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《続・「真説古代史」拾遺篇》(137)



「倭人伝」中の倭語の読み方(80)
番外編:「軍尼」記事をめぐって(3)


 前2回で調べてきた隋・倭の地方行政史を勘案しながら「軍尼」記事の読解をしてみよう。ただし、これも全て推測の域を出ない代物だが、一つの試論としておく。

 「軍尼」記事を原文も付して再掲載する。

軍尼が一百二十人あり、なお中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長の如きなり。十伊尼翼は一軍尼に属す。 (有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。)

 多利思北孤が送った遣隋使は600(文帝・開皇20)年・607(煬帝・大業3)年の2回である。煬帝は608(煬帝・大業4年)年に裴清(はいせい)を倭国に遣わしている。隋書俀国伝は、遣隋使から得た情報に加えて裴清の実見による記録だから、当時の倭国の実情を正しく記録していると考えるべきなのだろうが、「軍尼」記事はどうだろうか。

 『諸橋大辞典』は牧宰を「國主の唐名」としているが、これが正しいとすると、倭国では国造に当る。あるいは牧宰が刺史と同じように中央から派遣された地方長官ならば倭では後の国司のようなものとなる。いずれにしても120もの国があった事になる。この頃の倭国の統括地が関東地方にまで及んでいたとしても多すぎる。また、1人の軍尼が管轄している戸数が800戸というのは、国レベルの行政制度としては規模が小さすぎる。さらに、120人の軍尼の総戸数は9万6千戸(80×10×120)となるが、7世紀初頭の倭国全体の戸数としては全く話にならないほど少ない。3世紀の魏志倭人伝に「略載」されている対海国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壹国だけの戸数の合計ですら15万戸(うち一大国と不弥国は家数で4千家)である。

 では、「軍尼」記事は全くの誤記事なのか。そのようにして片付ける事もできるが、ここではあくまで事実を反映した記事として扱い、その事実を読み取ってみよう。

 『和名抄』に記録されている「国―郡」制下の郡数は592である。この郡は、多少の区画整理は行われたであろうが、「国―評」制下の「評」をほぼ踏襲したものと考えられる。また、『古事記』『風土記』で確認できる県名を見ると、その県名がそのまま郡名に使われている。特に北九州の場合、それらは3世紀(俾弥呼の時代)頃の女王国統合下の国名であった。3世紀の「百余国」は「国―県」制施行時に統合編成された。その国数は分らないが、その国の下級行政区画として県が置かれた。A型風土記によれば、3世紀の伊都国・末盧国はそれぞれ筑紫国逸覩県・肥前国松浦県となった。

 「軍尼」記事には県の下級区画として「里」がでてくるが、これはなんだろうか。前々回に掲載した秦漢時代の行政組織表によれば、地方行政は「郡―県―郷―里」という制度であった。倭国ではどうだったのか。『出雲國風土記』に次のような一文がある。

右の件の郷(さと)の字は、靈龜(りゃうき)元年(715)の式に依りて、里を改めて郷と爲せり。其の郷の名の字は、神龜(じんき)三年(726)の民部省(たみつかさ)の口宣(くせむ)を被(かがふ)りて、改めぬ。

 これによると「国―県」制では県のすぐ下の区画名は里だったことになる。従って倭国の地方行政制度は「国―県―里」であった。(ちなみに、里→郷の変更後は郷の下に「里 こざと」が設けられている。)

 そうすると軍尼は県に派遣された地方官ということになる。私は牧宰は刺史に軍権を付与した地方長官ではないかと考えている。そして、軍尼は表意表記だと考える。「尼」には「ただす。さだめる。」という意がある。軍尼(訓みは「クンニ」か)は軍権を付与された地方長官であった。軍権を持つという意味で「俀国伝」は「牧宰のごとし」と記録した。

 では、なぜ120もの県に軍尼を派遣したのだろうか。

 倭王旨の時代、倭国と百済は同盟関係にあり、高句麗・新羅と激しい戦闘を繰り広げていた。この朝鮮半島の激動期、新羅の軍隊が糸島博多湾岸まで何度も攻め込入ったという伝承が九州の寺社縁起などに多数記されているという。このようは事態に備えて、九州王朝はその中枢部を博多湾沿岸から筑後の髙良山(あるいは三瀦)に移している。(詳しくは『激動の朝鮮半島』・『「倭の五王」補論(6)』をご覧下さい。)

 九州王朝は同時に、九州のみならず、日本海側の要所々々の県に軍尼を派遣する制度を施行したのではないだろうか。伊尼翼(「イニイキ」か)とは、文字通り、「近くにあって軍尼を助ける」副官である。

 「倭の五王」以後も中国における南北朝間の緊張は続いている。この制度は多利思北孤の時代にまで踏襲されてきたのだろう。(あるいは、南朝・陳が隋に滅ぼされたとき、隋の侵攻に備えて多利思北孤が施行した制度だったかも知れない。)

さて、『日本書紀』では「成務記」の「国―県」制施行記事の「縣主」を
「諸國に令して、國郡(くにこほり)に造長(みやつこをさ)を立て、縣邑(あがたむら)に稻置を置(た)つ。」
と「稻置」に置き換えている。仮にこれが事実を伝えるものと仮定しても、「軍尼」を「クニ」と訓み伊尼翼を「イナキ」と訓むこと自体が不当である上に、上に述べてきたように軍尼に相当するのが稻置であり、軍尼・伊尼翼を国造・稻置に比定するのも間違いである。
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この記事へのコメント
軍尼=県は全国に?
「軍尼は県に派遣された地方官」には賛同します。ただ、「戸」の概念は、『隋書』は600年代ですから「一戸」の人数は律令時代(20~30人)に近い数字と考えたほうが良いのでは。そうすれば1伊尼翼は約25人×80戸=約2千人、軍尼は2万人前後、120軍尼で240万人弱となります。
当時の人口は600年の推計で300万人(McEvedy & Jones)、400万人(Biraben)。鬼頭宏氏推計が725年で450万人だそうです(ウイキペディアの受け売りで済みませんが・・)。
そうすれば東北・新潟等蝦夷国を除きほぼ全国を網羅するのではないかと思います。「多利思北孤時代に国県里制がほぼ全土に敷かれ軍尼が任命された」というのはどうですか。
2012/12/10(月) 12:55 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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2012/12/10(月) 22:09 | | #[ 編集]
Re: 軍尼=県は全国に?
度々のコメント、ありがとうございます。
実は「軍尼」記事(3)を書きながら、人口問題も盛り込むつもりで色々調べてみました。ウィキペディアもその中に入っています。だけど不審な問題にぶつかって、この問題をはしょりました。その問題というのは一戸当たりの人数なのでした。どの資料でも数人にしかならないのです。『「一戸」の人数は律令時代(20~30人)』というのはどこからの資料でしょうか。一戸当たりの人数について確かな情報が得られれば、再度人口問題に挑戦しようと考えています。
2012/12/11(火) 12:10 | URL | たっちゃん #-[ 編集]
郷戸と房戸
嶋郡の戸籍ほかの資料から割り出した数字によると、「戸」には郷戸とそれを構成する房戸があり、郷戸=25人程度(親族集団で50戸1里制の基本)、その下の房戸は7~9人の小家族で、数戸で郷戸構成)とされています。
専門の研究はいろいろあると思いますが、「詳しくわかる高校日本史」という高校の先生の作っているHPが分りやすくまとめられていますのでその引用ですが・・(「律令制下の農民」という項目)。これが通説だと思います。
2012/12/11(火) 20:26 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
隋書と魏志倭人伝で「戸」の概念は違う
「どの資料でも数人にしかならない」というのは、ひょっとしたら魏志倭人伝の「戸」のことでは?7世紀隋書時代と3世紀卑弥呼時代では「戸」の概念は違っています。そうでないと邪馬壱国7万戸で200万人にもなり、ありえません。魏志倭人伝の「戸」はおっしゃるとおりどの資料でも小家族単位でせいぜい数人とされていますので。
2012/12/12(水) 22:23 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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