2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(127)



「倭人伝」中の倭語の読み方(70)
官職名(4):「一大率」とは何か(2)


 邪馬壹国以前の倭国については、7年ほど前に『盗まれた神話』を教科書にして、かなり詳しく学習しておいた。この問題については、『「邪馬台国」はなかった』の「朝日文庫版あとがきに代えて」中の一節「一大率の新局面」にはその要点が手際よくまとめられている。ここではそれを用いて要点を再確認しておこう。

〈一〉
 「記紀」に出てくる天国(アマクニ)とは「海人国」である。壱岐・対馬を中心とする対馬海流上の島々を指している。その文献上の論拠は次の二点である。

 「記紀」の神代の巻における「天降る」という動詞は「筑紫・出雲・新羅」の三領域に対してしか用いられていない。しかも「中間経過地」がない。つまり「天降り」の発進地(原域)は、壱岐・対馬を中心とする島々と考えられる。

 『古事記』の「国生み神話」中の「亦の名」として書かれている古名中、右の領域(対馬海流上の島々)のみが、「天の~」という形で表記されている。

〈二〉
 上の「壱岐・対馬」にいた天照大神たちがニニギノミコトを「竺紫(チクシ)の日向(ヒナタ)の高干穂の久士布流多氣(クシフルダケ)」(『古事記』)に派遣した。「天孫降臨」とはその歴史的事件の伝承である。その地は福岡県福岡市と糸島郡との間にそびえる高祖山連峯である。そこには「日向山・日向峠・日向川」があり、「日向」はいずれも「ひなた」と読む。そしてこの連峯の一角(第三峯)に「クシフル峯」が現存し、農民たちの〝日用地名″として残っている。

 以上の『「邪馬台国」はなかった』時点での論考に加えて、後に次のような神社伝承・考古学的な根拠が古田氏によって解明されている。

(一)
 対馬に「阿麻氐留(アマテル)神社」がある(浅茅湾東端部、小舟越)。ここの主神は天照大神の原型と考えられる。「アマテル大神」が出雲の大神の〝従属神″(第一の従属神)であったという伝承が伝えられている。これは「天孫降臨」以前の、「国譲り」の前提をなす形の伝承である。

(二)
 「古事記』に次のような記事がある。

故(かれ)、日子穂穂手見命(ヒコホホデミノミコト)は、高千穂の宮に伍佰捌拾歳(580歳)坐(ま)しき。御陵は即ち其の高干穂の山の西に在り。

 この記事は歴代の王者の墓が、上の「天孫降臨」地の西にあることを述べている。「日子穂穂手見命」は、「天皇」のような、中心権力者の代々の称号であり、それが「580歳」続いたと言っている。これは「二倍年暦」によるものだから、換算すると「290歳」となる。すなわち在位期間を10年/人~20年/人とすると30人~15人くらいの歴代の王者の御陵が高祖山連峯の西、すなわち糸島郡に存在することを物語っている。

 ところが、当の糸島郡には「三種の神器」セットを内蔵する、弥生の王墓が三基出現している。「天照大神系」の王墓である。現在出土した遺物は、実際に存在した「遺物」の5分の1~10分の1にすぎない、と言われている。もしそうだとすると、上の形式の弥生王墓は、全体としては「15~30基」埋蔵されていたと考えることができる。

 以上のような「神話的伝承と考古学的出土事実の一致」によって、「天孫降臨」という神話が単なる「造作」ではなく、歴史的事実であったことが分った。つまり弥生前期末~中期初頭に「天国」が北部九州に「天孫降臨」という侵略を行った歴史的事件があったのだった。これが「九州王朝(倭国)」史の発端である。

 福岡県を中心とする北部九州では、「前末・中初」の境に、それ以前と以後の考古学的出土状況が一変している。先の、糸島郡の三王墓と同類の王墓のほかに
吉武高木遺跡
 (最古の「三種の神器」セット内蔵王墓。福岡市。室見川と日向川の合流地点、近辺)
須玖岡本遺跡
 (中国絹の出土した現在唯一の弥生王墓。春日市)
も、すべて「前末・中初」の一線以後の出土である。これはこれらの遺跡の所在地を含む地域が九州王朝(倭国)の中枢地であったことを物語っている。この一点からだけでも全ての「邪馬台国」比定地は破綻している。

 以上で「一大率」問題を解くための土俵が整った。以下は古田氏の論考をそのまま引用しよう。

 「天孫降臨」の原点、いいかえれば出発点は、〝壱岐・対馬″を中心とする、と考えたのであるけれど、その二島の中のいずれが「天孫降臨」の軍団の所在地か、そのように問えば、壱岐の方がそれであると答えざるをえない、なぜなら対馬の方は全島〝山ばかり″の島であり、人口は少ない。これに対し、壱岐の方は、全島平地多く、人口も多い。倭人伝にも、
 (対海国) 千余戸有り。
 (一大国) 三千許りの家有り。
というごとくである。

 その上、地理的にも九州本土の北岸部に近いのは、壱岐の方であるから、「天孫降臨」の主力は〝壱岐の軍団″であった、という可能性が高い。

 次に、もっとも本質的なテーマがあらわれる。

 「天孫降臨」とは、一個の軍事的侵入譚であった。「葦原の千五百秋の瑞穂の国」(『日本書紀』第一・一書)といわれるように、稲作水田が栄えていた、縄文水田の分布する北部九州への「不法の侵略」であった。

 とすれば、〝一過性の侵入″ですむはずはない。この豊穣の地に対し、「是れ我が子孫(すめみま)の王(きみ)たるべきの地なり」(同右)と称して永続的支配権を主張し、これを現実化しようとすれば、そのためには〝侵略軍″を常駐させることが不可欠となろう。すなわち「天孫降臨の軍」たる壱岐の軍団が常駐し、被支配者たち(先住民の政治的・社会的組織、家族たち)の「反抗」や「独立」の一切の動向を監視し、抑圧せざるをえぬこととなるのである。 ― これが「一大率」のひきいる常駐軍団の任務であったと思われる。

 倭人伝に、
  女王国自り以北には、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。
 とあって、「検察」「畏憚」といった〝異色″の表現がとられている。他の、倭人伝の文面とは、いささかニュアンスを異にしているのである。

 これは、この「一大率」が倭国全体からの「共同撰出」もしくは「共同推戴」であるよりは、〝他からの侵入・支配持続のための軍団のリーダー″である場合、この「検察 ― 畏憚」の用語は一層理解されやすいのではあるまいか。

 以上によって、「一大率」とは「一大国の率」の意であり、その実体は、天孫降臨(以来)の軍団のリーダー」であることが帰結される。

 古田氏が「一大率」を中国側のよび名とし、〝一つの大きな率(軍団)″という意味に解釈した誤説を提出した経緯には方法上の理由があった。氏は一貫して「『三国志』全体の記載例に従って、倭人伝を読む。」という方法を堅持して「井の中」では考えられない正論を築いてきた。しかし、「一大率」の場合にはこの方法は修正されるべきだったのだ。氏はそれを「その当の国(倭国)の歴史とのかかわりで、その記述を理解するという、本来の歴史的理解の方法」と言っている。そして、氏は次のように結んでいる。

『三世紀の魏使たちが倭地で見たものは、決して「三世紀に生起した倭国」ではなく、長い、始発・征服・継続等の変転をもつ歴史、その帰結としての「三世紀の倭国」だったのであるから。』

 「井の中」では「邪馬壹国」以前の倭国史については五里霧中の状態なのだから、「一大率」をめぐる議論が空転してしまうのは当然のことだった。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1799-e62e981f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック