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《続・「真説古代史」拾遺篇》(131)



「倭人伝」中の倭語の読み方(74)
番外編:「『翰苑』が描く倭国」(1)


 前回問題にした『翰苑』の文を宮﨑氏は
「邪伊都傍連斯馬」
と書いていた。古田氏の「邪馬壹国の史料批判」では原文は上と同じなのに、読下し文は「屈」ではなく「届」となっている。ネットで出会った「翰苑の解読と分析」では「届」であった。一体どうしたことだろう。この謎を「古代史獺祭(だっさい)」さんが解いてくれた。このHPは古代史史料集としてとても役に立ちそうだ。このHPの『翰苑』ではくだんの原文は
「邪伊都 傍連斯馬」
となっている。「屆」なんて字、初めてお目にかかったが、これが本来の正しい原文のようだ。辞書を調べたら「届」は俗字で「屆」が正字だという。この字を宮﨑氏は「屈」と見誤ったのだ。古田氏の場合はネット資料化した方のミスだったのかもしれない。以下、原文は「古代史獺祭」さんのものを用いることにする。

 まず、『翰苑』の「倭国」記事全文を読んでおこう。原文と古田氏による読下し文は次の通りである。

倭國
憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻

倭國
山に憑(よ)り海を負(お)うて馬臺に鎮(ちん)し、以て都を建つ。軄を分(わか)ち官を命じ女王に統ぜられて部に列せしむ。卑弥は妖惑(ようわく)して翻(かえ)って群情に叶(かな)う。臺與は幼歯にして方(まさ)に衆望に諧(かな)う。文身點面(かつめん)、猶(なお)太伯の苗(びょう)と称す。阿輩雞弥、自(みずから)ら天兒の称を表す。礼義に因(よ)りて標袟(ひょうちつ)し、智信に即して以て官を命ず。邪(ななめ)に伊都に届き、傍(かたわ)ら斯馬に連(つらな)る。中元の際、紫綬の栄を〈受け〉、景初の辰(とき)、文錦の献を恭(うやうや)しくす。

(〈受け〉は古田氏による補足語句。)
(「娥」は『邪馬壹国の史料批判』では原文も「妖」となっている。)

 古田氏は本文冒頭の「邪」を副詞として読んでいる。このような訓み方が可能なのだろうか。念のため手元の『新漢和辞典』を調べたら、確かに「ななめ。ゆがむ。かたよる。」という意も載せている。

 『翰苑』の倭國記事はたったこれだけなのだ。しかし、俾弥呼から阿輩雞弥(多利思北孤)まで倭国の歴史が連続していること、都のある「馬臺」の地理的位置を簡潔にまとめている。つまり『翰苑』は九州王朝(倭国)が7世紀まで続いたことを証言しているだ。ヤマト一元主義や倭国の東遷説などはここでも否定されている。「馬臺」については後ほど取り上げることになるだろう。

 さて、上の張楚金が書いた文には一節ごとに雍公叡が付けた注(出典)があり、『翰苑』は本文と注とによって構成されている。例えば今問題にしている一節は次のようである。

邪屆伊都 傍連斯馬

廣志曰 [イ妾]國東南陸行五百里 到伊都國 又南至邪馬嘉國 百女國以北 其戸数道里 可得略載 次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國 安[イ妾]西南海行一日 有伊邪分國 無布帛 以革爲衣 盖伊耶國也


 ちなみに、『翰苑』が書かれたのは660年(顕慶5年)で、雍公叡の注は831(太和5年)以前に成立したとされている。

 上の文を「古代史獺祭」さんは次のように読み下している。ただし、「自己流の勝手な判断でどこまで直してよいものやら、たいへん悩ましいが…」とためらいながら、「管理人の勝手な判断により校正(?)した部分」を明示している。こういう姿勢にはとても好感が持てる。「古代史獺祭」さんの校正部分を赤字で示しておこう。

邪は伊都に屆(とど)き 傍ら斯馬に連なる

廣志に曰く。  國、東南陸行五百里にして伊都國に到る。また南に邪馬國に至る。 女より以北はその戸数道里を略載するを得るべし。 次に斯馬國、次に巴百支國、次に伊邪國。 案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り。 布帛無く、革を以って衣と爲す。 盖(けだ)し伊耶國なり。


 「古代史獺祭」さんは本文の「邪」を「邪馬臺国」と考えたようだ。そこで「邪馬嘉国」の「嘉」を「臺」と校正した。「百女国」の「百女」を「女王」と手直ししたのは「百女国」では説明の仕様がないからだろう。しかし、「邪」一字だけで「邪馬臺国」と結び付けるのは乱暴な論理だし、安易な原文改定はすべきではないだろう。次ぎは古田氏の読下し文だが、原文改訂は行っていない。「倭人伝」解読のときと同様、全文脈の中での手堅い解読を行っている。

。邪(ななめ)に伊都に届き、傍(かたわ)ら斯馬に連(つらな)る。

広志に曰く「[イ妾](=倭)国。東南陸行、五百里にして伊都国に到る。又南、邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸数道里は、略載するを得可(うべ)し。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国。安(=案)ずるに、[イ妾]の西南海行一日にして伊邪分国有り。布帛(ふはく)無し。草(革か)を以て衣と為す。盖(けだ)し伊耶国也


 それでは「邪屆伊都 傍連斯馬」に対する古田氏の読解を読んでみよう。

 まず「邪」の字。この字は副詞に読むときは「ナナメ」です。

 「伊都に届き傍ら斯馬に連る。」の「連なる」とか「届く」といった用法は『翰苑』の非常に好きな表現方法で、この用法はたくさん出てきます。

 それから見ると、「届く」という場合は、接している場合の一つです。“すぐそば”というよりも“少しはなれたあたり”で接している形ですが、とにかく“接して”いて、“中に別の国が入っていない”場合に「届く」という言葉を使います。

 つぎに「連なる」という場合は、その接している国のもう一つ向こうにある国がはじめの国から見て「連なる」となるわけです。

 つまりいいかえますと、「A→B→C」と並んでいまして、Aから見てBは「届く」、Cは「連なる」なのですね。そういう表現法が守られています。そうしますとこの文は“伊都とは接している。そしてその向こうに斯馬がある”という意味です。

 「邪」を「ななめ」と訓むことにはいささか違和を感じるが、「邪屆伊都 傍連斯馬」が対句であることを考えると、納得がいく。

邪 屆 伊都
↓ ↓ ↓
傍 連 斯馬

 では、Aはどこなのだろうか。
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2012/11/15(木) 16:55:00 | まっとめBLOG速報