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《続・「真説古代史」拾遺篇》(111)



「倭人伝」中の倭語の読み方(54)
「21国」の比定:(28)烏奴国(その一)


 古田氏が「鬼国」「鬼奴国」と関係深い国として「烏奴国」を取り上げているので、今回も順序を変えて、先に「烏奴国」を取り上げることにする。

 古田氏は、前回引用した文に次いで、次のように述べている。

 また「鳥奴(ウノ)国」。岡山から香川へ渡る、出発点は宇野港である。この「宇野」である。

 九州では、断然「阿蘇山」が中心だった。「阿蘇山」を中央とする国名が幾層にも連ねられていた。ここ中国地方の山陽道では、この「鬼国」が中枢を占めているようである。

 私はこの説は成り立たないと判断した。その理由は次の通りである。

 宇野港は現在の玉野市にある。確かに現在は宇野港と高松港を結ぶ航路があるが三世紀頃にはどうだったろうか。「不呼国(その三)」で詳しく述べたように、当時は倉敷市酒津辺りまでは海であり、「吉備の穴海」によって切り離されて、宇野港の港がある児島半島は島だった。「児島」と呼ばれる島だった。もちろん児島にも港があった可能性はあるが、ここの玉野や宇野という地名はどの古代地名事典にも現れない。児島半島には文献・史跡ともに古代史に関わるような痕跡はないようだ。

 一方、「鬼奴国」の重要な港は倉敷近辺あったことを明確に示している発掘遺跡がある。(以下は『発掘 日本の原像』による。)

 倉敷市上道遺跡は古地図に見えた酒津から東方約10㎞ほどの所で、山陽新幹線鉄路のすぐ南側にある。1998年、県道工事に伴う調査で港跡が見つかったという。『発掘…』は次のように解説している。

 弥生の港跡としては、長崎県壱岐の原の辻遺跡に次いで二つ目。しかも祭祀用と考えられる異様な遺物の発見である。航海の安全を祈った光景が再現できそうな、初の遺跡だったのだ。

 いっしょに出た土器の分析で、1世紀中ごろから2世紀初めにかけてつくられ、3世紀前半まで存続していたことが分かった。

 北東から南西に突き出た形の突堤は長さ45メートル、幅14~15メートル、高さ2メートル余。途中で「増築」して延ばしたような杭跡があった。杭で周囲と要所を固め、木の小技や葉、粘土を交互に突き固める中国式の「敷き葉工法」だった。

(中略)

 古代の中国・新(紀元8~23)の銅貨「貨泉(かせん)」一枚もあった。港には外洋航海の船が出入りしていたのかもしれない。

 遺跡には戦前から土器片が出土しており、時代区分と形式の物差し、「標識土器」として名高い。「上東式」と呼ばれる。新幹線建設の際の調査で、弥生中期から古墳時代初めころの集落、製塩跡などが判明した。まだ一部の発掘だが、遺跡は南北2キロ、東西1キロくらいの範囲の地下に眠っているらしい。大規模であることは、今度の港跡の発見でも裏づけられた。

 この港は「3世紀前半まで存続」と書かれているが、戦国時代の古地図によれば戦国時代も倉敷市酒津辺りはまだ海だったのだから、その港は当然もっと後まで使われたと考えられる。この遺跡港は「鬼奴国」の最も重要な港だったのではないか。まさに「吉備津彦」の「津」である。

 以上により古田説は採用できないと判断した。

 余談になるが、児島半島の地図を色々と調べていたら玉野市に「鬼入道山」という山があった。まるで「鬼国への入り口を示す山」と言ったような海からの入国の時の目印のような名前だ。偶然だろうか。

 それでは「井の中」の諸説を見てみよう。まずは水野氏による訓みの解説から。

 「烏」は音「ヲ」「ウ」で、「烏(カラス)」であり、「黒色」を意味する。「いずくんぞ」「なんぞ」「なにとて」「ああ」。「太陽の義」とするのは、太陽の中に三足の烏が棲むという伝説によってである。一般に「ウヌコク」と訓む。

(三足の烏とは懐かしい。5年ほども前にかなり詳しい記事を書いたことを思い出した。興味があったらご覧下さい。「三本足のカラス」です。)

 「烏」の音「ヲ」は漢音で「ウ」が呉音。このほかに漢音・呉音共通で「ア」という訓みや、漢音「アン」・呉音「エン」という訓みもあるという(諸橋大辞典)。「アヌコク」という訓みもありそうだが、とりあえずは「ウヌコク」を採用しよう。もちろん表音表記である。

大家たちの諸説

新井白石
 豊後国大野郡としたが、後、『外国之事調書』では大野郡と合せ、肥後国宇土郡の名を記している。 「邪馬台国」九州説者
牧建二
 筑前国御笠郡大野郷、または豊後国大野郡とを並記している。
宮﨑康平
 「ウゥヌのくに」と訓み、肥前国御笠郡とし、現在の福岡県筑紫郡一帯の地で、旧大宰府(大野)を中心としていたとする。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎・米倉二郎
 備後安那郡
山田孝雄
 近江国小野郷あるいは越後国魚沼の地

楠原説
『[烏奴](あな)―大分県大分郡庄内(しようない)町・挟間(はざま)町・大分市西部付近』

 楠原氏は「烏」は「ア」と読んでいるが、「奴」は相変わらずあり得ない「ナ」を採用している。確認してみたら「洛陽古音」が「アナ」だった。氏は「アナ」を「穴」として表意表記として扱っている。

 この国名はアナと読み、豊後国大分郡阿南(あなみ)郷、現在の大分県大分郡庄内(しょうない)町・挟間(はさま)町付近に比定する。

 アナとは何の意味か。大分県南部では小半(おながら)鍾乳洞(南海部(みなにあまべ)郡本匠(ほんじょう)村)・風連(ふうれん)鍾乳洞(大野郡野津(のつ)町)などが知られているが、大分川流域は火山灰台地が卓越して鍾乳洞は見られない。

 アナという地名用語は全国各地にあり、立体的な空間である洞穴とは限らない。関門海峡を古く穴門(あなと)と称したが、これは狭く長い海峡を「穴」と表現したもの。私の郷里の岡山県児島湾も吉備(きぴ)の穴海(あなうみ)と呼ばれたが、これも狭い水路で隔てられた海面を穴に見立てたものである。

 大分川は、阿蘇(あそ)火山・九重(くじゆう)火山群や由布(ゆふ)岳の噴出物に覆われた台地を深くえぐって流れる。谷底には細く長い平野がつづいており、そうした狭長な凹地をアナと呼んだのであろう。

 この地は後世、『和名抄』豊後(ぶんご)国大分郡阿南(あなみ)郷の地で、「烏奴」はアナミの音写か。もう一つの可能性として、現・挟間町の大字赤野(あかの)の地名が関係するのかもしれない。その場合はアカノのカを助詞とみなして省略したとも考えられるからである。

弥生末期の集落址

 阿南郷の域内には、弥生末期~古墳時代前期にかけての集落址が多数点在している点が注目される。

 まず現・大分市賀来(かく)の賀来中学校遺跡は大分川に支流の賀来川が合流する低地にある弥生後期後半の環濠集落址で、幅4m・深さ2mの規模のⅤ字溝に囲まれる。挟間町でも、大字向原(むかいのはる)の挟間中学校遺跡や赤間遺跡など、弥生後期~古墳時代前期の集落遺跡が点在する。阿南郷で最上流部に当たる現・庄内町にも、猪ノ原遺跡など弥生期の集落遺跡が散在している。


 いま私は「烏奴国」比定に大変悩んでいて、あるいはと思っていたが、やはり参考になるような説はなかった。

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この記事へのコメント
倭人伝の「倭国は周施五千余里」を古田説に従い短里とすれば400キロ超位。四角なら一辺100キロ、「方」と言わず「周施」とあるので円形とすれば直径130キロ。
南北は博多湾から熊本南部、東西は大分から長崎位がせいぜいでしょう。「阿蘇山を中央とする国名が幾層にも連ねられていた」というように阿蘇周辺の各国を21国候補とするなら、その南辺で古代から石材で有名な「馬門石」を算出するのが「宇土市網津町馬門」。
その「宇土」でしたら烏奴(の)国の資格があるのでは。いかがでしょう。
2012/09/07(金) 18:04 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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