2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(136)



「倭人伝」中の倭語の読み方(79)
番外編:「軍尼」記事をめぐって(2)


 一方、同時代の倭国の行政制度はどのようだったのだろうか。『「郡評」論争』で、倭国には「国―評」制があったことを知った。また、『「大化改新」の真相(15)』では「国―県」制があったことを知った。この二つの行政制度が施行されていたのはいつだろうか。

 古田氏は「これは一つの試論にすぎず、あまりにも多くの仮定をふくんでいるものであるけれども」と留保付きながら、A型(県)風土記の成立を583年と推定している(『法隆寺の中の九州王朝』)。これが正しいとすると、6世紀末頃の倭国の行政制度は「国―県」制だった。一方、「国―評」制は7世紀末まで続いていた。ではいつ「国―県」制から「国―評」制へと移行したのだろうか。この問題は『「天武紀」の伊勢王(1)』『「天武紀」の伊勢王(2)』で取り上げている。649年~650年であった。つまり、多利思北弧の遣使時(第1回600年・第2回607年)の倭国の行政制度は「国―県」制であった。

 では、「国―県」制の施行は何時だったか。これには「分らない」と答えるほかないようだが、『古事記』にそれらしい記事があるので検討してみよう。

 『古事記』に現れる「縣」を全部拾い出してみよう。

 神代では全部分注に〈…縣主の祖なり〉と頻出する。本文に出てくる「縣」としては「天孫降臨」段に「佐那那縣」がある。これと似たものに「応神記」と「仁徳記」に「諸縣」がある。『和名抄』に日向国諸県(もろかた)郡とあるように、「佐那那縣」の「縣」も行政区分の「縣」ではなく地名の一部として使われている。行政区分として使われている「縣」が現れるのは「綏靖記」以降である。

①〔綏靖〕
 師木縣主の祖、河俣毘賣を娶りて…
②〔安寧〕
 河俣毘賣の兄、縣主波延の女…を娶りて…
③〔懿徳〕
 師木縣主の祖、賦登麻和訶比賣命…を娶りて…
④〔孝靈〕
 十市縣主の祖、大目の女…を娶りて…
⑤〔開化〕
 旦波の大縣主、名は由碁理の女…を娶りて…。

 ②の縣主について〈大系〉は「師木(磯城)の県主で、師木を略したのである。」と注記している。①の河俣毘賣の兄なので①と同じと考えての注だろう。そうならば①③が「師木縣主の祖」なのだから、②も「師木縣主の祖」でなければおかしい。そうすると④までが「…の祖」であるのに、⑤でいきなり県主本人となるのも解せない。ここも「旦波の大縣主の祖」と解すべきだろう。本格的な業績記事が始まる「崇神記」「垂仁記」に県主が全く現れないのもこの判断の根拠の一つである。

 次ぎに県主が現れるのか「景行記」である。

〔景行〕
 其れより餘(ほか)の七十七王は、悉に國國の國造、亦(また)和氣、及(また)稻置、縣主に別け賜ひき。

 景行には80人の王子がいて、そのうちの3人が太子となり、残る77人の処遇が上記の記事である。まことにウソっぽい記事である。〈大系〉の頭注は「すべてカバネ(姓)である」と記している。「天武紀」13年10月条に「八色の姓」記事があるが、その8番目の姓が稲置である。〈大系〉の注でいいのではないか。いずれにしても記事そのものが粉飾記事であり、ここの県主も「国―県」制の官名ではない。

 次の県主の出現は「成務記」である。「国―県」制の施行記事である。これは全文を掲載しよう。

故、建内宿禰を大臣(おほおみ)と爲(し)て、大國・小國の國造を定め賜ひ、亦國國の堺(さかひ)、及(また)大縣・小縣の縣主を定め賜ひき。

 「成務記」は、前の崇神・垂仁・景行や後の仲哀・応神の華々しい記事に対して、即位・姻戚記事と崩御記事のほかは上の記事があるだけである。必ずしも九州王朝の業績の盗用ではなく、九州王朝の分流として「国―県」制施行命令にしたがって近畿地方の行政整備をしたとも考えられる。もしこの考えが正しいとすると、「国―県」制は成務期頃に施行さてたことになる

 この後の県関係記事は次の2件だけである。

〔仲哀〕
 亦其の御裳に纒きたまいし石は、筑紫國の伊斗村也。亦筑紫の末羅縣の玉嶋里に到り坐して…
〔雄略〕
 天皇其の家を問はしめて云(の)りたまひしく、「其の堅魚を上げて舍を作れるは誰が家ぞ。」とのりたまえば、答へて白ししく、「志幾の大縣主の家ぞ。」とまをしき。

 「伊斗村」も「伊斗縣」と書くべきところだろう。『日本書紀』は「伊都県」と記している。筑紫風土記逸文では「逸覩県」となっている。また、「志幾の大縣主」について〈大系〉は「河内国志紀郡。大県主はカバネ(姓)。」と注記している。「国―県」制などまったく念頭にないコメントだ。「仲哀記」の筑紫関係記事は盗用の可能性大であるから、『古事記』では「国―県」制が確実に施行されていた証拠となる記事は「雄略記」のものだけである。

 ついでにA型風土記に現れる逸覩県以外の「縣」を拾い出しておく(訓みと後の郡制時代の表記を付した)。

塢舸(おか 遠賀)県・杵島(きしま)県・閼宗(あそ 阿蘇)県・球磨(くま)県・上妻(かむつま かみつやめ)県・上膳(かみつけ 上毛かみつみけ)県・松浦(まつら)県

 これも言うまでもないことかも知れないが、領域の区画には変動があったとしても、後の「国―郡」制の「郡」は「国―県」制・「国―評」制の「県・評」を踏襲していたことが分る。

 さて、「成務記」の記事が「国―県」制の施行記事だとして、その時期は何時だったのだろうか。「崇神記をめぐって(10)」で、古事記古写本に註記されていた崩年干支を用いた水野氏による崩年の絶対年比定を取り上げた。それによると成務の崩年は355年であった。もしもこれが正しいとすると、「国―県」制の施行は4世紀中頃ということになる。あの七支刀が近肖古王から倭王旨に贈られたのは367年だから、倭王旨の時代ということになろう。(「真説・古代史(51)~(53):七支刀」「七支刀補論」を参照してください。)

 以上、仮説の積み重ねのようなあやふやな代物だが、一つの試論として書き留めておく。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1810-cc9191fe
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック