2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(123)



「倭人伝」中の倭語の読み方(66)
「21国」の比定:女王国統属下の国々(その五)


 図書館で「青銅祭器相互の年代関係」を知るための資料を物色して、次の二冊を教科書に選んだ。
(a)
松本武彦著『日本列島の戦争と初期国家形成』(2007年1月24日刊)
(b)
国立歴史民俗博物館編『弥生時代はどう変わるか:炭素14年代と新しい古代像を求めて』(2007年3月刊)

まず、(b)から炭素14測定法を用いた弥生時代の実年代表を転載しておこう。
炭素14測定法による弥生実年代

 (a)は、この実年代に準じた年代区分に従って議論を進めている。次のようである。
弥生時代早期~前期前半(BD10th~BD6th頃?)
弥生時代前期後半~中期(BD6th?~BD1th)
弥生時代後期~末期(AD1th~AD3th前半)

 また、(a)は巻末に48ページにわたって引用・参考文献を掲げている。これまでの考古学の成果にまんべんなく目配りをしていることが窺われる。将来部分的修正をする必要が起こる事項があるかも知れないが、全体として信頼できる論考だと思う。以下、(a)を用いて青銅器の変遷を調べていく。

弥生時代早期~前期前半(BD10th~BD6th頃?)

 この時代は中国では西周の時代で、青銅は酒器や食器など実用的なものに利用されていたようだ。日本列島にはまだ青銅器は現れていない。武器としては弓・石器・石鏃などが用いられていた。

弥生時代前期後半~中期(BD6th?~BD1th)

 朝鮮半島から青銅製の短剣や矛・戈(これら柄の長い武器を考古学では「長兵」というらしい)が北九州に伝播され、まもなく生産が始まるとされている。しかし、実用の武器としてはもっぱら石製武器が用いられていた。青銅製武器の分布は、もちろん、北部九州に圧倒的に多い。人骨に刺さったもの・折れたもの・研ぎ直したものなどがあることから、少なくとも北部九州では武器として実用されていたようだ。

 中期後半になると各地域で独自の形態の青銅製武器が作られるようになり、それぞれの分布区域が形成される。次のような具体例が挙げられている。前回の分布図(5)と対比してみよう。

「北部九州を中心とする中細形銅剣・銅矛・銅戈、山陰の中細形C類銅剣」→②'
「中部瀬戸内の平形銅剣、東部瀬戸内の東瀬戸内型平形銅剣」→②。古田氏が「A東圏」と呼んでいる区域である。
「近畿の近畿型銅戈」→④'

 これらの青銅製武器について、(a)は次のように解説している。

「ただし、中期後半以降の青銅器は、全体の肥大化と重量増加、刃部の鈍化、着柄部や把部の非機能化が顕著で、すでに実用からはかけ離れた祭祀具として特化が進んだものとみなければならない。」

弥生時代後期~末期(AD1th~AD3th前半)

 鉄製の武器が普及し始めて、石製武器はしだいに減ってくる。これも北部九州が先行する。この時期、青銅製武器はどうなっていっただろうか。(a)から引用する。

 北部九州の銅矛と銅戈はすでに中期後半に実用性を失って祭器として特化していたが、後期に入るとますます肥大化するいっぽう、分布域を広げる。

 その他の地方の青銅製武器についてみてみると、山陰や中部瀬戸内・東部瀬戸内にそれぞれ分布していた銅剣や近畿の銅戈は、後期に入ると衰退する。そしてこれ以後、山陰や瀬戸内では青銅製の祭器自体があまりみられなくなり、近畿や東海では、武器形の青銅器ではなく銅鐸が大型化し、後期後半にかけて盛期を迎える。すなわち、武器形の青銅製祭器については、後期に入ると北部九州を核として分布する銅矛(中広形銅矛→広形銅矛)と銅戈(中広形銅戈→広形銅戈)とに一元化されるという状況が認められる。

 上の引用文中の赤字部分が分布表(5)の③④に当る。古田氏が「A西圏」と呼んでいる区域である。

 さて、以上調べたことが正しいとすると、古田氏の「今や東・西二圏に分裂し、それそれ別個の祭祀圏として対立していたのである。」という主張は成り立たない。②「A東圏」は中期後半(BD2th~BD1th頃か?)の分布状況であり、③④「A西圏」は後期(AD1th~AD2th頃か?)の分布状況である。時代が全く異なる。中期後半(BD2th~BD1th頃か?)では②「A東圏」は②'圏内の異端地域ということになるので、もしも祭祀器の違いによって「対立」があったとしたら、この時期である。上の文によると、後期(AD1th~AD2th頃か?)は③④「A西圏」の祭祀器が銅鉾圏内に一元化(浸透)していく時期だったと考えられる。このことを述べている文をもう一つ引用しよう。

 銅鐸と銅矛・銅戈の分布をみると、後期後半の段階では、前者は近畿中央部と東海を中心に紀伊や南国国東半に広がり、後者のうちより広い範囲に分布する鋼矛は、北部九州を核として南四国西半から対馬・朝鮮半島南部にまで及ぶ。両者とも遠隔地に送達され、東西方向に長大な分布域をもつようになる点で共通する。また、双方とも、その範囲のうち比較的端のほうに分布が集中する傾向があることも同様で、互いに共伴しない。

 いっぽう、中期後葉にそれぞれ成立して分布域を形成していた山陰の中細形C類銅剣、瀬戸内の平形銅剣および東瀬戸内型平形銅剣、大阪湾沿岸の近畿型銅戈は、いずれも後期には残らない。おそらく、中期と後期との間にみられる祭祀の断種を示す一現象として、途絶したのであろう。

 前半部分の文章は古冢期(弥生時代)を前期・中期・後期というように区分せずに全体を俯瞰する青銅器分布図として分布図(3)は、原田大六氏の「虚構」という論難に反して、有効であることを語っている。また、後半部分の文章は「東は毛人を征すること五十五国」を裏付けていると読めないだろうか。

 以上で〈論点一〉~〈論点四〉の検討を終えた。その全てが「女王国統属下の国々」が銅鉾圏全体に広がっていたことを示している。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1794-7c96dc43
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック