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《続・「真説古代史」拾遺篇》(117)



「倭人伝」中の倭語の読み方(60)
「21国」の比定:(27)支惟国(その一)


 訓みについての水野氏の解説。
『「支」は音「シ」。「惟」は音「ヰ」、義は「これ(維)」「ただ(唯)」「ひとり(独)」「それのみ」「おもんみる(思)」「おもんばかる」である。国名は音の転写。一般に「キイコク」と訓む。』

「支」の音として「シ」しか挙げていないのに「キイコク」と訓んでいる。この書き方は「郡支国」・「己百支国」の場合と同じである。一般には「キイコク」と訓まれているが、ご本人は「シイコク」と訓みたいのだ。一応主張に一貫性がある。

 私(たち)は「己百支国」・「郡支国」で「支」を「キ」と訓んできた。一貫性を保持して「支惟国」も「キイコク」と訓むことになる。が、問題点が一つある。「惟」の音は次のようになっている。(「諸橋大辞典」)


①ヰ(漢音)・ユイ(呉音)
②)ビ(漢音)・ミ(呉音)

 呉音を選べば「キユイ」・「キミ」となるが「キユイ」は和語の体を為していない。もちろん該当する古代地名はない。「キミ」の場合は古代地名がある。

きみ[吉美]
 『和名抄』丹波国何鹿(いかるが)郡に「吉美郷」で見え、京都府綾部市有同町、里町のあたりをいう。「きみ(黍)」の意が考えられるが、「吉彌侯部(きみこべ)」の部民地名の可能性もある。

 丹波国は崇神によって攻め込まれた国の一つである(「木津川の決戦」を参照してください)。狗奴国側(銅鐸圏)の国なので「21国」の一つに比定することはできない。

 以上より「惟」は漢音で訓むほかない。従って「支惟国」の訓みは「キヰ」か「キビ」ということになる。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石
 豊前国筑城(ついき)郡
吉田東伍・橋本増吉・牧建二
 肥前国基肄郡
宮﨑康平
 肥前国基肄郡および養父郡の地とし、現在の佐賀県鳥栖市を中心に、三養基(みやき)郡の北半部]帯の地と推定している。この地を仁徳朝以前の『記紀』記載の紀伊国をこの「キイ」にあてて解釈すると合理的に解釈ができるし、紀伊国造と関係があるという。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎・米倉二郎
 吉備国
志田不動麿
 紀伊国

 新井白石の場合は不明だが、内藤氏・米倉氏は「キビ」と訓んでいる。あとは全員「キイ」と訓んでいるようだ。楠原氏も「キイ」と訓み、佐賀県三養基郡基山(きやま)町に比定している。宮﨑氏の比定地の一部分ということになる。

 古田氏は、志田氏と同じで、「キイ」と訓んで「紀伊国」に比定している。

 楠原氏は「キイ」と訓んで佐賀県三養基郡基山(きやま)町に比定している。宮﨑説から鳥栖市を除いた地域ということになる。

 ここで疑問が二つ。全員「キヰ」ではなく「キイ」と表記しているが、これでよいのだろうか。古代では「イ」と「ヰ」はまったく異なる音として使い分けられていたのではないだろうか。これは後ほど取り上げよう。

 もう一つは宮﨑説の中の一文
「この地を仁徳朝以前の『記紀』記載の紀伊国をこの「キイ」にあてて解釈すると合理的に解釈ができるし、紀伊国造と関係がある」
の意味である。最後の一文「紀伊国造と関係がある」の意味がよく分らないが、前半部分は「記紀」の仁徳紀以前の紀伊は全て肥前国基肄郡と考えないと辻褄が合わないと主張しているのだろう。『まぼろしの邪馬臺国』で直接確認してみた。「メモ」という形で、正確には次ぎのように記載している。

「メモ ― 仁徳朝以前の記紀に記載された紀伊の国を、このキヰにあてて解釈すれば、妥当性を欠いた内容が、きわめて合理的に、容易に理解できる。肥前風土記の同郡に関する記事も、この国の古さを暗示し、示唆に富んでいる。」

 「紀伊国造と関係がある」などという文言はない。またこの引用文から、宮﨑氏は「キヰ」と表記していることが分った。表題では漢音・呉音ともに「キヰ」としている。『諸橋大辞典』と宮﨑氏とどちらが正しいのか、私には判断できないが、「惟」の音が「イ」ではなく「ヰ」であるという点では一致している。

 さて、第二の疑問は私の解釈でよいようだ。記紀の記事は和歌山県の紀伊とすると「妥当性を欠」くが、これを基肄郡とすれば合理的な解釈ができると言っている。どういうことか。調べてみよう。『古事記』での木国(紀の国)の初出は「根国訪問」の段である。

…其の子に告げて言ひしく「汝(いまし)此間(ここ)に有らば、遂に八十神の爲に滅ぼさえなむ。」といひて、乃ち木國の大屋毘古(おほやびこ)神の御所(みもと)に違(たがえ)遣りき。

 〈大系〉の頭注は「木國」を全て「紀伊の国」としているが、宮﨑氏は出雲神話にいきなり和歌山県の紀伊が出てくるのは「妥当性を欠」くと言っているのだと思う。ここで、なんだか聞いたことのある説だな、と思った。そうだ、このことは『盗まれた神話』で古田氏が取り上げていたのだった。次のように論じている。

 これ(管理人注:木国)を従来紀伊国(和歌山県)として疑わなかった。しかし、この神話世界は、先の「大八洲国」圏の上にあり、その主要舞台は「筑紫→出雲(大国)→越(高志)」の一段国名の国々である。それなのに、そこにいきなり、和歌山県をもちこむことは唐突である。当然、「基肄」の方の「木の国」である(大国主神は、筑紫の胸形〔宗像〕の奥津宮にある神、多紀理毘売(たきりひめ)命を娶って二児をもうけた、という。「大国主の神裔」と北九州との関連は深い。 ― ただし、近畿天皇家側の後代註記の中に出てくる「紀伊国」は、当然和歌山県の方である)。

 古田氏が言う「近畿天皇家側の後代註記」と宮﨑氏が言う「仁徳紀」後が同じことを意味しているのかどうか分らないが、「木国」は和歌山県ではなく「基肄」だという点では一致した認識を示している。さらに調べたら、「木国」とは「基肄」の事だということを古田氏が『失われた九州王朝』で詳しく論じている。『百済記』にはしばしば「貴国」が登場する。その一つが「神功紀」に引用されているが、「井の中」ではこの「貴国」についてのまともな解釈がない。宇治谷孟訳・現代語『日本書紀』では「日本という貴い国」(原文「日本貴国」)と訳している。古田氏がこの「貴国」を取り上げて解明しているのだった。その議論の過程で「木国」が扱われている。次のようである。

 「貴国」という表記のもとになった「国」とはどこか。まず、考えられるのは、「木の国」(紀国)だ。
 この国の名は『古事記』『日本書紀』にも書かれているから、相当古い地名である。少なくとも『古事記』『日本書紀』成立時(7、8世紀)以前の名だ。しかし、〝和歌山をもって、天皇の首都とした″という徴候は、天皇家の歴史の中に存在しない。『古事記』『日本書紀』という天皇家の公的な歴史書の中にも、全くその痕跡を見ないのである。だから、この「キ国」をここに当てることは無理だ。

 これに対し、九州筑紫の地はどうだろう。太宰府の近くに「基山」がある。そのそばに「基肄城」がある。この領域が「キ」と呼ばれる地域だったことは疑えない。ここは、筑前と筑後をおさえる〝ネック″(頸部)である。太宰府が天皇家による、九州地方総支配の根拠地となったことは有名だ。その場合、これまで、何もなかった所にいきなり新しい城塞を築いたのであろうか。それとも、天皇家の支配が及ぶ以前に、すでに九州一円に勢威を誇っていた旧勢力の居城の地だったのだろうか。当然、合理的な判断としては、後者となる(考古学上、テルと呼ばれる)。

第一 地形。
 この地点が筑紫の南北をおさえる地理上の要衝であること、昔(天皇家支配以前)も当時(天皇家の築城―天智紀)も、変りがない。  第二 伝承。
 「風土記』につぎの説話がある。

 「次の説話」とはあの甕依姫が出てくる『筑後国風土記』の「筑後国号」説話である。甕依姫の部分は以前に掲載しているが、改めて全文掲載する。

「公望(きむもち)案ずるに、筑後(つくしのみちのしり)の国の風土記に云はく、筑後の国は、本、筑前(つくしのみちのくち)の国と合せて、一つの国たりき。昔、此の両(ふたつ)の国の間に峻(さか)しく狭(さ)き坂ありて、往来(ゆきき)の人、駕(の)れる鞍韉(したくら)を摩(す)り尽されき。土人(くにひと)、鞍韉尽しの坂と曰ひき。三に云はく、昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極(いたく)く多(さは)なりき。因りて人の命尽(つくし)の神と曰ひき。時に筑紫君・肥君等占ふ。今の筑紫君等が祖、甕依姫、祝(はふり)と爲して祭る。爾(それ)より以降(このかた)、路行く人、神に害(そこな)はれず。是(ここ)を以(も)ちて、筑紫の神と曰ふ。四(つぎ)に云はく、其の死にし者を葬(はふ)らむ爲に、此の山の木を伐りて、棺輿(ひとき)を造作(つく)りき。茲れに因りて山の木尽されむとしき。因りて筑紫の国と曰ひき。後に両(ふたつ)の國に分ちて、前(みちのくち)と後(みちのしり)と為す」

 この説話の意味を古田氏は次のように解いている。

 このように、「此の堺の上」(基山)に、「筑紫君」や「肥君」の祖先と深い関係をもつ、威力ある神がいた、という伝承が、当時(風土記成立時 - 8世紀)も残っていたのである。その上、「ツクシ」の名がここから発祥した、という伝えも、ここを発祥の地とする権力者が、古くから筑紫全土に威令を誇っていたという歴史を反映しているのではあるまいか。この可能性は高い。

 さらにこの「ツクシ」の名が九州全土を指す名として用いられた(『古事記』)ことから考えると、ここが九州全土の中枢をなしていた、ということそれは、この地名の発展状況から見て、十分にその可能性をもっている。

 以上の二点から見て、九州筑紫の「キ」の領域は、十分にこの地域の中心としての資格をそなえているのである。

 3年ほど前、私は新庄智恵子著『謡曲のなかの九州王朝』を教科書に九州の「紀の国」を取り上げた。しかし、疑問点が多々あたので、「紀の国=佐賀県北部?(1)」「紀の国=佐賀県北部?(2)」と「?」マーク付きだった。いまここで「紀の国=佐賀県北部」は誤りだったと言っておこう。
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