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《続・「真説古代史」拾遺篇》(112)



「倭人伝」中の倭語の読み方(55)
「21国」の比定:(28)烏奴国(その二)


 これまで「奴」を「ヌ」訓んできたのだからここでも「ヌ」と訓むことにする。しかし、「ウヌ」と一致する遺称地はない。そこで、「ヌ」は「ノ」(野)を意味し後世には「ヌ」→「ノ」という通音化した可能性大であるから、「ウノ」という遺称地を調べてみた。『日本古代地名事典』では2例あった。

うの[宇努]
 『和名抄』周防国吉敷郡に「宇努郷」で見え、山口市宇野の地をいう。渡来系の宇努連の部民の住地をいう。

うの[宇野]
 『和名抄』播磨国佐用(さよ)郡に「宇野郷」とあるが、風土記に「雲濃里」で初見する。兵庫県佐用(さよう)郡佐用町宇根か佐川町大畑の地かという。おそらく、渡来系の宇野首(おびと)が馬を飼育した山中の上地をいう。

 図書館へ行き『日本歴史地名大系』(平凡社)・『角川 日本地名大辞典』の詳しい解説を読んでみた。解説は「宇努」は平安時代以降から「宇野」は奈良時代以降から始まっていて、両地ともに古墳期以前の説明が全くない。「21国」の比定地にできる可能性は全くない。

 ところで、その調査の過程で「宇野御厨(うののみくりや)」という地名に出会った。御厨とは律令制下では天皇や神に貢納する食物(贄 にえ)を提供する地のことである。『角川 日本地名大辞典』は宇野御厨を肥前国松浦郡の「松浦・五島」と比定している。宇野が御厨を務めた時期は平安期~戦国時代ということだが、宇野はもっと古くから御厨の役を担っていたようだ。そのことを示す説話が『肥前国風土記』の「松浦郡値嘉(ちか)郷」条にあるという。読んでみよう。

値嘉の郷(さと)郡の西南のかたの海の中にあり。烽(とぶひ)の處(ところ)三所あり。昔者、同じき天皇、巡り幸(いでま)しし時、志式嶋(しきしま)の行宮(かりみや)に在(いま)して、西の海を御覽(みそなは)すに、海の中に嶋あり、烟氣(けぶり)多(さわ)に覆へりき。陪從(おもとびと)、阿曇連百足(ももたり)に勒(おほ)せて察(み)しめたまひき。爰(ここ)に、八十餘りあり。就中(そのなか)の二つの嶋には、嶋別に人あり。第一の嶋は名は小近(おちか)、土蜘蛛大耳(おほみみ)居(す)み、第二の嶋は名は大近(おほちか)、土蜘蛛垂耳(たりみみ)居めり。自餘(そのほか)の嶋は、竝(ならび)に人あらざりき。ここに、百足、大耳、等を獲(と)りて奏聞(かへりごとをまを)しき。天皇、勅して、誅(つみな)ひ殺さしめむとしたまひき。時に、大耳等、叩頭(のみ)て陳聞(まを)ししく、「大耳等が罪は、實に極刑(しぬるつみ)に當れり。萬(よろづ)たび戮刹(ころ)さるともる罪を塞(ふさ)ぐに足らじ。若し、恩情(おほめぐみ)を降(くだ)したまひて、再生(またい)くることを得は、御贄(みにへ)を造り奉りて、恒(つね)に御膳(みけ)に貢(たてまつ)らむ」とまをして、即(やが)て、木の皮を取りて、長蚫(ながあはび)・鞭蚫・短地・陰地・羽割蚫等の様(ためし)を作りて、御所に獻(たてまつ)りき。ここに、天皇、恩(みめぐみ)を垂れて赦(ゆる)し放(や)りたまひき。

(中略)

西に船を泊(は)つる停(とまり)二處あり。一處の名は相子田(あひこだ)の停といひ、廾餘りの船を泊つべし。一處の名は川原(かはら)の浦といひ、一十餘りの船を泊つべし。遣唐の使は、此の停より發ちて、美彌良久(みみらく)の埼に到り、即ち、川原の浦の西の埼、是なり、此より發船(ふなだち)して、西を指して度る。此の嶋の白水郎(あま)は、容貌、隼人(かたち)に似て、恆に騎射(うまゆみ)を好み、其の言語(ことば)は俗人(くに)に異なり。


 「同じき天皇」とは景行のことである。「景行紀」には「日本旧記」から盗用した「前つ君」の九州統一遠征譚があるが、上の説話もその九州統一遠征の事蹟を背景に作られた伝承と考えてよいだろう。

 〈大系〉の頭注によれば値嘉郷は五島列島の総称であり、志式嶋は平戸島の南端地(平戸市志々伎)の地である。志々伎は平戸島とはつながっていない独立した島だったようだ。

 『角川 日本地名大辞典』は「宇野御厨」の比定地を「松浦・五島」としている。「松浦」は北松浦半島と限定してよいだろう。つまり「松浦・五島」とは現在の平戸市ということになる。上の説話の後に「宇野御厨」と呼ばれた地域を舞台にしている。『風土記』からの引用文の後半は五島列島の港が遣唐使渡航の中継地として使用されていたことを述べているが、それらの港は当然3世紀以前からあり、九州王朝の本拠地である北九州との往来に使われていたはずだ。さらに、大陸への航海の重要な出港地でもあったろう。

 3世紀頃にも平戸市辺りを「宇野」と呼んでいたという証拠はないが、平安時代になってその地名が創作されたというのも変である。「宇野」はすでにその地方で使われていた、あるいはかつて使っていた地名だったのではないだろうか。断定はできないが、平戸市辺りが「烏奴国」であった可能性はあると思う。

 可能性があるというだけでそれ以上詰められないので、「烏奴」を「アヌ」と訓んでもう一案を考えてみた。この場合、「安濃」が候補地である。

あの[安濃]
 『和名抄』石見国に「安濃郡」とあるが、『出雲風土記』巻末に「安濃郡」で初見する。島根県大田市の一帯を指し、『三代』貞観4年(862)の伊勢国人の「安濃宿禰」に由来するとみられる。

 この地名由来も顛倒した論理だ。「安濃」という地名があって伊勢国人とやらが「安濃宿禰」を名乗ったのに決まっている。

 太田市は石見銀山で有名だが、出雲市のお隣であり、出雲神話の舞台に比定されている地域もあるようだ。ウィキペディアから引用する。

 『日本書紀』によれば素戔嗚尊(スサノオ)は息子の五十猛命(イタケル)、娘の大屋津姫命(オオヤツヒメ)、抓津姫命(ツマツヒメ)とともに新羅から出雲へと渡るが、その上陸地点は大田市仁摩町から五十猛町にかけての海岸であったのではないかとする説がある。現在でも「韓島」(仁摩町)や「韓郷山」(五十猛町)といった地名が残っており、五十猛町や大屋町の地名は五十猛命や大屋津姫命に因むものである。

また、静間町には国造りにおいて大国主命(オオクニヌシ)と少彦名命(スクナビコナ)が国造りの際に仮住まいとしたという静之窟がある。

一方、市東部に位置する三瓶山は古くは「佐比売山」と呼ばれ、『出雲国風土記』の国引き神話において「火神岳」(大山)とともに島根半島を引き寄せて繋ぎ止めた杭であるという。

 古冢時代の「安濃」について、『日本歴史地名大系』の解説を引用する。

 弥生時代になると三瓶川・静間川下流沖積地に規模の大きな集落が営まれるようになる。代表的な集落である土江遺跡(長久町土江)は静間川に架かるJR山陰本線鉄橋付近一帯に中心があったと見られているが凹み石・土錘木製鍬らしき遣物などが発見されており、ほかに土師器・須恵器も出土している。遣跡は約二平方キロの範囲に広がると推定され、当市域の古代の一中心となる集落が営まれていたと考えられる。同遺跡の約1キロ南にある八日市(ようかいち)遺跡(藤間町八日市)も弥生時代から始まる大規模な低湿地集落跡の可能性がある。

 「21国」の一つに比定する資格は充分にある。「烏奴」を「アヌ」と訓むことが正当であると言えないだろうか。

 もう一つ、「愛読者」さんから次のような提案を頂きました。


 倭人伝の「倭国は周施五千余里」を古田説に従い短里とすれば400キロ超位。四角なら一辺100キロ、「方」と言わず「周施」とあるので円形とすれば直径130キロ。

南北は博多湾から熊本南部、東西は大分から長崎位がせいぜいでしょう。「阿蘇山を中央とする国名が幾層にも連ねられていた」というように阿蘇周辺の各国を21国候補とするなら、その南辺で古代から石材で有名な「馬門石」を算出するのが「宇土市網津町馬門」。

 その「宇土」でしたら烏奴(の)国の資格があるのでは。いかがでしょう。

 念のため確認したら倭人伝からの引用文の「倭国」は「倭地」だった。私は「倭地」を九州全体と考えていたが、九州の南北の最長部分の直線距離300㎞ぐらいなので「周施五千余里」では小さすぎる。「周施五千余里」は「愛読者」さんの解釈が正しいようだ。しかし、これは「倭地を参問する」に対する答だから魏使が倭人から得た情報である。回答者は「倭地」を「倭国」とは異なる概念ととらえて、「周施五千余里」と答えたのだろう。もしかすると倭人の間では「前つ君」征服譚の遠征範囲が「倭地」だった? 範囲がピッタリ一致している。偶然だろうか。古くから九州王朝に帰属していた地域を「倭地」と呼んでいたのではないだろうか。

訂正(10月1日)
 この説は撤回します。訂正した説は「女王国統属下の国々(その二)」で確認してください。


 「宇土」について『日本古代地名事典』は次のように解説している。

うど[宇土]
 『和名抄』肥後国に「宇土郡」とあるが、『正倉院文書』天平勝宝2年(750)に「宇上郡」で初見する。熊本県の宇土半島の一帯の地域をいい、「うと(疎)の意とみられ、平地の周辺で、離れて山尾根の盛り上がった土地をいう。
 弥生時代の宇土郡については『日本歴史地名大系』から引用しよう。

 弥生時代になると海が後退して、縄文期の海域部は小ラグーンとして残ったとみられ、そのような所に弥生前期の村が形成された。宇土市善導寺町、同市神馬(しんめ)町の宇土城跡などから弥生前期末~中葉の遺物が出土している。とくに宇士古城跡では丘陵南側にV字溝を巡らせた弥生前期の村落の一部が調査され、この地の弥生文化の動向が北九州の弥生文化の先進地域と軌を一にしていることが知られた。

 この地の弥生文化の特徴は、甕棺の分布によっても知ることができる。宇土市松山(まつやま)町の畑中(はたなか)では須玖式の大型棺が出土し、九州におけるこの種の遺物分布の南限となっている。一方、宇土半島の先端部戸馳島でも弥生前期末の遺物が出土しており、宇土半島基部と同様、海上路による西北九州との交通が考えられる。

 このような宇土地域がもつ先進性は古墳時代になっても継続される。

 「宇土郡」も「21国」の一つとして比定できる条件を備えている。しかし、「愛読者」さんは「烏奴国」を「烏の国」と「の」を格助詞と考えているようだ。格助詞の場合、「野」の意味での「ヌ」→「ノ」という通音と同じ説明は無理だろう。この場合は「ウヌ」ではなく初めから「ウノ」と訓むことになる。これは今まで全ての「奴」を「ヌ」と訓んできた事に反する。また、「烏奴」を「ウド」と訓むと「宇土郡」はピッタリの比定地になるが、同じ理由で賛成できない。

 私は、あえて選ぶとすれば、「安濃」説を採ろう。「烏奴」は一般には「ウヌ」と訓まれていて「アヌ」と訓む人は皆無のようだが、「アヌ」と訓むことが不当である理由はないと思う。

 蛇足を一つ。「烏」は「ウ」という訓みで万葉仮名として使われている。どのように使われているのか調べてみた。圧倒的の多いのが「烏梅」で「梅 うめ」と訓んでいる。「烏」は「ウ」である。万葉仮名「烏」はこの使い方だけのようだ。次ぎに多いのが「烏玉能」というような使われ方で「ぬばたまの」と訓んでいる。枕詞「ぬばたまの」は「夜・黒」などにかかる。烏が黒いことから寓意的使用をしているのだ。

 変わったところでは「烏徳自物」(210番)というのがある。「男(おとこ)じもの」(男であるのに)と訓んじている。「烏」を「オ」という音で使っている。「香烏髪」(1277番)というのもある。「かぐろき髪に」だそうだ。

 もう一つ、大変な難問。「朝烏指」(1844)。本当かね? と疑ってしまいそうな訓みだ。「朝日さす」だそうだ。頭注によると、「三本足の烏→太陽の神→日」で「烏」を「ヒ」と訓むのだそうだ。

 勝手というか奔放というか遊んでいるというか、漢字を多面的に自由自在に使っている。もっとも現在使われている漢字にも常識では読めないものがいっぱいありますね。
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 コメント
この記事へのコメント
拙考を検討頂き、また「須玖式の大型棺の南限」という貴重な情報も知らせてもらって感謝しています。
烏奴に(の)と入れたのは「ナでもドでもない」という気持ちです。
音としては呉音「ヌ」が近いのでしょうね。ただ連体修飾助詞「の」の意味として用いられている可能性は十分にあると思います。「華奴蘇奴国」を2段国名とすればそうなります。また21国名に出現する頻度からも助詞の可能性が高いのでは。
(「奴」一字の場合は助詞であり得ず、「ヌ」としての意味を持つのは当然ですが・・)
景行紀等の九州討伐・巡幸範囲を「倭地」と考えるのに賛成で、21国はその中ではないかと思い始めています。卑弥呼に擬せられた神功皇后紀の前に書かれていますから、実年代も卑弥呼時点での倭地の領域ではないかと・・
いずれにせよ九州王朝論の核である「短里」、『書紀』の九州王朝の発展史盗用、遺跡・遺物との整合性重視などを踏まえた21国の検討が重要だと痛感しています。
2012/09/10(月) 18:04 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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