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《続・「真説古代史」拾遺篇》(120)



「倭人伝」中の倭語の読み方(63)
「21国」の比定:女王国統属下の国々(その二)


「倭人伝」中の次の二つの文章(〈論点三〉と〈論点四〉)の再検討から始めよう。

〈論点三〉
女王國の東、海を渡る千余里、復た國あり、皆倭種。又侏儒國あり。其の南に在り。人長三・四尺。女王を去る、四千余里。

 まず、「倭人」「倭国」「倭地」「倭種」などと使われている「倭」の訓みと意味を確認しておこう。訓みは「ワ」のほかに「ヰ」がある。「ワ」が一般的だが「ヰ」と訓む可能性もある。古田氏による読下し文では「わ(ゐ)」と「ゐ」と訓む可能性も示唆している。私は一貫して一般的な訓みに従い「ワ」と訓んでいる。「倭」の意味は「凶奴」に対する「倭奴」の「倭」であり、あくまでも「東南大海の中」の異種族に対する中国側からの命名である。

 さて、「投馬国」の場合と同様、魏使は実際に「侏儒国」に行っていると考えてよいだろう。「人長三・四尺」という記録を残している。途中で寄った国があったとしても、「侏儒国」が目的の航海だった。

 博多から水行1千里(約76㎞)の地は下関辺りとなる。「投馬国(4)」で概算した古代船の速度を用いると1千里の航海時間は20時間~27時間となる。無理をすれば一日で行ける距離だが、一日の航海時間を10時間ぐらいとすると、途中鐘崎港辺りで停泊したかも知れない。いずれにしても下関港か門司港に停泊しただろう(3世紀頃にも港があったとして)。もしかすると下関港に停泊して上陸もしたかも知れない。いずれにしても始めて通過する下関側(九州外)の地には強い関心を持つたことだろう。上陸しなかったとしても随行の倭人にその国のことを質問していると思う。それを「復た國あり、皆倭種」。と記録した。「倭国」と認識している。また「皆」と行っているのだから、その「倭国」は複数とも認識している。もちろん「侏儒国」も「倭国」の一つという認識である。総じて魏使は中国・四国地方にも「倭国」があるという認識を得ていた。

 くだんの記事から私が読み取れるのはこれだけである。この記事からだけでは魏使が新たに知った「倭国」が女王国統属下の国々なのかどうかは判定できない。しかし、もしも「皆倭種」が随行した倭人から得た知識だとすると、女王国統属下の国々だったと考えられる。〈論点1〉での古田氏の文言「別個の祭祀圏として対立していた」が真実なら、倭人がその事を伝えないはずがないと思う。逆に言うと、〈論点一〉の検討を待つべきことながら、私はそのような対立はなかったと考えている。

 ちなみに、「『魏志倭人伝』和訳文(2)」では、次のように、参考にしていた『筑摩古典文学全集・三国志Ⅱ』の文章をそのまま転記している。訂正の必要はないと考える。

「女王国から東に一千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。」

 なお改めて、「侏儒国」への到着地を土佐清水辺りと仮定して、博多から土佐清水までのおおよその航海距離を地図上で糸を用いて測ってみたら約320㎞ぐらいになった。4千里は短里で約300㎞。かなり大雑把な測り方なのに、この結果にちょっと驚いている。ここでも古田氏の「短里説」と「倭人伝」の記述の信憑性が確認できた。

〈論点四〉
倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周施五千余里なる可し。

 私はこの文章中の文言を
「参問」→「倭人への質問」
「周旋」→「ぐるっと一巡りすること」
と解釈して、「烏奴国(その二)」で、次のように書いている。

『私は「倭地」を九州全体と考えていたが、九州の南北の最長部分の直線距離300㎞ぐらいなので「周施五千余里」では小さすぎる。「周施五千余里」は「愛読者」さんの解釈が正しいようだ。しかし、これは「倭地を参問する」に対する答だから魏使が倭人から得た情報である。回答者は「倭地」を「倭国」とは異なる概念ととらえて、「周施五千余里」と答えたのだろう。もしかすると倭人の間では「前つ君」征服譚の遠征範囲が「倭地」だった? 範囲がピッタリ一致している。偶然だろうか。古くから九州王朝に帰属していた地域を「倭地」と呼んでいたのではないだろうか。』

 よく考えてみたら、この説は全面的に訂正しなければならない。

 まず第一に、〈論点三〉の始めに確認したように「倭」は中国側の命名である。陳寿(あるいは魏使)が「倭」の国々の一部領域を「倭地」と呼んだとは考えられない。「倭地」とは素直に「倭国の存在する領域」という意だ。

 次ぎに、私は「海中洲島の上に絶在し、或は絶え或はは連なること」の部分を全くおろそかにしていた。これは魏使が実際に見聞したことを記述したと解釈すべきだろう。そこで、改めて「参問」と「周旋」の意味を検討してみた。(手元の諸橋徹次ほか著『新漢和辞典』を用いている。)

 「参」には「まいる。行く。至る。」という意がある。「問」は「おとずれる」。「参問」とは「(実際に)訪れ行く」という意である。次ぎに「周」と「旋」はともに「めぐる。」という意。あるいは「周」は「したしむ。」とう意を採るのが適切かも知れない。「周旋」は「実際に(親しく)めぐる」という意であり、必ずしも「ぐるっと一巡りする」という意ではない。

 『筑摩古典文学全集・三国志Ⅱ』から転記した文章は次のようになっている。

「いろいろな情報を総合してみると、倭の地は、大海中の孤立した島の洲の上にあって、国々は連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。」

 私なりに書き換えてみよう。

「実際に倭地を訪れた見聞をまとめると、倭地は海中の島の上に点在したり連なったりしている。実際に巡り訪れた倭地の行程距離は五千余里ほどである。」

 九州も島と認識していると思う。では「五千余里」とは何か。魏使の全旅程表は次のようだった。(『「邪馬台国」論争は終わっている。(5)』より再度転載)

 7000里  帯方郡治-狗邪韓国(水・陸行)
 1000里  狗邪韓国一対海国(水行)
  800里  対海国(半周,陸行)
 1000里  対海国-一大国(水行)
  600里  一大国(半周,陸行)
 1000里  一大国-末廬国(水行)
  500里  末廬国-伊都国(陸行)
  100里  伊都国-不弥国(陸行)

計12000里(全里程)
 つまり「五千余里」とは「狗邪韓国~不弥国」の倭地内の里程数なのだった。この一文は魏使による里程記事の総まとめという意味合いの一節である。
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 コメント
この記事へのコメント
 なるほど、5000里は合いますね。周施もそうかもしれませんね。
ただ「魏使は実際に『侏儒国』に行っていると考えてよいだろう」というのと、「実際に巡り訪れた倭地の行程距離は五千余里」との関係はどうでしょう?
「周施」の解釈を活かすなら、女王国以外で魏使が訪れた倭地の計「海を渡る千余里」+「其の南に在り。人長三・四尺。女王を去る、四千余里」=周施五千余里。
というのはどうでしょうか(単なるアイデアですが・・)
 ただ、21国を記述した後に「女王國の東、海を渡る千余里、『また』国あり」なので、そこは21国外でないか?とどうしてもひっかかりますが・・
2012/10/01(月) 16:39 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
調べてみましたが『三国史』に「周旋」は17か所あって、おっしゃるとおり皆「行き巡る」という意味が当てはまりますね。ひとつ解決しました。
あとは「侏儒国」ですね。魏使は①行かなかった②行ったけれど「倭地」と看做さなかった③「侏儒国」うんぬんとは無関係に単純に「萬二千余里」中倭国内の行程距離を書いた。
皇帝に分かりやすく示すという書の目的から、やはりAuthorの③説がおさまりがいいようですね。
2012/10/02(火) 15:07 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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