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《続・「真説古代史」拾遺篇》(128)



「倭人伝」中の倭語の読み方(71)
官職名(5):「一大率」とは何か(3)


 「一大率」をめぐる論争では「於国中有如刺史」の解釈が一つのポイントになっているが、この文以下を「一大率」の職務の説明とする解釈が大勢のようだ。例えば松本氏。氏は次のように読解している。(なお、氏は「一大率」の「一」は不定冠詞であると解し、「一大率」を「一」を省いてただ単に「大率」と書いている。)


 女王国以北には特に大率を置いた。大率は常に伊都国に治していた〔位置〕。

 大率に諸国を検察せしめた。諸国はこれを畏(おそ)れ憚(はばか)った。大率はその国の中では中国の刺史のような存在であった〔権力〕。

 倭王の使者が京都(魏の都の洛陽)・帯方郡・諸韓国に行くときや、帯方郡の使者が倭国に来たときは、大率はそのたびにそれらの船が出入する港に行って(船中を)捜露(検査)し、伝送の文書と女王のもとに行く賜遺の物(下賜品)とを仕分けし、混乱(差錯)することがなかった〔任務〕。

 このように解釈した上で、松本氏は「一大率」を魏(帯方郡)から派遣された官吏という説を唱えている。水野氏はこの松本説に反論して「一大率」は女王が任命した官吏としているが、「於国中有如刺史」の解釈については松本説を踏襲している。そして両説ともにその官吏は文官だと言う。例えば水野氏は次のように書いている。

「一大率は兵馬の権はもっていなかったと思われる。すなわちあくまで文官であり、武官ではなかったであろう。」

 「於国中有如刺史」以下の文を「一大率」の職務説明文と解釈すれば、③のような〔任務〕を遂行する官吏は「文官」とせざるを得ない。しかしこの場合、「畏憚」という表現が大げさな響きを帯び、宙に浮いてしまう。強力な軍隊を率いる武官であってこその表現だ。

 では「於国中有如刺史」をどう解釈すればよいだろうか。まず、「刺史」とは何か。『広辞苑』は次のように説明している。

「中国の地方官。漢では地方監察官。魏・晋・南北朝・隋・唐では州の施政官。宋以後廃止。」

 魏・晋時代では「刺史」は州の施政官である。古田氏が、「使大倭」の解明に際して、「魏志」から引用していた文を拝借しよう。

(1)
乃ち礼を以て幷(へい)州の刺史と為し、振武将軍・使持節・護匈奴中郎将を加ふ。(魏志二十四、孫礼伝)
(2)
明帝、涼州の絶遠にして、南、蜀冠に接せるを以て、邈(ばく)を以て涼州の刺史・使持節と為し、護羌校尉を領せしむ。(魏志二十七、徐邈伝〉
 (3) 青竜中、帝、遼東を討たんことを図り、倹の幹策有るを以て、徙(うつ)して幽州の刺史と為し、度遼将軍・使持節・護烏丸校尉を加ふ。(魏志二十八・毌丘倹伝)


 「刺史」に付与されている「使持節」という職名はどのような意味があるのだろうか。古田氏は次のように解説している。

『「節」は「はたじるし」であり、「羽・旄(ぼう)牛の尾などを編んで作った、大将・使者などに賜わる符信(しるし)」だという。「周礼・夏官・射人」に「九節五正」とあるのも、その「節」だ。ここから「持節」の用語が生れる。』

 「持節」とは天子から「符信」(何らかの権限)を授かったという意味である。「使持節」の場合は「二千石以下の官職の者を独断で処刑できる」という権限が与えられた職権を意味している(ネット検索で調べました)。「刺史」には時にはこのような強い権限が与えられたが、あくまでも州の施政官、つまり文官である。「検察」のために「特に」置かれ、「畏憚」された「一大率」とは全く性格を異にする官職である。「於国中有如刺史」以下の文を「一大率」の説明文とする読解は明らかに誤りである。古田氏は「刺史」について次のようにまとめている。

(1)
 「一大率」は「女王国より以北の行路の国々」に対する検察を任としている。すなわち「旁国」二十一か国は、その責任に属していないのである。しかし、中国の「刺史」の場合は、すべてにおかれた地方官であるから、「特定地域」のみを対象とするものではない。

(2)
 「一大率」は「常に伊都国に治す」と書かれている。つまり「一定点」に存在したのである。これに対して「刺史」の在任の地は州の数だけ存在する。

(3)
 「一大率」は「率」という以上、軍団のようであるけれども、「刺史」は行政官である。

 右のようであるから、「一大率」は「刺史」と別個のものであり、「一大率」記事のあとに「刺史」記事が一句おかれているのである(喜田貞吉はこのように理解した)。

 したがって、(松本氏がまとめた③「任務」の原文と読下し文。略す)とあるのは、主としてこの「刺史」の任務を説いたものである。行路の国々の「刺史」のごとき行政官は、「皆」中国-朝鮮-女王国間の、公式往来の道筋を確保するにつとめたのである(むろん、これを背後から軍事力をもって検察していたのは、伊都国に治していた「一大率」だった、と思われる)。

 さて、先の「使持節」のときの例で見たように、魏では三例とも、その州の「刺史」が「使持節」の称号をかねていた。両者は関連する可能性が高いのである。この例から見ると、倭国においても、各国におかれた「刺史」のごとき行政官が「使大倭」として、「租賦」や「市の交易」の監督をかねていた、という可能性もあるわけである。

 すなわち、「使大倭」と「刺史のごとき者」との関係は、「使持節」と「刺史」との関係に相似点をもっている。この点からも「使大倭」の「使」の用法が「使持節」の「使」の用法と共通しているという理解が裏づけられよう。

 陳寿が「刺史の如き」といっている官職の倭国における官名が「使大倭」だったと言ってよいのではないだろうか。
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