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《続・「真説古代史」拾遺篇》(109)



「倭人伝」中の倭語の読み方(52)
「21国」の比定:(21)鬼国


 「鬼」の意味については「俾弥呼と崇神の接点(2)」で詳しく論じているので繰り返さない。訓みは「キ」しかないので「鬼国」・「鬼奴国」は「キコク」・「キヌコク」と訓むことになる。

 しかし、ここで検討すべき問題がある。官名に使われている「卑狗」を「ヒコ」訓んでいるのだから、「呼」は「コ」ではなく「カ」と読むべきだという論理と同じように、いままで「支」を「キ」と訓んできたのだから「鬼」は「キ」と違う訓みにしたい。しかし、「鬼」には「キ」以外の音はない。このことから、「鬼」を単なる表音文字ではなく、表意文字でもあると考えるほかない。そうすると「蘇の三国」と同様、「鬼国」と「鬼奴国」は「鬼の二国」ともいうべき関係深い二国ということになる。しかし、この「支・鬼」問題も「井の中」では全く問題にされていないようだ。

大家たちの諸説

新井白石
 肥前国基肄(きい)郡 「邪馬台国」九州説者
牧建二
肥前国小城(おき)郡
宮﨑康平
 「クイのくに」と訓み、「鬼」は「キ」に近い「クイ」であるとし、「クイ」とはクヒの転訛で、干満の差がはなはだしい有明海では、河口から遥か上流まで、大きな海嘯をおこす(海嘯とは満潮の際に遠浅の海岸、とくに三角形状に開いた河口部〔マウス地帯〕におこる高波のこと)。川岸にも相当の干潟をのこす。菊池川のことを干満のはなはだしい川という意味でクイの川といったのであろうとし、鬼国は、肥後国山本郡および玉名郡のうち、現在の熊本県鹿本郡の菊池川以南の大部分と、玉名郡の一部に比定する。そしてこの国は、川辺の一部をのぞき、畑作を主とし、狩猟などによっていた国で、『記紀』にみえる紀臣という氏族の故郷の地はここであるという。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
 尾張国丹羽郡大桑郷または美濃国山県郡大桑郷
山田孝雄
 紀伊国
米倉二郎
 安芸国

 宮﨑氏以外は「キコク」と訓んで、「キ」音を含む地名を探しているようだが、内藤氏の比定地「大桑」がどこから導き出されたのか、私にはさっぱり分らない。

 宮﨑氏の「クイ」という訓みは可能なのだろうか。『まぼろしの邪馬臺国』を直接調べてみたら、漢音呉音ともに「クィ」としている。「鬼奴」は「クィド」と訓んでいる。「クィ」という音を選んだ理由は「鬼奴国」のところで論じていた。「支」を「キ」と訓んできたことを問題にしいる。先にこの問題を取り上げる人が「井の中」にはいないようだと書いたが、宮﨑氏が取り上げていた。次のように述べている。

 鬼の読み方が、単なるキの音(おん)であれば、他にも倭人伝の中に使用されている「支」でもよかったはずである。諸橋轍次先生の大漢和辞典を開くと鬼の発音は「〔集韻〕矩偉切」と書いてある。これは矩(ク)の音と偉の音を合わせた発音をせよという意味で、集韻はその出典である(集韻というのは宋代に勅撰された10巻からなる53,525字を集めた本)。

 同じく支のキの音(おん)を調べてみると「〔集韻〕翹移切」とある。これは翹(ケウ)と移(イ)の合体音で初めから日本語のキの音である。こう説明すれば、どなたにも理解されると思うが、鬼の字はいたずらに倭人伝特有の蔑んだ意味だけで使用されているのではない。冒頭の読みもそのため、単なるキと違うことを明らかにするためにクィと付しておいたのである。

 私の「反切」理解では「矩偉切」も日本語の「キ」という音でなければならない。それなのに「単なるキと違うことを明らかにするためにクィと付しておいた」と言っている。つまり、「支(キ)」とは区別するために「鬼(クィ)」としておくという意味だろう。それならこれは宮﨑氏が便宜上そうしただけであり、三世紀の陳寿や倭人が「クィ」と訓んでいたということにはならない。それなのに、「クィ」をもとに比定地を論じるのは不当だ。しかし、その議論の中で有明海や菊地川の特徴を詳しく論じている部分は参考になるので読んでおくことにする。なお、氏の「鬼奴国」比定地は
「肥後国玉名郡。現、熊本県玉名市を中心に荒尾市を含む玉名郡一帯で菊地川流域に広がっていた国」
である。

 そこで今度はクィとは一体どんな意味だろうかということになる。単なる杭や食いの意味でもなさそうだし、奴の呉音のヌの音が、野に転じたり、水田を表わすナとなっていることから、鬼奴と結合している点からも考えてみなければならない。

 前にもたびたび説明してきたように、クィのクは河のことである。奴は水田地帯のことであるから、川と水田地帯との間にクィのイをからませて現状の地形にてらして考えてみよう。

 ここには九州でも屈指の熊本県の母なる菊池川が南北に流れている。そしてこの川には五メートルを越す有明海の激しい満干の差で相当に強い海嘯(かいしよう)が起きる。大潮の満潮のときなどは、はるか上流まで海水が遡行するのである。したがって干潮時には河口一帯が一変して広い干潟となる特異な川なのだ(特異といっても有明海と八代海に注ぐ川はみな同じだが、ここでは他地方の川に対して著しい特徴があることをいっているのである)

 こうしたことからクィのイは干潟のヒのh音が消えて母音だけが残り、クヒがクィとなったものと考えられる。現在の菊池川もその名の起こりは、この干潟になる鬼(クィ)が河口になっている川という意味でキクチ(鬼口)と呼ばれたことに始まるのだと思う。

楠原説
『[鬼](き) - 福岡県朝倉(あさくら)郡杷木(はき)町池田(いけだ)・白木(しらき)付近』

 楠原氏は「鬼(キ)」=「城(キ)」として、次のように論じ始めている。(「城」の上古音・中古音には発音記号が付されているが省略した。)

 この国名はキで、「城」の意味の語であろう。漢字の「城」の字音は上古音(発音記号)、中古音(発音記号)だから、キと発音するのは字音ではない。和語としては「牙」の意のキに通じるかとも思われるが、『岩波古語辞典』は「城」のキは乙類、「牙」のほうは甲類で別語源とする。

 その語源については、金沢庄三郎(かなざわしようさぶろう)『日鮮同視論』は「防備物で四辺を取り囲んだ一郭の地の名で、満鮮語と同系の語」と述べる。また、『岩波古語辞典』は百済(くだら)の語ではないか、としている。

 このキ(城)という語が、いつから和語に入ったか。北九州の倭人は大陸・半島の住民とは近隣関係にあったから、弥生後期の倭語ではあったろう。

 倭人が後世でいう「城」的な構造物、その所在地をキと呼び、それを当時の中国人が「鬼」の字で音写した、と見る。

 「牙」を持ち出したのは「鬼」からの連想だろうか。氏は「牙」という字について、この場合の「キ」は甲類と言っている。私の調べた範囲では万葉仮名の「牙」は「ゲ」である。念のため『万葉集』『古事記』『日本書紀』に当ってみた。「牙」万葉仮名として使っている例は意外と少ない。『万葉集』には2例あった。
1809番 牙喫建怒而 きかみたけびて
3489番 之牙可久尓 茂(しげ)かくに
 1809番は「キ」と訓んでいるが、「牙喫」(牙で噛む)という意味でどちらかというと表音仮名ではなく、表意文字だろう。例えば「天智紀」10年10月条に「象牙」いう言葉が出てくるが、「キサノキ」と訓んでいる。3789番の方は明らかに表音仮名であり、「ゲ」である。

 『古事記』では表音仮名として使われているのは「當藝志美美命の反逆」の段の歌謡中の一例だけである。
許能波佐夜牙流 木の葉騒(さや)げる
 「ゲ」である。『日本書紀』には仮名として使われている「牙」はない。

 なお、氏は「支」を「キ」と訓んでいるが、これとの「鬼」との関係には全く触れていない。

 ついでなので「城」の訓みについて少し調べてみた。

 漢字としての「城」の訓みは「セイ」「ジョウ」である。韓国ドラマを見ていると「城」は「ソン」と発音しているようだ。「セイ」→「ソン」という音韻変化と説明できそうだ。すると「城」を「キ」と訓むのは日本語だけの訓みなのだろう。「柵」を「キ」と訓むのも日本語だけだろう。倭語ではおそらく縄文時代(あるいは石器時代にまで遡るかもしれない)から柵(さく)を「キ」と呼んでいた。その「キ」が後に軍事的な砦としての大掛かりな建築物・城にも適用されることになったのではないだろうか。面白いことに「城 キ」は万葉仮名としてたくさん使われているが、「柵 キ」は万葉仮名ではないのだった。

 「城 しろ」という意味で「城」が使われているのは『古事記』ではあの沙本毘古王の「稻城(イナギ)」だけだ。『日本書紀』では「稻城(イナキ)」のほかには「斉明紀」以降に「城」が現れるが、どういうわけか百済・高麗の「城」はすべて「サシ」と訓んでいる。現在の「ソン」とは異なるが、古代の朝鮮では城を「サシ」と訓んでいたのだろうか。日本列島の城ではあの「水城(みずき)」が初出で全て「キ」と訓んでいる。例外は羅城(らじょう)だけである。

 さて、氏は「鬼国」を朝倉市杷木町に比定している。私はこの地を「已百支国」の比定地にした。氏の説明文にはこの地の地勢や歴史が詳しく書かれているので、訓んでおくことにする。
 そのキ(城)はどこにあり、キという国の位置はどこだったのか。私は初め、七世紀に築城された朝鮮式の山城・基肄(きい)城がある肥前国基肄郡かと考えていたが、時代的な錯誤の問題とさらに21国中の「支惟」との関連で決めかねていた。

 ところが、弥生後期の後半にキとよばれていた地があったのである。その遺構は、九州横断自動車道の建設工事中に、福岡県朝倉郡杷木(はき)町池田から発見された。

筑後川北岸の軍事拠点

 筑後川が大分県境の山地を抜けて筑後平野に流れ出た北岸に現・朝倉郡杷木町がある。筑後川が曲流する北岸、東の大分県日田(ひた)市境は三日月(みかづき)山 (標高496.7m)を主峰とする山塊が張り出し、西の朝倉郡朝倉町との境界には上座(かみつくら)郡内唯一の延喜(えんぎ)式内社である麻底良布(までらふ)神社が鎮座する麻底良山(標高294.9m)がそびえる。

 町域内は、北の山地から筑後川に注ぐ二支流の赤谷(あかだに)川と志波(しわ)川の谷に区分される。

 町内東部の池田(いけだ)・林田(はやしだ)地区は古代の上座郡七郷のうち杷伎(はき)郷に比定され、また古代駅制で太宰府から豊後国に通じる豊後道の杷伎駅が置かれていた。

 町内の東端、穂坂(ほさか)地区には筑後川に臨む丘陵上に杷木神籠石(こうごいし)遺跡があるが、その築造年代は七世紀後半の斉明(さいめい)天皇の朝倉橘広庭(あさくらのたちばなのひろにわ)宮への行宮(あんぐう)の時期と関連づけられるので、「倭人伝」の「鬼国」とは時代的に関連はない。

 杷木町池田の西ノ迫(にしのさこ)遺跡は、近年、九州横断自動車道の工事中に発見された遺跡である。その後の調査により、この遺跡は弥生後期後半の高地性集落址であることが判明した。標高130m、周辺の低地より比高差にして85~90m高い尾根の端に、幅1.3~4m、深さ1~1.5mの環濠をめぐらせた遺跡である。

 ただし、この遺跡からは竪穴住居跡は三軒分しか見つかっていない。集団生活の痕跡が希薄であることから、見張り用などの防御的軍事施設址ではないか、という。しかし、これだけの施設を必要としたこと、そして施設の建設・維持・管理のためにも、付近にしかるべき規模の集落があったものと思われる。

 というよりも、前述したような隔絶された地形条件を考えれば、現・杷木町一帯に弥生後期の「国」が存在していた、と見るべきであろう。

 池田地区に隣接する同町林田・穂坂地区などには弥生土器が散在していた。後世、杷木神籠石や古代駅制の杷岐駅がつくられているから、弥生期の遺跡はある程度破壊されているだろうが、やがて新たな発見があるかもしれない。

 なお、池田地区の北に隣接する白木(しらき)地区は、江戸期には池田村とほとんど一体の村とみなされていたらしい。

 シラキとはトウダイグサ科の落葉小高木が生えていたからとか、新羅(しらぎ)からの渡来人云々などという地名起源説には私は与(くみ)しない。そんな幼稚園児でも唱えるような稚拙な説を克服するために、私は何十年も地名に取り組んできた。

 このシラキという地名については、シロ(城)・キ(城柵)と同義語を重ねた地名の可能性も大いにありうる、と指摘しておく。

 神籠石の「築造年代は七世紀後半」という「井の中」の誤説が未だに大手を振ってまかり通っている。
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古田氏が九州王朝の九州東岸征服譚とされる「景行紀」に、「冬10月に碩田国に到る。其の地形広く大にして亦麗し。因りて碩田と名づく。碩田此れをば於保岐陀と云ふ。速見国に到る。女人有り。速津媛といふ。一所の長たり。」とあります。
碩田は「於保岐陀」で「於保(おほ)」は接頭語、「陀」は宇陀などに見える接尾語で本体は「岐」。次の速見郡には「杵築」があります。この辺を「鬼国」と「鬼奴国」に比定するのはどうでしょう。速見国の速津媛も卑弥呼同様「鬼道に仕え」ていたことは十分推測でき、それで「鬼」の字が使われたのでは・・根拠薄弱ですが景行紀と鬼道の2点からの推測です。
2012/08/31(金) 20:16 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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