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《続・「真説古代史」拾遺篇》(126)



「倭人伝」中の倭語の読み方(69)
官職名(3):「一大率」とは何か(1)


 まず、「一大率」が現れる一節を全文読んでみよう。

女王國自(よ)り以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、検察せしむ。諸國之を畏憚(いたん)す。常に伊都國に治す。國中において刺史(しし)の如き有り。王の使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣(いた)らしめ、郡の倭國に使するに及ぶや、皆津に臨みて捜露す。伝送の文書・賜遺(しけん)の物、女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。

 このくだりを読んだとき、「一大国」があるのだから「一大率」は「一大国」と関係があるのだろう、と当然誰もが考えるだろうと思ってきた。だから、古田氏の次の説を読んだときは「?」がいくつもとび出してきた。

 『三国志』には「一大石」「一大虵(じゃ)」「一大統」といった用法が多い。その点からすると、この「一大率」も、〝一つの大きな率(軍団)″という意味であろう。すなわち、中国側のよび名であって、日本側のそれではない。

 しかし、この説は後日次のように訂正された。

 「率」には直接“軍団”の意味はなかった。のちに『邪馬一国への道標』(角川文庫)中の「一大率の探究 ― 『宋書』をめぐって」でのべたように、「門衛を主(つかさど)る」職務だ。

太子左衛率、七人。太子右衛率、二人。秦の時は直(ただ)に衛率と云う。漢、之に因る。門衛を主る。晋の初(226)、中衛率と曰(い)う。泰始(265~274)分れて左右と為し、各(おのおの)、一軍を領す。(下略)  『宋書』(百官志、下)

 右で「七人」「二人」とあるように、「率」それ自身は、個人だ。もちろん、右の末尾に「各、一軍を領す」とあるから、その「個人」は「軍団」を支配している。しかし、本来は「個人」を指している。

 このように考えてみると、先の「~石」や「~虵」「~統」とは、用法が異なっている。〝ひとつの大きな「個人」″では、言葉の態をなしていないのである。

 このように分析してきて、わたしは慄然とする。これからのべようとする〝新しい分析″、それは右の「率」問題を厳密につきつめていたら、もっと早く到達していなければならぬものだったからである。

 今ふりかえって見れば、この問題には、大きな一つの「盲点」があった。それは、この「一大率」記事の直前に、「一大国」の記事があったことである。逆にいえば、倭人伝内では、まず「一大国」記事が出ていて、それに次いで「一大率」の記事が出てくるのであるから、これをもって、
 「一大国の率」
とみなすこと、きわめたる凡庸の理解、いいかえれば、文章理解上の常道というべきものなのであった。

 これなら全面的に納得できる。

 では「一大率」とはどういう役職であり、女王国においてどのような位置を占めていたのだろうか。古田説を検討する前に、まずは「井の中」での議論を見てみよう。

 「井の中」では「一大国」は「一支国」の誤りという原文改定がほとんど定説になっている。だから、「一大率」を「一大国の率」と考える説が出てくるはずがない。「一大率」の字句的意味の考察はたぶん行われていないだろう。

(『評釈魏志倭人伝』を読んでいたら『ゼミナール日本古代史』という本の存在を知った。その中に直木孝次郎氏による「一大率 - 研究史の概観」という論文があった。水野氏の記述はこの直木論文に準拠したもののようだ。直木論文を用いることにする。)

 「井の中」で問題になっている中心的論点はもっぱら、「一大率」を派遣した主体はどこか(誰か)、という問題である。三つの説が論争を続けていて、未だに決着がついていないようだ。その三つの説は
(1)
 邪馬壹国から派遣された官とする説(私の知っている範囲では、「井の中」で「邪馬壹国」を用いているのは水野氏だけであり、他は「邪馬臺国」を用いている。直接の引用文以外では、正しい表記である「邪馬壹国」を用いることにする)。
(2)
 派遣の主体は大倭であるとする説
(3)
 帯方郡から派遣されたとする説。

(2)説は「大倭」問題で「使」の一文字を改訂して「大倭=大和朝廷」とした論者の説であり、すでに破綻している説である。検討の対象から外そう。

 (3)説を提出したのは松本清張氏(『古代史疑』1968年刊)だという。直木氏はその説を次のように紹介している。

 説の詳細は、松本氏の次の論文をみていただきたいが、通説に従って問題の部分を読むと、まえにふれたように「大倭をして之を監せしむ」と一度文が切れ、「女王国より以北、特に一大率を置く」となり、だれが一大率を伊都国に置いたのか、主格の不明確な文章となる。この主格が省略されていることが、松本氏の論の出発点である。

 では省略された主格はなにか。「魏=帝方郡」であるというのが松本氏の解答で、

『私は「一大率」は、魏の命令をうけ帯方郡より派遣されてきた女王国以北の軍政官と考える。(中略)「倭人伝」に述べられた「一大率」の権威からみて、それは大使をかねた軍政官に近い地位にあったと思う。』

と、前掲書のなかに記しておられる。

(中略)

 論争はまだ継続中で、その後松本説に賛成する意見も出ており、早急な結論を下すことはできないが、九州北部とはいえ日本国内に中国の施政官が駐留していたかどうかは、日本および東アジアの政治・外交上に重要な関係をもつ問題である。新説を提起した松本氏の主張を、改めて承ることとしたい。

 松本説の論旨の出発点である「主格の不明確な文章」という原文の読み方を私(たち)はすでに批判済みである。くりかえすと、「一大率」も「使大倭」の場合と同様、倭国の産物・風俗等を述べている一節の中に入っている文であり、「一大率」の派遣者も邪馬壹国以外ではあり得ない。ただ、(3)説をめぐる論争では「於国中有如刺史」の解釈が一つのポイントになっているようだ。この問題も古田説を検討することによって明らかになるだろう。

 以上により、「一大率」の派遣者を邪馬壹国とする(1)説がもっとも妥当な説ということになる。「井に中」の(1)説の中身を見てみよう。

 (1)説の最も早い例は菅政友の「漢籍倭人考」(1892年)だという。次のように述べている。
「女王国ニテ一大率ヲ置キシハ、那津近クニテ、後ニ太宰府ト称シシ地ナラン」

 「常に伊都國に治す」を全く無視している、と思ったが、まったく考慮していないわけではないようだ。直木氏は、「(菅氏は)伊都は怡土郡の地であることを認めながら」上のような見解を述べている、と指摘している。菅氏が「那津」を持ち出しているのは「漢の倭の奴の王」が念頭にあるのだろう。また、後世の太宰府と関連づける点はヤマト王権一元主義にとらわれている証左だ。このように誤った先入観に引きずられておかしな理路を引いてしまうのも「井の中」ではよくあることだ。

 「太宰帥」の「帥」の音が「率」の音と同音であることが、菅氏が太宰府と関連づけたもう一つの理由であるらしい。一大率を大宰帥の前身とする考えをはっきりと打ち出した一人が喜田貞吉氏である。論文「漢籍に見えたる倭人伝の記事」(1917年)で次のように述べているという。

「ここに一大率とは紀に筑紫率、筑紫大宰などあると同じく、実に後の太宰府の先蹤なり。太宰府の長官を帥と書し、古訓ソツと読ましむ。蓋し此の一大率の称を継げるものにして、筑紫に於ける大率の義なるべし。(中略) 一大率は言ふまでもなく大和朝廷の派遣の都督なり」

 喜田氏は邪馬壹国九州論者であるが、「一大率」を大和朝廷の派遣官としている。しかし、このような説を退ける学者もいた。那珂通世は『外交繹史(えきし)』(1915年)で次のように批判している。

「又或人ノ説ニ女王卑弥呼ヲバ筑紫ノ偽王ト認メナガラ、コノ一大率ヲバ皇朝ノ宰ト見テ、後世ノ大宰帥ノ起原ナリト云ヘルハ、前後ノ文ヲ通観セザル勝手ナル解釈ナリ。」

 この喜田説が大勢になったようである。直木氏は「戦前九州論者で、積極的に喜田説を支持する人はなかったようである。」とまとめている。続いて、戦後の「一大率」問題に対する主とした論調を次のように指摘している。

「戦後も九州論者では邪馬臺国の派遣官とする見解が主流を占めるが、主たる関心はそれが九州邪馬臺から遣わされたか、畿内大和朝廷からかという問題からははずれ、伊都国や対馬・一大の諸国に存在する爾支(にき)・卑奴母離(ひなもり)などの官との関係が検討されるようになる。」

 具体的には次のような諸説がある。

坂本太郎説(1954年)
 伊都国の官は伊都国に固有の官で、一大率はその上に派遣された。
井上光貞説(1966年)
 一大率は卑奴母離を通じて対馬から奴にいたる北九州沿岸諸国(ただし未廬をのぞく)を統括していた。
牧健二説(1968年)
 「労作『日本の原始国家』(有斐閣、1968年)のなかでこの問題をくわしく論じられた。」とある。主に植村説への批判のようだ。直木氏は次のようにまとめている。
(1)倭人伝の原文の変更の危険性、
(2)邪馬臺国は両属関係の主体ではなかったということ及び両属関係の存在についての疑問、
(3)『魏志』東夷伝倭人の条の「大倭」を大和国家と見ることが誤っていること、
の三項に分けて、植村説をくわしく批判しておられる。

 (2)説の各論もこれといった決定的な説がなく、未だに決着がついていないようだ。邪馬壹国以前の倭国に対する明確なイメージ(理解)を欠いていることがその原因だと思う。例えば岩波講座「日本歴史1 原始および古代1」で邪馬壹国以前の倭国を担当しているのは山尾幸久氏(論文「政治権力の発生」)だが、中国史料だけで論考しているので、次のようなイメージしか出せない。(しかも、山尾氏は「邪馬台国」近畿説という誤説を採用している。)

『前一世紀中葉ごろの北部九州の多数の「国」、一世紀半ばの那珂郡の「奴国王」、二世紀初頭の北部九州の「倭国」とその王、三世紀中ごろ、「親魏倭王」が都する畿内の「邪馬台国」など、中国史料に現われた倭人の「国」のいくつかの種類を概観してきた。』

 漢籍から得られる情報だけでは邪馬壹国以前の倭国についてはこの程度のことしか分らない。我が国の貴重な史料である「記紀」の記事(崇神以前の神話・欠史九代)を「造作」として無視しているための悲喜劇だ。「一大率」の正しい解釈には「国譲り(天下り)」神話が欠かせない。これも古田説の検討により明らかになるだろう。
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この記事へのコメント
21国に関する面白い発見
21国問題で面白い事を見つけました。
神功皇后の崩御年は己丑269年で、2運120年ずれれば389年頃。(なお、これは神功皇后のモデルと考えられる高良玉垂命の崩御の390年とほぼ一致します)
ここから神功・仲哀・成務・景行・垂仁の宝年と在位年を2倍年歴と見て逆算すると(奇数があるので幅を持つ)、古田氏が銅鐸圏の滅亡と位置づける沙本毘古攻略譚のある垂仁5年は244~247年頃になります。
「古事記の垂仁記における沙本毘古・沙本毘売攻略譚は、これを『大和のサホ』ではなく、『摂津のサホ』(大阪府茨木市)と見なすとき、銅鐸圏の一大中心たる東奈良遺跡と一致する。銅鐸圏(文明)の滅亡譚である」(古田氏)
そして、『魏志倭人伝』に「狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く」とある正始8年も247年にあたります。
これが偶然でなければ狗奴國=銅鐸圏となり、Authorの21国を銅矛圏全体とする証明になるのですが・・・仮説の積み上げで、信頼性はどうかと思いますが、面白い結果だったのでお知らせします。


2012/10/29(月) 17:39 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
初めまして、いろいろ知らないことまた、改めて見直したり、考えなおしたり、思い直したりふりかえらさせてもらいました。

これからも時々寄せてもらいます。
2012/11/07(水) 06:11 | URL | 竹林乃方丈庵 #LkZag.iM[ 編集]
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