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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(118)



「倭人伝」中の倭語の読み方(61)
「21国」の比定:(27)支惟国(その二)


 「支惟国」の候補地として上がっている比定地のうち、「吉備国」は私の立場からは除外することになる。その地域には既に「好古都国」「鬼国」「鬼奴国」を比定している。

 「肥前国基肄郡」と「紀伊国」については前回挙げた第一の疑問を検討しなければならない。

 「已百支国」の訓みについて論じたとき、古代では「ワ」と「ハ」ははっきりと違う音として区別されていたことを確認したが、「ヰ」と「イ」もそうだったと考えて間違いないだろう。ウィキペディアから仕入れた知識だけれども、次のようである。

『古代ではヰは[wi]と発音され、イは[i]と発音されて区別されていた。…13世紀なかばに入るとイとヰは統合した。』(「…」には統合に至るまでの経過が文献を用いて詳論されているが省略した。)

 倭人は音を転写するとき厳密な漢字採用をしたのではなく、類音を用いたに過ぎないという論もあるかと思うが、私としては倭人は「ヰ」と「イ」をまったく異なる音として転写すべき漢字を選んでいたと考る。その立場で考えるとどうなるか。

 「支惟」は「キヰ」である。「基肄」はどうか。『諸橋大辞典』によると「肄」の音は「①イ ②シ ③エイ」だから「基肄」は「キイ」「キシ」「キエイ」のいずれかとなるが、いずれにしても「キヰ」ではない。「紀伊」の「伊」は万葉仮名にもなっているが、「イ」の音しかない。やはり「キヰ」ではない。両方とも「支惟国」の比定地にはできない。

 音の上からだけではなく、立地条件からも異議がある。「邪馬壹国」の領域は文献的には不明だが、私は弥生銀座と呼ばれている地域を想定している。南の境界は「朝倉郡」辺りだろう。「基肄郡」は「朝倉郡」の真西10数㎞の位置にある。そこは古田氏が言うように「筑前と筑後をおさえる〝ネック″(頸部)である」。「基肄郡」は邪馬壹国に繰り込まれていたと考えられる。このことが、もしかすると古田氏が「基肄郡」ではなく「紀伊国」を選んだ理由かも知れない。

 その「紀伊国」。私は「邪馬」を「ヤマト」に比定する古田説に賛成したが、その理由の一つはヤマトが九州王朝の分流として「21国」(親魏倭国)の一つである可能性大と考えたからだった。それに対して、私には「紀伊国」が「21国」(親魏倭国)の一つであった可能性を示す根拠が見いだせない。

 それでは「支惟国」は何処なのだろうか。『日本古代地名事典』を調べていたら、「城井」という地名に出会った。この事典は「ヰ」と「イ」を区別せずに、「ヰ」はすべて「イ」と扱っている。だから「城井」の訓みも「キイ」としている。しかし、解説文の中で「ヰ」と「イ」の問題に触れている。

きい[城井]
 『和名抄』豊前国仲津郡に「城井郷」で見え、福岡県京都(みやこ)郡みやこ町木井馬場が遺称地。「紀伊」と同義という説があるが、「きい(紀伊)」と「きゐ(城井)」は別語であり、「きゐ(木井)」の意で、木で囲った井泉の意かと思われる。

 「城」の音は「ジョウ」だけだが、万葉仮名「キ(乙類)」として使われている。「井」の音はセイ(漢音)・ショウ(呉音)だが、「井」も万葉仮名「ヰ」として使われている。

 『日本歴史地名大系』によると「仲津郡」の郡域は「およそ現在の行橋市東部、京都郡の豊津(とよつ)町・犀川(さいがわ)町に相当する」。ウィキペディアの「みやこ市」を調べたら
「2006年3月20日 豊津町・犀川町・勝山町の3町が対等合併し、みやこ町が発足。」
とあった。みやこ市のうち御所ヶ岳と飯岳山を結ぶ線の北側が京都郡(勝山町)の領域であり、その南側全体(豊津町・犀川町)は仲津郡の領域である。「城井」は下の地図の犀川町辺りのようだ。

豊前国の地図

 上の引用文では遺称地は現在の京都郡みやこ町にあると書いてるが、当然のこととはいえ、「城井」の遺称地「木井馬場」も仲津郡内の地名であることがはっきりした。「支惟国」は仲津郡城井郷を含む地域がその領域ということになる。

 では古冢時代の仲津郡はどのような地域だったか。『日本歴史地名大系』の「仲津郡」の項は風土記の地名説話や郡域などの記事だけで遺跡や遺物の記述がない。たぶん「京都郡」の項にまとめて書かれているのだろうと思い「京都郡」を調べた。縄文時代については次のように解説している。

 縄文時代の遺跡は南部の祓川・今川の中流域に数多く分布している。早期では豊津町徳永川(とくなかがわ)ノ上遺跡、犀川町清四郎(せいしろう)遺跡・五反田(ごたんだ)遺跡で押型文上器が発見され、犀川町自在丸(じざいまる)遺跡から押型文土器と前期の轟B式土器が出ている。

 後期から晩期の遺跡は犀川町内の諸遺跡、ほかに甕棺墓が発見された苅田町浄土院(じょうどいん)遺跡、落し穴による狩猟場と考えられる豊津町徳永遺跡がある。河川の自然堤防から後背地にかけて位置する豊津町節丸西遺跡は当地域最大の後期の集落跡であり、勝山町中黒田(なかくろだ)遺跡も後期の集落らしい。

 縄文時代は豊津・犀川が中心だったことが分る。豊津・犀川を貫いて流れ行橋市に河口を持つ祓川(はらいがわ)の源流は英彦山(ひこさん)だという。ずいぶん変わった訓みの山だな、と印象に残ったが、偶然にも今日(9月27日)の東京新聞朝刊に「古来九州一円で信仰 英彦山修験道復活へ」という記事があった。その記事から今のテーマに関連する事項をまとめて、急遽追記することにした。

 英彦山神宮(福岡県添田町)所蔵の「彦山縁起」によると、英彦山は531年に開山したとある。磐井が九州王朝の天子だった頃である(もちろん新聞記事は「井の中」の定説に従って大和朝廷時代と書いている)。さらに、英彦山を30年以上研究しているという添田町教務課文化財係の岩本教之係長さんの次のような談話が掲載されたいる。
「英彦山は修行の場、生活の場、山頂の聖地の全てがそろい、ここだけで信仰を完結できる稀有な山.。信仰が生きている、霊山本来の姿に戻ることは山を守ることにもつながる」
 修験道場として開山したのは6世紀だが、私は縄文時代から、いや石器時代から聖なる山として崇められていたのではないかと推測する。

 さて、古冢時代についてはネットで出会ったPDFファイル(http://miyako-museum.jp/digest/pdf/toyotsu/2-3-3-2.pdf)が詳しいのでそこから転載する。

 弥生時代前期の集落のうち、前葉・中葉の集落は京都平野に入り込んでいた内湾の沿岸部に沿って営まれるものが多い。これは初期の水稲耕作を行う場合、生産地である水田が、形成されつつあった沖積地の湿潤な低湿地に設定されたためと考えられる。辻垣遺跡では前葉の集落が祓川下流の後背湿地に立地するが、水害に対する防御施設として環濠をめぐらしている。

 中葉の葛川遺跡も、同じ内湾の北西部に位置し、低丘陵の先端部に貯蔵穴群を取り囲む環濠をめぐらしている。また、長井遺跡や石並遺跡の場合、この内湾と外海の周防灘とを分ける海岸砂丘上に立地し、水田を開発する適地が少ないことから、この遺跡を残した人々は水稲耕作以外の狩猟・漁労などに従事していたことも想像される。

 前期後葉になると海岸から2~3㎞入った平野の奥でも集落が営まれるようになる。しかも、急激にその数が増加するとともに、下稗田遺跡のような大規模な拠点集落が形成されるようになる。この時期にはやくも、犀川町タカダ遺跡のように河川の中流域でも小規模な集落が営まれるが、技術的にまだ耕作地として開発しにくい土地であることから、水稲耕作に伴うものか疑問が残る。

 集落の増加傾向は中期前葉まで続き、新たな水田開発を目指して、拠点集落から分かれた分村が各地に営まれる。分村型の集落は豊津町金築遺跡、築城町広末・安永遺跡、大平村土佐井ミソンデ遺跡のように、比較的短期間で姿を消すものが多く、中葉まで続いた集落も後葉には途絶えてしまう。下稗田遺跡が示すとおり、京築地域の弥生時代を通じて集落が最も減少するのが中期後葉である。この時期は住居跡の形態や集落の構成の面からも過渡的な時期となっており、築城町安武・深田遺跡や新吉富村尻高畑田遺跡などで、住居跡が調査されている。

 前期後葉から中期中葉にかけての集落の立地は、一部沖積平野内の微高地に位置するものがあるが、多くは水田に近接する縁辺部の標高30~40m前後の低丘陵上に営まれる。

 後期になると、苅田町谷遺跡や苅田町木ノ坪遺跡・築城町十双遺跡のように、平野の奥の舌状台地や沖積地などの標高10~20m前後の低地に、新しい集落が営まれるようになる。一方では下稗田遺跡・竹並遺跡のように、前期から中期にかけて使用していた丘陵上に再び集落を営む場合もある。この時期は一般的に集落の規模が大きくなる。また、大平村穴ケ葉山遺跡の墓地に副葬された豊富な鉄製品が物語るように、石斧や石庖丁などの主要な石製の道具が、鉄製品に交替する時期でもある。その結果として、中期の段階にはできなかった土地を新たに水田として開発することが可能になっていったと想像される。そのことを裏付けるのが、前者にみられるような低地に出現した大規模集落ではないかと考えられる。

 城井郷の遺跡と考えられるのは犀川町タカダ遺跡だけのようだ。この遺跡について「水稲耕作に伴うものか疑問が残る」と解説している。また、「水田を開発する適地が少ないことから、この遺跡を残した人々は水稲耕作以外の狩猟・漁労などに従事していたことも想像される」とあるように城井郷は狩猟・林業・畑作などを主とした集落だったのかも知れない。これに関連して、「角川 日本地名大辞典」の「城井郷」の項に次のようなくだりがある。

『城井郷は祓川流域の山間部に比定されるが、祓川上流の山あいに開けた地域は「浦」をもって呼ばれていた。浦は裏(山裏)である。公順処分状には、城井浦・幡野浦・横瀬浦の名が見え、このうち城井浦がもっとも上流にあって,南を高座に接している。城井浦は,もと豊前国追捕使早部安恒の私領であったが、その山は宇佐宮の33か年一度の式年造営および6年一度の御装束御輿料の杣山となっていた。』

 杣山記事は平安時代の事ではあるが、城井郷は古くから良質の木材を産していたのだろう。ともかく城井郷には古冢期には際立った遺跡はないようだ。ただ、『日本歴史地名大系』の「仲津郡」項には次ぎのような注目すべき記述がある。

『豊前国府の所在地は「和名抄」に「国府、在京都郡」と記されるが、国分寺は仲津郡域にあたる現豊津町国分(こくぶ)にあり、近年発掘調査により国府と推定される遺跡が近くの惣社(そうじゃ)で確認されており、同遺跡では「急急如律令」と記された呪符木簡(木簡研究八)も発見されている。』

 仲津郡豊津は令制期には国府が置かれるほど土地柄だった。

 以上より、古冢期の遺跡・遺物に乏しいが、古田氏が「伊邪国」を徳島県の「祖谷(イヤ)」に比定したとき次のように述べていた。
『三世紀という時代、その「弥生時代」に新たにつけられた地名より、はるかに「長い歴史をもつ地名」、それは「山の地名」だったのである』。
 これと同じ立場を取ろう。私は「支惟国」を仲津郡に比定する。「支惟国」の中心地は豊津であったが、縄文時代には最も繁栄をしていた上、靈山(英彦山)に最も近い「キヰ(城井)」を国名とした。
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