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《続・「真説古代史」拾遺篇》(114)



「倭人伝」中の倭語の読み方(57)
「21国」の比定:(22)為吾国(その二)


 「為吾」を「イゴ」と訓んでも「イゲ」と訓んでもこれに該当する遺称地はない。従って、次のような古田氏のアイディアを採るほかないだろう。

古田説

 わたしに、次の一歩、重要な一歩を踏み出させたもの、それは「為吾国 の存在だった。

 奈良県の「生駒(イコマ)」である。「マ」は接尾語。語幹は「イコ」だ。語尾の「コ」は、濁音化すれば「ゴ」である。

 日本語の清音と濁音の〝ちがい″は微妙である。「高田」は「タカタ」(地名)と〝訓む″ケースと「タカダ」(姓)と〝訓む″場合と、まちまちである。「古田」は「フルタ」であって「フルダ」とは訓まない。このような、清音と濁音の区別は、当の日本人にも、うまく〝説明″できない。外国人から聞かれても、ほとんどの日本人が〝答えられない″であろう。ただ「そうなっている」としか言えないのである。ただ「語末が濁音化しやすい」傾向のあることは、誰でも経験的に知るところである。

 奈良県でも「ヤマト、三山」などと呼ばれているのは、県内盆地の南半部分の〝呼び名″だった。「大(おお)ヤマト」と呼ばれている地帯などをふくむ。飛鳥や桜井市の周辺である。

 これに対し、奈良県の北部分、奈良市から生駒にかけての地帯、それがこの「為吾国」だったのではあるまいか。「吾がため」もしくは「吾と為す」といった、親愛の字面である。

   この解説文は二通りに読める。一つは
〈3世紀頃までは「イゴ」だったのがその後清音化して「イコ」となり、「生駒」と漢字表記されるようになった。〉
で、もう一つは
〈3世紀頃以前には「イコ」だったが、濁音化して「イゴ」となり、その漢字音表記に「為吾」が用いられた。〉

 古田氏は「語末が濁音化しやすい」という認識を掲げているわけだから、前者は誤読で後者が正読としてよいだろう。何よりも前者は「清音化」というあやしげな概念を用いなければ説明できないので不当だ。そうすると後者にも問題が残る。「イコ」→「イゴ」と濁音化した後、また「イコ(マ)」になっている。「清音化」であり、前者と同じではないか、という問題である。この問題については私は次のように考えてみた。

 この場合の濁音化は一般の場合とは異なり、「イコ」という国名に、古田さんの言葉を借りると、『「吾がため」もしくは「吾と為す」といった、親愛の』意も込めるために「イゴ 為吾」という表記をした。従ってこの濁音化は国名の由来となった「イコマ 生駒」という地域名やイコマヤマ 生駒山」という山名の方には及ぶことはなかった。

 さて、3世紀頃の生駒はどのような地だったのか。ネット検索で調べていたら、なんと、ウィキペディアが古代・中世の生駒について「山間の寒村に過ぎなかった」と述べている。『日本歴史地名大系』で確認してみた。生駒は令制下の平群郡に属している。その平群郡の〔原始・古代〕時代について『日本歴史地名大系』は次のように解説している。

「縄文・弥生時代の遺跡はほとんど知られていない。わずかに市内の萩原(はぎはら)町の生駒南小学校付近で弥生後期の石鏃や櫛目文のある壷・高坏形土器片が採集されているのみである。古墳は有里(ありさと)町の竹林寺(ちくりんじ)古墳が前期の前方後円墳として著名であるが、ほかには古墳時代の遺跡として確認されたものはない。」

 奈良県の北部分が一国を為していたとして、その国名に「生駒」を用いたということが疑わしくなった。3世紀頃に生駒を中心とする領域をもって一国が形成されたということはあり得ないと思う。これで候補地は皆無になったと思ったが、偶然地図上で「生駒山」が兵庫県赤穂郡にもあることを知った。

 現在の赤穂郡は上郡(かみごうり)町だけで成り立っている。このような例が他にもあるだろうか。「赤穂」という地名も「上郡」という地名も共に保存したいという意図だろうか。いずれにしても上郡町は町とはいえその町域はかなり広い。令制下の赤穂郡は上郡町の他に赤穂市と相生市を含んでいたようだが、生駒山がある上郡に的を絞ろう。

 古代の上郡について『日本歴史地名大系』は次のように解説している。

 中央部を岩木川・鞍居(くらい)川・安室(やすむろ)川の諸川を合流する千種(ちくさ)川が南下し、上郡盆地を形成し、南部では千種川支流の高田(たかた)川が高田盆地を形成している。そのほかは急峻な山地で、町域面積の七割余が山林。

 縄文時代の遁跡は梨ノ木遺跡・大池(おおいけ)遁跡から後期・晩期の土器が採集されている。弥生時代の遺跡は後期の竪穴住居跡二棟が発掘された神子田(みこでん)遺跡がある。また最近発掘された井の端(いのはな)七号・八号墓は、弥生-古墳時代への墓製を示す墳墓である。七号墓は長方形の墳丘で周囲に列石を巡らし、竪穴式石槨・箱式石棺・木棺墓と三種の埋葬施設が造られている。箱式石棺からは鏡式不明の破鏡(復元すれば直径13.4㎝)、木棺墓からは仿製重圏文鏡が出土している。釜島(かましま)南方の標高200メートルの山頂にある六ッ岩(むついわ)遺跡は巨石を二段に立並べており、祭祀遺跡とみられてる。後期の土器・石包丁などが出土した。別名遺跡では三本の広形銅剣が発見され、羽山遺跡と井上遺跡で壺棺が確認されている。

 「Kamigori Internet kennkyuukai」というサイトに出会ったので、そこの記事を利用させていただいて、弥生期の遺跡について補充しよう。

鳳張(ほうばり)古墳群(船坂)
 船坂・麦尻の北側に方張谷があり、その中央に二つの古墳がある。1号墳は長方形の墳丘に棚をもつ横穴石室。2号墳は円形の墳丘、横穴式石室で天井石の一部に線刻らしいものが残っている。

 別名(べつみょう)の山麓
 土とり場から広型銅剣が昭和33年に見付かった。銅剣は弥生式時代に首長のシンボルといわれ、西日本特に九州に多い。ここの発見は分布の東端になる。

中山古墳群(高田台)
 高田盆地は奈良盆地に似て大河の氾濫もなく、古代から生活に適し他より早く発達したと考えられる。弥生の出土品が多く、古墳群もこれを語っている。

大酒古墳群(山野里・大酒)
 大酒地区周辺の山腹・山麓に小型の古墳が40余基散在している。その形状から朝鮮文化の影響が見られる。地名の大酒(おおざけ)から秦氏の影響と見られている。

神子田(みこでん)弥生住居跡(中野)
 高田小学校正門を入った右手にある。体育館建設まえの調査で2基が発見された。直径12mと8mの円形たて穴式住居跡。

六ッ岩弥生祭祀遺跡(釜島)
 釜島集落の南方山頂に巨岩を台座に組み、その上に立て岩を組んでいる。近くで弥生式の高杯も発見されていて、むかし祭祀のための施設とみられている。

 以上により上郡は「21国」の比定地としての資格は充分にあると思う。それでは「為吾」という国名のもとになった生駒山はどのような山なのだろうか。実際の登山体験を記録した「西国の山」さんの文章をお借りしてまとめてみよう。

 生駒山は標高263mでその頂上からは上郡の市街地を一望のもとに見渡すことができる。生駒山には山頂を本丸とした山城がある。その山城は南北朝時代(14世紀)の築城とも伝えられているが、現在残る縄張は戦国時代(16世紀)の後半頃のもののようだ。「西国の山」さんは
「独特の山容を誇った生駒山に築かれた山城で、特に登上途中から見る本丸や、二ノ丸は見ごたえがある。」
と感動を書き留めている。

 生駒山には『生駒山から大きな岩が千種川に転げ落ち、いろんな問題をふりかけた』という落岩伝説がある(「Kamigori Internet kenkyuukai」さんより)。住民の畏敬の対象だったのだろう。また、住民たちは居住地域を一望できるこの山を敬愛もしていたことだろう。さらに想像を逞しくすると、現在残っている山城の下に古代の高地性集落あるいは山城があったのではないだろうか。生駒山付近が上郡の中心地だったと思われる。

 以上、不十分な点がいくつかあるが、赤穂郡上郡を中心とした地域を「為吾国」の比定地としよう。
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