2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(116)



「倭人伝」中の倭語の読み方(59)
「21国」の比定:(26)巴利国


 訓みについての水野氏の解説。

 「巴」は、音「ハ」、「うずまき」「いやしき声音」「水流の巴字のごとく曲折する義」という意味をもつ。「利」は音「リ」、「とし(銛)」「するどし(鋭)」「はやし(疾)」「よし(吉)」「よろし(宜)」「便宜」「快」「なめらか」「とおる(通)」「したがう(順)」「いきおい」「力」「かち(戦勝)」「もうけ」「とみ(富)」「利子」「益を他におよぼすこと」の義がある。国名は音の転写。一般に「ハリコク」と訓む。

 ちなみに、「巴」には「ヘ」という音もある。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石・橋本増吉
 肥後国波良郡
牧建二
 肥後国託摩郡波良郡

宮﨑康平
 「ハルリのくに」と訓み、筑後国夜須郡、および上座・下座、現在の福岡県甘木市を中心とした朝倉一帯の地で、筑後川右岸の地と比定する。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
 尾張国または播磨国
米倉二郎・志田不動麿
 播磨国


楠原説
『[巴利](はり) - 佐賀県三養基(みやき)郡中原(なかばる)町』

地名用語バリはバラの原形

 この国名は、後世の用語のバラ(九州ではハル・バルと発音するのが一般的)以外にはありえない。

 のちに「原」の漢字が使われるバリ・ハル・バル・バラとは、どんな地名か。語源は動詞ハル(膨・張)で、沖積低地に張り出した洪積台地に命名されているケースが多い。人体名詞のバラ(腹)も同源で、人類を含め脊椎動物が食物をとると消化器官と皮膚がふくらんで張り出してくる。その部分がバラ(腹)である。

 よく似た地形地名用語にノ(野)があるが、どう違うか。ノは動詞ノブ(延)の語幹で「のびのびと広がった大地」をいい、火山の裾野や地殻変動で傾斜した洪積台地などに多い。

 ノ(野)は傾斜がある点では水田稲作に有利なように思えるが、実際には限りなく広大で、しかも水源にとぼしい。そのため、東京西郊の武蔵野や多くの火山の裾野がそうであるように、たいがいは近世ごろまで開発は手つかずであった。一方、バラ(原)のほうはおおむね平坦で、利水・排水施設を施さない限り水田には適さない。だが、台地の縁辺は洪水のおそれもなく、すぐ下には湧水帯があり、集落を構えるには最適である。水田は台地下の沖積地に開けばよい。

 こうして、洪積台地は縄文時代からわれわれの先祖の格好の居住地となった。中世でも、平野の中に張り出した台地の先端はタテ・タチと呼ばれ、たいがい豪族の館(たて)が構えられた。

 ところで、ハル(膨・張)などラ行四段活用の動詞が名詞化する場合、普通は連用形が使われるが、バリ(巴利)はその原則に合っている。

 「倭人伝」の「巴利国」は、現在われわれが使う地名用語バラの古形であるが、その地はどこなのか。私は「躬臣国」の北東約7㎞、現・佐賀県三養基郡中原町付近に比定する。

 「ハ」を濁音にして「バリ」は地名用語であり、「バラ」の古形だと言う。本当かな? だいたい本来濁音で始まる和語はないのではなかったか。わざわざ濁音にしているのでなにか根拠があるのかも知れないが、その根拠を明示しなければ信じるわけにはいかない。また、「バラ」は「ハラ」が連濁化したものなのに、どうして「バラ」を正面に据える議論をするのだろうか。これも私には理解出来ない。

 九州では「バラ」は「バル」と訓むということから「原」を用いた地名を探し出したようだが、こういう方法は危うい。「原」を用いた地名はたくさんある。その中からどうして三養基郡中原町が選ばれたのか、根拠が不明である。

 この後の議論は、資料として参考になる点もあるので、論評なしで紹介しておこう。

失われたバリ地名

 中原の地名は江戸時代、長崎街道に立てられた宿場の名称であるが、根拠なく命名されたものではない。背振(せふり)山地南西部の石谷(いしたに)山(標高754.4m)の南麓に標高20~40mのなだらかな洪積台地が東西約3km、南北約四㎞にわたって広がる。台地上は原古賀(はらこが)と簑原(みのばる)の二つの大字に分けられ、この二大字で中原町を構成する。つまり、この洪積台地全体が周辺から「原」または「中原」と呼ばれていたものと思われる。 「巴利」=「原」の地名は、そのままの形ではなぜ後世まで伝わらなかったのか。その間の事情は、『肥前国風土記』三根(みね)郡漠部(あやべ)郷の記事が雄弁に物語っている。

……昔、来日(くめ)皇子は新羅を征伐しようとして忍海(おしぬみ)の漢人(あやひと)に勅して、軍衆としてつれて来て、この村に住まわせ兵器を作らせた。それで漢部の郷という。

 忍海の漢人とは半島からの渡来人の子孫で、大和国忍海(おしのみ)郡に住んでおり、韓(から)鍛冶の先進技術をもった集団である。角川『日本地名大辞典41佐賀県』は台地をきざんで流れる寒水(しようず)川の砂鉄を利用したのであろう、と述べる。

 漢部郷は『和名抄』には記載されていないが、平安時代には綾部城がつくられ、平安末期には藤原道長(ふじわらみちなが)の子孫が居城して平冶(へいじ)の乱(1159)に呼応して戦っている。

 14世紀未に成立した朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、1471年に対日外交指南書の『海東諸国紀(かいとうしよこくき)』を編纂したが、その記事中に綾部城は次のように記されている。

……九州探題、或(あるい)は九州総管領は肥前の阿也非(あやべ)の地にある小城に居る。博多の南十五里にあって、一千余戸、兵二百五十余、九州の軍を統括している。

 鎌倉期には宇佐(うさ)八幡宮領の荘園として綾部荘が立てられ、江戸期まで綾部村の名があった。今は大字原古賀の東部の一集落名として漢部の名が残る。

 つまり、古代に大和王朝直属の技術者集団が入植したため、その名が優先され、「巴利」「原」の名は使われなくなったものと思われる。ただし、それでも今日まで残る「原古賀」「簑原」の集落名や自治体名の「中原」の名はその遺称ともいえる。

知られざる遺跡群

 西隣に大きな脚光を浴びた吉野ヶ里遺跡が存在するため影は薄いが、中原町簑原にある姫方(ひめかた)遺跡ももっと注目されてしかるべき遺跡である。弥生期~古墳時代の複合遺跡で、弥生期の遺物では甕棺(かめかん)墓400基以上・箱式石棺25基以上・土壙(どこう)墓7基以上が発見されたほか、鉄刀・鏡・貝釧(かいくしろ)なども出土している。原古賀の土地集落付近にも墓地群があり、また寒水川沿いの低地から弥生期の住居址が発見されている。

古田説
 内藤説と同じである。
「つぎの「巴利(ハリ)国」も重要である。なぜなら「播磨(ハリマ)国」(兵庫県)と「尾張(オハリ)国」(愛知県)と、いずれも「マ」(接尾語)か「オ(ヲ)」(接頭語)をくわえれば、〝妥当″するからである。」

 「巴」には「ヘ」という音もあるが、「ヘリ」では遺称地が全く見いだせない。「ハリ」ならそのものズバリの遺称地があるのだから内藤・古田説ということになるが、「尾張国」は私が想定している女王国版図(銅鉾圏)に入らないので、当然「播磨国」ということになる。

 令制以前の針間国は加古川より以西に位置していたようだ。もしそうなら、私は「為吾国」の中心地を赤穂郡上郡に比定したので、「巴利国」は「為吾国」のお隣さんで加古川が東側の境界ということになる。現在の姫路市が「巴利国」の中心だったと考えられる。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1787-40d3c0d1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック