2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(122)



「倭人伝」中の倭語の読み方(65)
「21国」の比定:女王国統属下の国々(その四)


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〔付記〕
 購入したまま手付かずだった『倭人伝を徹底して読む』を〈論点一〉を検討するための教科書として拾い読みしていたら、前々回(「女王国統属下の国々(その二)」)で検討した「倭地…周施五千余里」問題を古田氏が論じているのを知った。古田説も「12000-7000=5000」(総里程-〈帯方郡治~狗邪韓国〉)、つまり「「狗邪韓国~不弥国」の里程数としている。
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 今回のテーマ〈論点一〉を全文再録する。
〈論点一〉

 古田氏によれば、弥生中期(紀元前1世紀~後1世紀)では青銅器分布は大きくA:武器型祭祀圏(私は銅鐸圏と呼んできた)とB:銅鐸圏の二つに分けられる。

A圏:細矛・細戈・細剣圏(淡路島以西)
B圏:銅鐸圏域

  二世紀以降、A圏はさらに二つに分かれる。つまり三つの圏域になる。次のようである。

A西:中広・広矛と中広・広戈圏(北・中部九州)
A東:平剣圏(瀬戸内海)
B:銅鐸圏域

そして、A圏は
「今や東・西二圏に分裂し、それそれ別個の祭祀圏として対立していたのである。」
と述べている。

 この古田説によれば、A西圏が「邪馬壹国傘下の国」である、というのが「愛読者」さんの指摘するところである。

 さて、上の古田説の論拠は古冢期の青銅器の分布状況である。青銅器分布図はいくつもあって、そのどれが正しいのか、その正しい分布図をどう解釈するのか、なかなか決めがたく悩ましくも難しい問題である。いままで私が目にしてきた分布図を全て掲載してみよう。

 (1)は私が「銅鐸文化圏の中枢(都)はどこか。」「『神武東侵』:日下の戦いで惨敗する。」で用いたもので、(2)は今回新たに見いだしたもの。(3)(4)(5)(6)は古田氏が諸著書で用いているもので掲載著書名とその初版出版年を付記した。

(1)
青銅器分布
(第一学習社「新選日本史図表」1985)

(2)
青銅器分布図2
(山川出版社「日本史総合図録」1985)

(3)
青銅器分布3
(俾弥呼より転載)
『失われた九州王朝』1973
『盗まれた神話』1975
『邪馬壹国の論理』1975
『俾弥呼』2011


(4)
青銅器分布4
(『倭人伝を徹底して読む』より転載)
『盗まれた神話』1975
『倭人伝を徹底して読む』1987


(5)
青銅器分布図4
(②'の「中畑」は「中細」の誤り)
『盗まれた神話』1975


(6)
青銅器分布図6
(「日本の古代史界に問う1」から転載しました。(5)から②'を除いたものだから(5)と同じと考えてよいだろう。)
『古代史の宝庫』1977


さて、これまで私はこれらの分布図について次のように考えていた。(4)は細形銅剣(祭器ではなく武器として使われたと私は考えている)だけにしぼった特別な図なので置くとして、一般的には(1)(3)が原型で、その後の遺跡・遺物の発掘成果の進展により、より詳しい(2)(5)(6)ように修正された、と。しかし、出版年を調べると必ずしもそうとは言えないようだ。また、(1)をよく見ると、これを利用したときには気にも留めていなかったが、平形銅剣圏が記入されている。しかしそれは(2)(5)(6)の平形銅剣圏とはずいぶん違う。どちらを信用したらよいのか、私には判断できない。さし当たっては一般に流布しているらしい(2)(5)(6)を採ることにしよう。

 (2)(5)(6)の原典はその注記にある『古代史発掘⑤』のようなので、それを図書館から借りてきた。初版出版年は1974年だった。この年にはもう(2)(5)(6)のような詳しい分布図が完成していたのだった。『古代史発掘⑤』によると、(3)→(2)(5)(6)の変遷は新しい発掘遺物の増加による修正ではなく、既存の発掘遺物群の解釈進展による修正のようだ。そのおおよその経緯は次のようである。

 まず小林行雄氏が銅成分の分析結果を論拠に、銅鐸と対比すべきは武器型祭器であるとし、銅鐸と武器型祭器による分布を提唱した。さらに原田大六氏が武器型祭器の中でも墓から出土するものを除外して、埋納遺跡から出土する武器形祭器と銅鐸だけをとりあげ、初めて青銅祭器による分布図を作成したという。それをさらに詳細化していったのが(2)(5)である。原田氏は(3)のような分布図は「虚構」であるとまで言っているそうだ。

 ところで(3)「細形銅剣分布図」はなんだろう。私は細形の銅剣・銅矛・銅戈は武器として用いられたものであり、それらが祭祀器として大型化していったと考えている。しかし細形銅剣は一般兵士が用いる兵器ではなかった。「倭人伝」に次の一節がある。

兵に矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或は鉄鏃、或は骨鏃なり。

 ここに剣はない。剣は「三種の神器」の一つであり、権力のシンボルだった。『倭人伝を徹底して読む』で古田氏は、「魏志」から14例もの「剣」にまつわる文例を引いて、次のように結論している。

「この細形銅剣は、大体貴族や豪族が持つもので、先ほどの「剣履上殿」の例にあるように、剣は天子の信任を得た者だけに許されるものでした。」

 さて、銅剣・銅矛・銅戈が大型化して平形銅剣や広形銅矛・広形銅戈となり、祭器として使われるようになったのは何時頃なのだろうか。私は一番知りたい事柄なのだが、『古代史発掘⑤』からは全く読み取れない。残念なことに「青銅器の分布」の章を次のように締めくくっている。

「 以上、青銅器の分布についての現状を概観した。弥生時代の歴史のなかでの意義づけ、青銅祭器相互の年代関係をはじめとして、論すべき多くの問題を残したままで稿をとじるが、これについては将来に期したい。」

(次回に続く。)
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