期待して拝見させて頂きます。
ところで「觚」には「古代の酒器・ 古代の木简・ 剣の柄」などの意味があるとされますが、官名にはどのイメージで充てられているんでしょうか。
意味と全く無関係の単なる「音充て」だけなのでしょうか。
2013/01/04(金) 10:14 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
Re: 本年も期待しております
早々にコメントを有り難うございます。
私も「觚」は表意文字ではないかと考え、その線で検討中です。次々回ぐらいに発表できるかと思います。


> 明けましておめでとうございます。
> 本年も研究の一層の発展に期待して拝見させて頂きます。
> ところで「觚」には「古代の酒器・ 古代の木简・ 剣の柄」などの意味があるとされますが、官名にはどのイメージで充てられているんでしょうか。
> 意味と全く無関係の単なる「音充て」だけなのでしょうか。
2013/01/05(土) 14:02 | URL | たっちゃん #-[ 編集]
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