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不定期便1724 《続・「真説古代史」拾遺篇》(121)



「倭人伝」中の倭語の読み方(64)
「21国」の比定:女王国統属下の国々(その三)


 既に「「狗奴国」は何処?(2)」で倭王武の上奏文を手掛かりに「九州王朝の領域」を論じているが、重複をいとわず、改めてより詳しく検討してみる。

〈論点二〉

(以下は『失われた九州王朝』『俾弥呼』を教科書にしています。次の上奏文中の赤字は解読上のキーワードを示している。)

封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬(みず)から甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)きを遐(はるか)にす。累葉朝宗して歳に愆(あやま)らず。、下愚なりと雖も、忝なくも先緒を胤(つ)ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙(へ)て、船舫を装治す。(以下略)

 「祖禰」とはどういう意味か。「井の中」では「祖父と父」と解釈している。手元の2冊の漢和辞典を調べてみた。二冊とも「祖禰」はないが、「禰祖(でいそ)」という熟語を載せている。意味は「①父のおたまやと祖父のおたまや。②死んだ父と祖父。③父のおたまやと先祖のおたまや。」となっている。「祖禰」も同じ意味だろう。念のため『諸橋大辞典』を調べたら「祖禰」があった。「祖は先祖の廟、禰は父の廟。」となっていた。「禰祖」の③と同じ意としている。古田氏は「帰して祖禰の廟に至る。」(史記、五帝紀)を引いている。「祖禰」とは必ずしも「廟」を意味するわけではなく、「祖先と父」への敬称として使われている例である。「上奏文中の「祖禰」も「祖先と父」への敬称であり、「はるか遠い祖先から父に至るまで」という意味だ。決して「祖父と父」ではない。

 つぎは「毛人」と「衆夷」。「井の中」ではなんの検証もなしに当然のことであるかのように「毛人=蝦夷・アイヌ」「衆夷=熊襲・隼人など」として臆面もない。『日本書紀』に「毛人」が一例だけある。「敏達紀」10年閏2月条の蝦夷討伐説話の分注に〈魁帥(ひとごのかみ)は、大毛人(おほえみし)なり〉とある。「毛人」の方はこれを根拠にしているのかも知れない。

 次は「畿」。「畿=王城中心に四方五百里」としている。これは『詩経』が出典であり、どの漢和辞典もこの意味を挙げている。この意味には問題はないが、「井の中」ではこの「畿」を近畿大和に比定して恬として恥じない点が問題だ。全ての過ちは、「倭の五王」はヤマト王権の王たちというあの噴飯ものの比定から始まっている。(「畿」については『「大化改新」の真相(11)』、「井の中」での「倭の五王」については『「倭の五王」とはだれか』を参照してください。)

 これらの問題を解くカギが「臣」である。倭王武は自らを「臣」と呼んでいる。「臣・倭王武」にとって「畿」(天子の地)は南朝の帝都・建康(現在の南京)である。全てそこを原点とした上奏文なのだ。その原点から俯瞰すると「毛人」「衆夷」の意味が解ける。「井の中」の愚説に対する批判も含めて、古田氏の解読をそのまま引用しよう。

 これに対する「定説」の立場を分析しよう。倭王の居する近畿大和を畿内(天子の王城を中心として四方五百里以内の地)とし、その中心点から、東なる〝末服の民″を「毛人」、西なる〝未服の民″を「衆夷」とよんだこととなる。この場合、無論倭王とその直属の近畿大和は、「毛人」にも「衆夷」にも属しない、と見られる。

 このように自分の主たる領域を中心として、辺境を夷蛮視する ― これは当然、中国の天子の夷蛮観のミニチュア版だ。「東夷・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)・南蛮」、この慣用句が自分たち(中国人)だけをまっとうな人間とし、その四囲の民を野獣や害虫めいた名で呼ぶ、独特の中華思想に立っていることは有名である。

 日本においても、天皇家がこのような〝中華思想の輸入″を行ない、その日本版を使用したことは確かである。天皇家の公的史書である『古事記』や『日本書紀』に、東国の民を「蝦夷」と呼び、九州の民を「熊襲(くまそ)」と呼んでいるのが、それだ。いずれも天皇家への〝未服従の民″に対して「虫」や「獣」めいた名をあてているのである。しかも東を「東夷」にならって「蝦夷」と書き、西を「熊襲」という「西戎」めいた表現でよんでいる。〝まっとうな人間″は天皇家に早くから服従していた、近畿大和を中心とする民だけだ、という論法である。この視点が倭王武の上表文にもすでに使用されている。 ― 従来はそう考えてきた。果してそうだろうか。

 そう考える上で第一の難点は「西は衆夷」という表現だ。先の慣用句にもあったように、「東夷」というのが中国の伝統的な表現方法だ。近畿大和から見て西方の未服従の民を「夷」をもって表現するのは不可解である。

(なお慎重に論ずれば、西夷という用語自体はたしかに存在する〔「東征西夷怨」(『書経』、仲虺之誥)、「西夷之人」(『孟子』、離婁下)〕。また『宋書』夷蛮伝にも「西南夷」という概念がある。しかし、肝心の宋書「倭国伝」は当然のことながら、「東夷」伝内だ。すなわち、「東夷高句麗国」を先頭に「百済国」「倭国」は東夷に属している。その真只中で、「西」に「夷」を用いた、と見るのはやはり不自然というほかない)。

 第二の難点は「東は毛人」だ。

(1)毛民之国、其の北に在り。人と為り毛を生ず。(山海経、海外東経)
(2毛民、労民(注 其人、体半ば毛を生ず。矢鏃の若し)。(淮南子、墜形訓)


 『山海経(せんがいきょう)』では「海外、東南陬(すみ)より東北陬に至る者」を「海外東経」に属さしめる。「大人国・君子国」にはじまり、「毛民之国・労民国」にいたっている。つまり「毛民」は中国の東方の夷蛮の中でも最僻隅に位置しているのである。したがって「毛」という字は、朝鮮半島より倭国にまたがって「東夷」と名づけられた国々より、さらに一段と〝辺遠″というイメージをもつ。すなわち中国を中心にして、東に「夷」があり、さらにその彼方に「毛」がある、というわけだ。ところが、従来の「定説」では、倭王武はみずからの属する近畿大和の東に「夷」をおかず、(逆に「夷」は西方と呼び)いきなり東の方を「毛」と名づけていることとなる。つまり、中国の本来の「夷」「毛」の用字法、その固有イメージを全く無視して使用していることとなってしまう。これも倭王の無知のせいだ、として解決できるだろうか。しかし、この上表文は堂々たる中国文である。中国の用字・用文に十二分に習熟した文体だ。この明白な事実と右の中国用字法への根本的な無知とは、決定的に矛盾する。

 では、倭王が九州に都している、としたときはどうだろう。この場合、日本列島の西なる「衆」とは、みずからの都を中心として、それをとりまく九州の地の民それ自身をさすこととなる。すなわち、中国の天子を基点として、「東夷」なる、みずからを指していることとなろう。そしてその東夷の地たる九州のさらに東の辺遠(中国から見て)に当る中国地方・四国地方(各、西半部)の民を「毛人」と呼んだこととなろう。つまり、ここでは中国の天子を中心とし、これを原点として東に「夷」、さらに東の辺隅に「毛」、という図式がピッタリとあてはまっているのである(この点、これにならって近畿大和を中心に中国地方・四国・九州全部を「衆夷」と見なそうとしても駄目だ。なぜなら、それでは「毛人五十五国」「海北九十五国」に比して、「衆夷六十六国」の国の数があまりに少なすぎるのである)。

 以上のように、九州を倭の五王の都の地としたとき、その用字法は中国の慣例的用字法そのままであり、中国文の正規の用法と見事に相応しているのである。

 さて、「衆夷」と「毛人」の国数の合計は121国である。この121国の領域は次の漢書・後漢書・魏書が記録する百余国と同一である、と古田氏は言う。

楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。(『漢書』地理志)

倭は……凡そ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり。(後漢書、倭伝)

倭人は……旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。〈三国志、魏志倭人伝)

 なお、古田氏は『失われた九州王朝』(1973年刊)では百余国が統合されて三十許国になったと解釈していた。しかし、『俾弥呼』(2011年9月刊)では三十国とは百余国の中の「親魏倭国」という解釈になっている。このことは既に「狗奴国の滅亡(16)」で取り上げている。もちろん私は後者の説を支持する。「三十国に統合された」では、「倭人伝」の時代の国としては、一国の領域が大きすぎる。〈第一グループ〉の「(1)対海国 (2)一大国 (3)末盧国 (4)伊都国 (5)奴国 (6)不弥国」を見れば明らかだろう。ちなみに、「諸夷」「毛人」の領域を最大限にとって九州全体・四国全体・中国地方(播磨までとする)としてその領域内の令制下の国を数えてみたら、なんと、ちょうど30国あった。

九州(11国)
 対馬・壱岐・筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅
四国(4国)
 伊予・土佐・讃岐・阿波
中国(15国)
長門・周防・石見・安芸・出雲・隠岐・伯耆・因幡・但馬・美作・備後・備中・備前・淡路・播磨

 さて、倭王武の上奏文の121国の領域と他の漢籍が記録している百余国の領域が同一なら、「祖禰」の「祖」は遙か漢時代あるいはそれ以前にまで遡ることになる。このことの傍証のつもりで、「「狗奴国」は何処?(2)」では冒頭に年表を掲載しておいたが(下に再掲載した)、このことについてはほとんど説明をしていなかった。この年表の九州王朝の欄の紀元前の部分は全て私の推測に過ぎない。この推測に大きな錯誤はないということが大前提になるので、なんとも頼りないことではあるが、改めて説明をしておきたい。

古代史年表

 史料・金石文などで年代を確認できるものについてはそれを ( )で示した。
年代記載のないものは推定です。


年代 中国 朝鮮 銅矛文化圏
九州王朝
銅鐸文化圏
ヤマト王権
BC4th 戦国時代 青銅器文化始
BC3th 秦(221-206) 鋳造鉄器伝播    
BC2th 前漢(202-)   国ゆずり・天孫降臨「天国→筑前」  
  漢・朝鮮に4郡設置(BC108-107) 錬鉄鍛造品 朝鮮からの渡来者多数  
BC2th   高句麗国成立 橿日宮の女王の筑紫統一「筑前→筑後」  
BC2th-BC1th     前つ君の九州一円統一  
BC1th     「九州→淡路島以西」平定  
BC1TH-AD1th 後漢(25-)   漢から委奴(ゐど)の国王に金印授与される(AD57)  
AD1th-AD2th     倭の国王帥升漢に請見(AD107) イワレヒコ東侵開始
AD3th 三国時代
魏(220-265)
  邪馬壱国卑弥呼・魏に朝貢(240) イワレヒコの末裔AD3th末ごろまでヤマト盆地の一豪族として地歩を固める(216)
  西晋(265-316)
この頃、三国志成る
三韓時代 壱与・西晋に朝貢(266) ミマキイリビコ(崇神)、ヤマト盆地より出撃・銅鐸国簒奪開始
AD3th-AD4th     イクメイリビコ(垂仁)沙本城の戦い・銅鐸国滅亡


 「BC1th」の欄に『「九州→淡路島以西」平定』と書いたが、これは広すぎるかも知れない。ここは瀬戸内海に面した範囲内とし、その他の地域はAD1th~AD3thに入れるのがよいのではないかとも考えている。ともあれ、吉備・讃岐あたりまでは女王国の統属下に入っていたと思う。その根拠はイワレヒコの東侵説話である。イワレヒコは東侵の途中、安芸・吉備にそれぞれ7年・8年(二倍歴なので3~4年)滞在している。戦闘した形跡はない。たぶんヤマトへの侵攻に備えて戦闘訓練をし、兵器・兵糧などの援助を受けるための滞在だった。あるいは兵士の提供も受けていたかも知れない。安芸・吉備はそれほどに親和的な国だった。つまり、すでに女王国統属下の国々だった。

 傍証をもう一つ。


安帝の永初元年、倭の国王帥升(すいしょう)等、生口百六十人を献じ、請見を願う。(後漢書・倭伝)


政等、檄を以て壹与を告喩す。壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還らしむ。因りて臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠(こうしゅ)二枚、異文(いもん)雑錦二十匹を貢す。(魏志倭人伝)


 従来は一般に「生口」を奴隷(捕虜)と解釈してきた。私もそのように理解していた。この解釈に対して、古田氏は②の生口30人が親魏倭国の30国と同じなのは偶然の一致だろうかと問い、次のような新解釈を提出している。

 中国の歴代の史書が〝依拠する″立場がある。それは「中華思想」だ。その要点を左に記してみよう。

第一、中国と周辺の国々「夷蛮」)との関係を「上下関係」で扱う。
第二、したがって「中国と他国との交流」を「献上」と「下賜」の形で記載する。

 ここで①を引用して次のように続けている。

 しかし、この「訓み」は疑問だ。右のような、通例の〝訓み″に従えば、その意味は次のようになろう。

(その一)倭国の王、帥升(すいしょう)自身が漢の都、洛陽へおもむいた。
(その二)そのさい「捕虜、百六十人」を漢の天子、安帝に献上した。

 しかし、この「理解」は疑問だ。なぜなら「捕虜百六十人」を、倭国王がみずからひきいて、漢の都へ向かったのか。もし、そうとすれば、「百六十人」をはるかに上廻る「倭国の軍団」がこれを〝ひきいて″いなければならぬ。けれども、そのような「倭人軍団」の存在は、一切書かれていない。

 これに対し、「生口」の語は「捕虜」を指すだけではない。「牛馬」を指す用法もある。たとえば「人口」という術語も、「捕虜の人数」ではない。「生きた人間の数」だ。(管理人注: 「家口」という熟語もある。「家族」という意味である。)

 同じく、この「生口」も、〝生きた人間の数″を指しているのではあるまいか。すなわち、倭国内の各地の倭人の使者団の〝総数″である。

 この場合、倭国王自身がみずから「洛陽」へ参上する必要はない。使節団160人を洛陽に送り、この「百六十人」に対する、漢の天子の「請見」を求めたこととなろう。この場合はもちろん、「百六十人」以外の、そして以上の「倭軍集団」の存在など不要だ。彼等160人こそ、「倭国の各地からの使節団」なのであるから。

 右のような「解釈」と〝対応″し、これを裏づけているのが、先述の「三国志」の倭人伝冒頭の言葉である。

旧百余国。漢の時朝見する者あり。

 右の「百六十人」が、倭国内の各国からの1名ないし2名の「代表者」であった場合、この「百余国(=130~40国)」の「朝見」と、ほぼ一致する。彼等は、中国の天子、安帝の「請見」を願って、はるばる洛陽へとおもむいたのであるから。

 この倭人伝内で、俾弥呼が大夫難升米等を京都(洛陽)へ送り、「天子に詣りて朝献せんことを求む。」と書かれているのは、この「漢代の故事」に習ったもの。その歴史的背景を、陳寿は倭人伝の冒頭に記したのではあるまいか。

 けれども「統一されていた、漢王朝の時代」とは異なり、いち早く「親魏」の立場を鮮明にした国々は、わずか「三十国」にとどまっていたのであった。

 私には「倭の国王帥升等」の「等」とは何者だろうかという疑問があった。この古田氏の新解釈が正しいのなら(私は正しいと判断した)、「倭の国王帥升等百六十名」が請見を願ったという解釈になる。すると、「倭の国王帥升等」が安帝に請見を願った永初元年(107年)の頃には既に倭国傘下の国は百余国あったことになる。
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