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《続・「真説古代史」拾遺篇》(135)



「倭人伝」中の倭語の読み方(78)
番外編:「軍尼」記事をめぐって(1)


 まずは倭国と隋の行政制度を確認しておこう。

 中国の行政制度の変遷についてはほとんど何も知らないので、この際そこから調べることにした。この問題については古田氏が『よみがえる九州王朝』の「第三章 九州王朝にも風土記があった」で論じている。それを下敷きにして中国の地方行政制度史を素描してみる。なお、ネットで「いつか書きたい『三国志』」さんに出会った。ここで巌耕望という台湾の学者さんの著作『中国地方行政制度史』の抄訳を行っていた。ここからも資料を拝借する(ここからの情報には〈*〉印を付した)

①周の封建制
 周王朝のもとに斉・趙・魯・燕・楚などの「国」が並立していた。
②秦の「郡―県」制
 「国」は「郡」に代り、中央からの派遣官僚が統治した。そしてその下部単位として「県」が置かれた。
③漢の「郡・国―県」制
 「国」(漢の高祖の一族や功臣が「王」)「郡」(中央からの派遣官僚が統治)とを置き、それぞれの下に「県」があった。

 以後、「郡(国)―県」制は漢→魏→西晋→東晋→(南朝)と引き継がれていった。参考に「総合世界史図表(第一学習社)」から秦漢時代の行政組織表を転載しておこう。

秦漢時代の政治組織

 さて、目下問題としている隋時代については郡(国)の上級区画である「州」との関係がよく分らないので、『よみがえる九州王朝』から『隋書』(地理志上)を孫引きして、考えることにする。

 天監(てんかん)十年(511、梁武帝)、州二十三・郡三百五十・県千二十二有り。(中略)
高祖、終を受け、朝政を惟新(いしん)す。開皇(かいこう)三年(583)、遂(つい)に諸郡を廃す。…州県を柝置(たくち)す。煬帝(ようだい)、位を嗣ぐ。…既にして諸州を併省し、尋(つ)いで州を改めて郡と為す。……大凡(おおよそ)郡一百九十、県一千二百五十五


 梁の領土は隋の一部になり、隋の領土は梁の領土より遙かに大きいのに郡数は梁の方が約2倍もある。これはどうしたことだろう。『北史』によると、司馬炎が呉を滅ぼしたとき、4州―43郡(―52万戸、230万口)で、隋文帝が呉と陳を滅ぼしたときは、40州―100郡―400県(50万戸、200万口)だったという〈*〉。人口はほとんど同じなのに州数が10倍にもなっている。南朝の政治基盤の脆弱性のあらわれだろうか。

 ともあれ、梁時代には「州―郡―県」の三級制の行政制度になっている。前漢は二級制だったが、後漢では三級制だった〈*〉。その後、南北朝までは三級制を踏襲したと考えてよいだろう。「柝置」の意味が判然としないが、高祖(文帝)による改革は二級制にして郡を州と呼ぶようにしたと考えてよいだろう。次の煬帝は州を再編して上級区画の名を「郡」に改めた。すなわち、隋では文帝時代(581~604)には「州―県」制、煬帝時代は(604~618)は「郡―県」制という二級制であった。確認のため、『岩波講座世界史 古代5』で隋・唐時代の官制関係記事を拾い読みにしてみた。隋・唐時代の地方制度について次のような解説があった。(布目潮渢論文「隋唐帝国の成立」より)

 『隋書』巻二八、百官志下に、583(開皇3)年4月のこととして、「郡を罷(や)め、州を以て県を統ぶ。」とあり、これまで地方統治は州・郡・県の三級制であったのを州・県の二級制とする大改革を行ない、これ以後は郡と言っても、州と同じになり、これまでの「十羊九牧」(『隋書』巻四六、楊尚希伝)的な、民少なく、官の多い弊害を除いた。

 次の唐はまた郡を州と改名している。そして郡の上に上級区画「道」を設置した。つまり「道―州―県」という三級制であった。道数は初めは10だったが玄宗時代には15に改編されたという。また、州数は約350、県数は約1550だったという〈*〉

 さて、「軍尼」記事中の中国の官名「牧宰」とはなんだろう。これはネットでは分らなかった。岩波講座でも使われていなかった。『諸橋大辞典』で調べてみた。

【牧宰】ボクサイ
 國主の唐名〔職原抄〕諸國、唐名、守、刺史・使者・宰吏・牧宰・国宰・太・太守。



 牧宰は唐の官名と書かれている。牧宰のほかに類似の官名として牧司・牧守・牧伯などがあるが、牧宰以外はすべて古くからある官名である。隋書は隋が残した資料を用いて唐の吏官が編纂したがものだが、唐の読者に分りやすいようにと、ここでは唐の官名を用いたということだろうか。と思ったが、念のためサイト「中國哲學書電子化計劃」の検索機能を用いて調べてみた。漢以前の文献ではヒットしなかった。漢後の文献では7件ヒットした。全部『太平御覧』の文であった。「《唐書》曰」で始まる文が2件あった。唐で使われていた官名であることが確認できた。しかし、その中に「職官部五十五:文良刺史中」からの文があって「《隋書》曰」で始まっていた。隋でも使われていたのだ。次のような文である。

「又曰:楊達,字士達,為鄯、鄭、趙三州刺史,俱有能名。平陳之後,四海大同,上差品天下牧宰,達為第一,賜雜采五百段,加以金帛。」

 恥ずかしながら、私にはこの白文をキチンと訓むことができない。刺史と同じかそれに類似した(もしかしたらより上級の)官名だったようだ。

 上に引用した岩波講座からの引用文は次のように続く。

 さらに州の僚属中の品官の任命権まで中央に回収し、任命にあたって出身地を回避する制を確立し、州の刺史より兵権を中央に取りあげ、官権の地方浸透をはかった、という浜口重国氏の見解は重要である。

 また浜口氏は、『隋書』巻二八、百官志下にみえる595(開皇15)年の「州県の郷官を罷む」とある郷官について研究された。南北朝において刺史はおおむね将軍号を帯び軍府をもった結果、刺史の下僚に軍府の官と州刺史の官と二系統が生じ、郷官とは郷党閭里史職ではなく、州系統の官を指すことを考証し、その郷官を廃止した結果、刺史の下僚は長史・司馬以下の府官のみとなった。(以下略)

 『「一大率」とは何か(3)』で検討したように、魏時代の刺史は行政官であった。上の引用文によると、その後刺史は兵権をも掌握するようになったようだ。それが隋になって再び単なる行政官に戻ったことになる。

 なお、「軍尼」記事に中国の官名として里長があるが、手許の辞典では
 古代の行政区画
  (イ)周代は25家
  (ロ)唐代は100家
となっている。上の組織図を見ると「里 約100戸」となっている。(ロ)は秦漢時代からの継承事項のようだ。
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