2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(129)



「倭人伝」中の倭語の読み方(72)
官職名(6):「一大率」とは何か(4)



一大率…常に伊都國に治す。

 一大率が常駐していた治所はどこか。この比定には「一大率」の解釈、邪馬壹国の比定地、3世紀以前の倭国史が深く関わる議論になるだろう。その意味では「井の中」の諸説には多くは期待できないが、代表者として水野説と宮﨑説を取り上げてみよう。

 水野氏は
「一大率は特設の官であり、常に伊都国の渡津近くに治所を設定し、そこに常駐していた。」
としているが、
「私は伊都国の渡津としたが、それが具体的にどこかについての詳細は不明である。」
と特定はしていない。こういう判断も一つの見識だと思う。ではなぜ「伊都国の渡津」と考えたのだろうか。使は「一大率=刺史の如き有り=文官」という誤読の立場なので、次のように判断することになる。
「一大率は郡使が来た時、その文書や賜物を郡使より受け取り点検をしたとすると、その場所は一大率の治所か、とくに郡使歓待のために、その近くに設立された迎賓館であろう。」

 そして、次のように「一大率」の治所のおおよその推定をしている。

「第三世紀の頃の伊都国は後の糸島郡の地域であったとすると、そこは本土と相対して糸島半島が前面にわだかまり、いまは完全に沖積地によって陸とつながって東に博多湾、西に唐津湾を控えてリアス式の海岸を呈するが、弥生時代には糸島半島は陸地より離れたいくつかの大小の島嶼で、本土との間には、地質学者の名づける糸島水道が東西に走り、唐津湾と博多湾とは、この細長い水道によって結ばれていたのである。そうすると、従来想定されている深江の附近よりももっと東に入った糸島水道の中央部にあったと思われる。そこには有名な支石墓群の志登遺蹟もある志登から女原附近の海岸に面した所に私は推定したい。

 奴国のある博多湾、未廬の唐津湾に通ずる中間地帯で、前面は糸島半島の島嶼により、玄海の荒波の自然の防波堤を控え、直接玄海灘に通ずるいく通りもの狭長な水路も開かれていた。まことに天然の良港であった。宮崎氏が伊都の古地を周船寺附近と推定したのは、ゆえなしとしない。あえていうならば、私もその附近としたいのである。

 3世紀ころは「糸島半島は陸地より離れたいくつかの大小の島嶼」だったという説が誤りであることは『「21国」の比定:前回の訂正などなど』で確認している。宮﨑氏同様、水野氏も古い資料によって論述している。しかし、「伊都国」は「周船寺附近」という推定には影響はない。のちに必要となるので、古冢時代の糸島半島の地図を再掲載する。


弥生時代の志摩半島

 「伊都国」を「周船寺附近」と推定した宮﨑氏は「一大率」の治所を何処に求めているだろうか。氏は「一大率」は軍隊であるという立場である。そして、その治所を次のように比定している。

 伊都国に駐在した邪馬台国の軍隊は、船着き場のあたりで庶民といっしょに雑居していただろうか。倭人伝の風俗に関する文章から考えると、相当に組織された軍隊であり、きびしい上下の階級が整っている。ましてや占領と鎮圧を兼ねた軍隊であるから、砦が必要だったはずである。

 砦は恰土城を小規模にしたようなものだったろうか。まだ当時は、そこまで築城の技術はすすんでいなかっただろう。そのことは、高塚古墳の築土の歴史が示すように、土木的な技術は、まず古墳と住宅に始まり、それから築城となる。当時はまだ、自然の地形を利用した要害だったと思う。それならば、高祖山の中腹の一部ではないかということにもなるが、ここは視界が二分の一はさえぎられ頂上近くに視界を求めて登れば、怡土城のように大規模になりすぎる。だから山を降りて恰好の砦らしい所を捜したのだ。今山が石器製造の場所だったというのも、石器も作ったろうが、古代城砦の跡だから石器類も残っているのだと考えられる。

 ここからは周船寺付近の集落や瑞梅寺川の河口も居ながらにして監視できるし、山の日当たりのいい東南面の台地はこれらの対岸と向き合っているのである。周船寺付近との距離もほどよく、前に述べたヤマ(邪馬)と語源がつながるこの山城に等しい今山こそ城でなくて何であろう(機会があれば読者もぜひ登ってみてもらいたい。私の考えか単なる地図の上の想定でなく、原文に則して実地に踏査した結果、誰しもたどりつく結論であることに基気付かれるであろう)。
 「今山」という地名は「今山遺跡」として残っている。古冢時代の石斧製作工房だったとされている。上の地図で今宿のすぐ北にある丘陵地が「今山遺跡」である。下の写真は「伊都国の文化財」 さんから写真を拝借した。

今山遺跡

 今津湾の北岸辺りから撮った写真のようだ。奥の方に見える山が高祖山だろうか。

 上の地図によると、今山と周船寺のある平野とを結ぶ陸上の交通路は砂丘になっている。実際に現地を知らない者の推測に過ぎないが、今山は監視所としては恰好の場所のようだが、いざという時に平野部に駆けつけるのにはいささか不都合ではなかろうか。もちろん船を用いて海路選ぶことも考えられる。しかし地図で見る限り、志登や周船寺の方には良港があり得そうだが、今山にはそれも望めそうもない。

 宮﨑氏はこの後も伊都国が戦略的にいかに重要な地であったかを縷々述べている。その記述は「21国」や女王国統属外の国々の比定地が関わる記述であり、その比定地は私とはまったく異なるので割愛しよう。

 次は古田説を見てみよう。氏は「一大率」の治所を周船寺に比定している。しかし「可能性はまことに大なのではあるまいか」と言い、早急な断定は控えている。私としては納得のできる論述なので、そのまま引用しておこう。次のようである。

 この「一大率」と「一大国」問題に関する、一つの「新しい課題」を記しておこう。

 その一は、「周船寺」問題だ。糸島郡にこの地名のあることは、よく知られている。かつては「主船司」と書かれたという。発音はいずれも「すせんじ」である。

 この「寺」は、役所を意味する言葉である。
寺、官なり。 <『広雅』釈室>
 寺門に至る。
  (注)師古曰く、諸官曹之所、通呼して寺と為す。 <『漢書』何並伝>

 したがってこの地は〝舟をつかさどる役所″のあったところ、と思われる。

 さて一方の「一大率」。これが「一大国の軍団のリーダー」の意を蔵していたことはすでにのべた。この「軍団」という(わたしの)表現は、“陸軍”のイメージでうけとられやすい。しかし、「一大国」が“海人族”の拠点であり、彼等の本領が〝金属器の武器をもつ、海上武装船団″であった点からすれば、彼等の本質は、むしろ〝海軍″であろう。

 もっとも、当時「海軍」と「陸軍」の分業・専門化があったとは思えないから、この〝海上武装船団″は、敵地に上陸するや直ちに、激烈な陸上戦闘をも行ったであろう。

 要するに「一大率」とは、“壱岐の海上武装船団の長”の呼称だったのではあるまいか。とすれば、糸島郡の現地に残る、この「主船司(周船寺)」の名称は、他ならぬ「一大率」の所在地を示していたという、その可能性はまことに大なのではあるまいか。

 その二は、「倭風、漢字表記法」の問題だ。右の「主船司」は、倭語では「ふなつかさ」といった呼び名となろう。したがってもしこれが「一大率」の時代(三世紀)にさかのばりうる地名であったとしたら、それはこの「倭名」(「ふなつかさ」の類)であったかもしれぬ。

 しかし実は、他の可能性もある。右の〝役所″を「寺」と呼ぶ用法は、右の『広雅』『漢書』の用例の示すように、三世紀以前にさかのぼりうるのであるから、倭人自身が「周船寺」もしくは「主船司」といった漢字表記を行っていた、という可能性も、これを絶無とはみなしがたいのである(周船寺の隣の伊都神社では、倭人伝と同じ「伊都」の表記が固持されている。「恰土(いと)村」などとは、表記を異にしているのだ。これも中国の都、洛陽の入口に「伊闕」〔「闕」<天子の宮殿>に伊(こ)れ近しの意〕のあるのになずらえて、倭人がみずからの都、邪馬壹国〔博多湾岸周辺〕の入口の地を「伊都」と表記した、という可能性もあろう。とすれば、倭人伝は、この「倭人の漢字表記」に従って書かれたこととなろう)。

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