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《続・「真説古代史」拾遺篇》(125)



「倭人伝」中の倭語の読み方(68)
官職名(2):「大倭」とは何か(2)


(以下は『「邪馬台国」はなかった』を教科書にしています。)

 まず「大倭」について。
 『三国志』では魏・呉は自らを「大魏」「大呉」と誇称している。国名の先頭に「大」を付けて誇称する風習は、中国だけではない。日本や朝鮮でもこれを真似ている。『日本書紀』では「大日本」とう表記を用いているし、唐は「大唐」である。今テレビで「太祖王建(テジョワンゴン)」という後三国時代のドラマを楽しんでいるが、百済は「大百濟(テペクチェ)」と名乗り、旗印にもこの誇称を高く掲げている(たぶん文献的根拠のあるの史実だと思う)。またこれは古代に限ったことでもない。日本はかつて「大日本帝国」を名乗り、韓国の正式名称は「大韓民国」である。倭が自らを「大倭」と誇称していたと考えてよいであろう。

 その立場から「使大倭監之」の読下し文「大倭をしてこれを監せしむ」を考えると困ったことが出てくる。使役の助動詞「使」は普通は「使役」の主体として主語を伴う。古田氏が『三国志』から引用している文を転載すると次のようである。

武帝使張賽行西域。
(武帝、張賽をして西域に行かしむ)


 文面に主語が明記されていない場合でも当然その主体が想定されているはずだ。

 それでは「「大倭をしてこれを監せしむ」の主体は何か。「倭人伝」の中では「大倭」を使役する主体として考えられるのは魏の天子しかあり得ない。そこで山田孝雄氏は「使役の主体は魏の天子」という説を立てている。この説は、使役の主体を大和朝廷とする説とは異なり、一見もっともな説に見える。しかし、古田氏は次のようにこの説も退けている。

 しかし、このとり方は文法上無理だ。なぜなら、ここの一節は倭国の産物・風俗等をのべるところであって、「隠された主語」を求めるとすれば、当の「大倭」である卑弥呼の朝廷しかありえない。たとえば、この文の直前の

其犯法、軽者没其妻子、重者没其門戸及宗族。
(其の、法を犯すに、軽き者は其の妻子を没し、重き者は其の門戸及び宗族を没す。)


の場合も、「没す」という語の「隠された主語」は、当然、司法権をにぎっている卑弥呼の朝廷すなわち「大倭」なのである。それなのに、問題のここだけ、「隠された主語」として、「魏」を突如もち出すことは、文脈上どうしても無理だ。

 このように、「大倭」を使役しうるかに見えた唯一の候補者である「魏」も、その任にたえないとなったら、もうどうしようもない。

 「井の中」が「とんち教室」のような状況に陥っている理由の一つがここにある。「使」を使役の助動詞とするとにっちもさっちも行かなくなるのだった。古田氏も「使」を使役の助動詞とする訓みを退けるが、もちろん「とんち教室」のような原文改訂は行わない。これまでと同様、『三国志』全体の中での「使」の用法を探るという手法を用いている。

 「倭人伝」には次の一文がある。

其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人…

 ここの「使」は使役の助動詞ではない。次のように訓むほかない。

其の四年、倭王また使大夫伊聲耆(イセイキ)・掖邪狗(エキヤコ)等八人を遣わし、…

 つまり、ここでの「使」は「使大夫」という役職名に使われているとしか解釈できない。「使大倭監之」の「使」も使役の助動詞ではなく、「使大倭」という役職名なのではないだろうか。この解釈が妥当であることを、つまり
『三国時代の魏において「使 - 」という形の官名・称呼が成立していたこと』
を、古田氏は『三国志』全体を克明に調べて論証している。その論証には勉強になる事がたくさん含まれているが、かなり長い。その論証の紹介は割愛して、結論部分を引用しよう。

 縷々のべてきたこの高句麗伝の官名はわたしたちの倭人伝研究に対し、なにを示唆するであろうか。いうまでもなく、問題の一句「使大倭監之」の読み方を教えるものである。すなわち、それは、「使大倭、之を監す」と読んで、「使大倭」の三字全体が一つの官名をあらわしているのである。つまり、

(一)
 卑弥呼の朝廷は、みずから「大倭(たいゐ)」と称していた。これは「大魏」「大呉」といった中国の称呼にならったものと思われる。
(二)
 女王国に統属していた国々に対し、邪馬壹国から「使大倭」という官が派遣された。かれらは租賦や同国の市の交易を監督した。

 この二点が知られるのである。

 続いて古田氏は、上の結論の正当性を補強する論証として、「使大夫」と「一大率・刺史」の二点を取り上げている。このうち第二点の「一大率」についての解釈に誤りがあり、「朝日文庫版あとがきに代えて」で訂正が行われている。そこで、第二点についてはその訂正点を盛り込みながら、項を改めて取り上げることにする。第一点はそのまま全文引用しよう。

 「大夫」については、倭人伝中に、

古より以来、其の使中国に詣るに、皆自ら大夫と称す。

とある。魏晋ではすでに「大夫」は県邑の長や土豪の俗称と化していた。

県邑の長、宰と曰ひ、尹(いん)と曰ひ、公と曰ひ、大夫と曰ふ。
 〔注〕晋、之を大夫と謂ひ、魯衛、之を宰と謂ひ、楚、之を公尹と謂ふ。〈通典、職官典、県令〉


 ところが、倭国の奉献使は自ら「大夫」と名のった。これは下落俗化した魏晋の用法でなく、「卿・大夫・士」という、夏・殷・周の正しい古制そのままの用法であった。そのことを陳寿は、倭人の礼儀正しい証拠の一つとして、例の「鯨面文身」の項の中に挿入している。つまり、三世紀現在でいえば、この「大夫」は中国側の魏の官制とは異なり、倭国内の官制における独特の用語となっていたのである。

 ところが、この「大夫」の称呼は、倭人伝中において微妙な変化を見せている。

(1)
 景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遺はして郡に詣らしむ。
(2)
 (正始)其の四年、倭王、復た使大夫伊声耆、掖邪狗等八人を通はし、……。
(3)
 壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣はし、政等を送りて還り、因りて臺に詣り……。


 つまり、「大夫→使大夫→倭の大夫」というように称号が変化しているのである。ことに第二番目の正始四年のとき「使大夫」という称号があらわれている。倭国の使者だから、「使」の字をつけただけだろう、として、これを軽視することはゆるされない。なぜなら、第一回のときは「使」字がないからである。

 これは魏の「使持節」といった「使」の用法にふれ、これにならって、この「使大夫」という表記があらわれた、と見るべきである。朝鮮半島の国々の官名が影響を与えた、ということもありえよう。

 それでは、第三回目はどうしてこの「使」がふたたび消えたのだろう。その理由はハッキリしている。掖邪狗等は前回(正始4年)率善中郎将の印綬を魏の天子からもらっている。つまり、魏の天子直属の官名をもつこととなったのである。

(正始四年)掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す。

 したがって、壹与の貢献のときには、魏の天子直属の臣下としての肩書をもっていたわけである。だから、壹与から魏の天子にむけられた「使」とするのは不適切なわけである。天子の臣下が天子への「使」となる、というのは一種の所属矛盾であるから。

 したがって、第三回目の場合は、倭国側の官名たる「倭の大夫」と中国側の官名たる「率善中郎将」という名号とが並記されて掖邪狗の肩書をなすこととなったのである。

 このように考えてみると、右の称号の三変化は、まさに的確に各時点の称号を反映していたこととなる。 ― すなわち「使~」という官名が倭国に発生していたことを証明しているのである。

 「井に中」では全く考えられない堅実な論証である。
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2012/10/27(土) 09:20:43 | まっとめBLOG速報